私を忘れた父。

朝、家を出て、昼過ぎに母の病院に到着。
母に頼まれた買い物などして、夕方は従姉と一緒
に父の施設へ。

ちょうど夕食中だったので、私も一緒にテーブル
についたが、父は私が誰だかわかっていない。そ
れでも、いろいろ会話していると、同じテーブル
で食事をされている二人のおばあさんも会話に入
ってこられた。

「おじいさんと話しよると、面白いんよ。とんち
んかんなことを言うてじゃけ。年をとったら、誰
でもこうなるんよ。じゃけど、人の悪口じゃない
けぇね、面白いんよ。」

83歳と86歳のおばあさんが、そう言って笑ってく
ださる。ふたりとも頭がしっかりして、お話も楽
しいが、こうしてみると、まもなく96歳の父は見
た目も年のわりには若いのだなぁと思う。

「私は三人の息子を育てたんじゃけど、長男が去
年63歳で肺がんで死んだんよ。私が変わってやり
たかったが、そうもいかんのよねぇ」と、おばあ
さんは身の上話を聞かせてくれた。

先週末、友人と会ったときに、「子どもにとって、
親を見送るということは、年の順に自然の流れで
生きてこれたという意味でも、ありがたいお役目
だねぇ」と話したことをしみじみと思い出した。

「ここまで長生きしてくれて、ありがとう」と、
心の中で父に感謝した。

*きょうは比叡山坂本駅から電車に乗った。
28jun09

医療難民

来月、母が転院する予定の病院に紹介状を持って行った。
短時間で終わるだろうと思っていたら、副院長からゆうに
40分以上は説明があった。パソコンの画面を使って、現在
の医療・介護制度の説明から始まり、疑問だらけのその制
度の中で、この病院はどういう信念で、どういう方針で患
者を受け入れているかを説明され、それを納得した上で手
続きをしてください、とのことだった。

数年前から厚労省が、医療費を削減するため(その分、介
護費につけ代えるだけなのだが)、いわゆる「社会的入院」
患者を減らす方針を打ち出した。さほどの医療が必要のな
い高齢者を、病院ではなく自宅か介護施設へ誘導する政策
らしいが、国が決めた線引きでは実は医療を必要とする患
者(つまり、介護施設が受け入れを拒むような高齢者)ま
でが病院を追い出され、行き場のない「医療難民」になる
という。

こういう実態を現場の医師たちは、みな疑問に思っている
らしい。少なくとも、この副院長、そして現在の母の主治
医も。そして病院にも国は目的別のカテゴリー分けをして、
国の求める基準を満たさないと、そのカテゴリーをはずさ
れるらしい。なので、「本来なら現在の主治医の先生は、
医療者として最後まできちんとお母さんのことを診たいと
思っていらっしゃるでしょうが、制度として無理なのです」
ということらしい。

幸いなことに、現在の病院と、この病院は互いに連携して、
密な連絡をとりあっているとのこと。母が退院できる状態
になれば、責任をもって受け入れ体制のある施設を捜しま
すとも言われた。

矛盾だらけの制度の中でも、信念をもって働いている方々
がいらっしゃるお陰で、なんとかこの国の医療・介護制度
はもっているのか…と複雑な気持ちだ。母はラッキーなこ
とに医療難民にならずにすみそうだけど。

ちょっと離れた町にある病院まで、なんと友人が車で迎え
に来てくれた。ちょうど彼女も帰省中で、きょうは時間が
あるからと。去年、お母さんを看取った彼女も、医療制度
の矛盾を訴えていた。(苦しんでいたお母さんが退院させ
られ、次の病院は自力で探さねばならなかったそうだ。)

この国のあり方に憤慨しながらも、まっとうな人たち、温
かい人たちに会えて、心が救われた一日だった。ありがとう!

*新球場(新幹線から)
23jun09

父の戦争中の思い出@南大東島

きょうは父の施設に介護認定のための市の調査員の方や、
在宅時のケアマネさん、母を担当してくださっている包括
支援センターの方、そしてふたりが一緒に入れる可能性の
ある施設の方が次々と来てくださった。今後どうするか、
考えていくためだ。

今では誰が誰なのか容易にはわからなくなってしまった父
だが、ふたりきりでしばらく一緒にいると、少しずつわか
ってきて、昔話を始めてくれた。もう何度も聞いた話だが、
きょうはいつもより詳しい。

終戦間近に徴兵されて南大東島にいた時の話だ。「わしら
は年をとった、上等じゃない兵隊じゃったけぇ。あの島に
行っても敵は来ゃあせん。食べ物がないけぇ、やること言
うたら、芋を植えたり、魚を獲るくらいよ。ひとりで坂を
おりて貝や魚を獲りよったら、バシャ~ッと大きな波がき
てさらわれて、ああ、しもうた、もうこりゃダメじゃ…思
うたら、おクワさん(母親の名前)がわしの名前を呼ぶ声
が聞こえた。それで我に返ったら、目の前に岩があって、
それで助かった。あの声が聞こえんかたったら、海に流さ
れて死んどった。郷里におったおクワさんの声がなんで聞
こえたんか、いまだにわからんのんよ。」

そして、「『天皇陛下万歳!』て言よーたが、ほんまは
『おクワさん、万歳』じゃったんよ」と言うと、にま~っ
と笑った。「わしが無茶して生きよったけ、おクワさんが
名前を呼んだんじゃろうの~。あんたも、何かあったら(
母親に)名前を呼んでもらえーよ」。

少し元気を取り戻した母も、同室の方々などの身の上話を
聞いて、自分の幸せをつくづく感じたと話してくれた。両
親を早くに亡くしたので苦労はあったが、小さい頃は母親
にとことん可愛がってもらった思い出しかないと。末っ子
の母は夕飯後も母親に抱っこしてもらい、毎晩のように仲
のいい両親のお喋りをなんとはなしに聞いていたという。

そして私も母と同じような子ども時代を過ごさせてもらっ
た。だから、小さい頃から私の夢は「お母さんのようなお
母さんになること」だった。それがかなっているかどうか
は息子に確かめないといけないが、とりあえず、私はずっ
と幸せだ。

何歳になっても、みんな「お母さん」への思いは変わらな
いのだなぁ。

*母の病院に救急ヘリが到着!
22jun09

初めて知る親戚の存在

雨の中、消防団の訓練を終えて夫がお昼前に戻って来た。
私は午後から広島に向けて出発。母の具合がどうなって
いるか心配していたが、意外なことに、すべての管がと
れて、顔も少しふっくら。出される食事はほぼ完食でき
るようになったという。わずか一週間で、こんなに変わ
るのか…と嬉しい驚きだ。

その後、従姉から報告事項があり(きょうの午後、私た
ちを代表して田舎の役所の会合に出席してくれたのだ)、
今まで知らなかった神戸在住の親戚に出会った話などを
聞いた。私たちが知らないだけで、ルーツを同じくする
人が、あちこちにいるのだと思うと、まさに人類はみな
兄弟!の気分。

遅くなったので、父も伯母ももう寝ているだろうと、施
設に行くのはやめにした。
父の日のプレゼント(?)は、明日渡そう。

21jun09

心の折り合い(介護とは)

認知症が急激に進んだ父は、施設内で他人の部屋に
入ったり、いろいろ迷惑をかけたらしい。方向感覚
がなくなって、自分の部屋がわからなくなるようだ。
それから、母だと思って後をついていったら、違う
人だった…とも私に話していた。

日曜日に会った時には急激な変化に驚いたけれど、
月曜に会いに行くと、おかしなことは言いながらも、
母の具合はどうか?と訊いてきた。そして日曜も月
曜も、孫がどうしているかと質問してきた。そして、
ぶつぶつ不満を言いながらも、顔はにこにこ笑って、
結局このままでいいと言う。私が帰らないといけな
いと告げると、気をつけて早う行きんさいと手を振
ってくれた。

自宅に戻ると、両親がどうしているだろうかと心配
になる。実家にいれば、今も顔を見に行けるのに。
逆に実家に帰省中は、夫や子供に寂しい思いをさせ
ていると、これまた心苦しい。どちらにいても、心
は落ち着かない。身体がふたつあればいいのに。

きょうも今後のことを含め、何人かの方に電話をし
て情報やアドバイスをいただいた。介護制度につい
ては、いまだによくわからないことだらけで、人に
よって「これは誰がするべき仕事か」の解釈が違っ
ていたりする。それでも、皆さんに共通するのは、
「家族が家で面倒をみるべき」とは思っていないこ
と。むしろ皆さん、私が無理をしないように気遣っ
てくださる。「遠いんだし、子どもさんもいるんだ
し、頻繁に来るのは大変だから、人に任せられるこ
とは任せなさい」というようなことを、何度も言わ
れた。「手はかけずに、愛情をかけろ」と。

あとは自分の心の折り合いをつけるだけ。
「人間、どこにいても同じ」と言っていた私なのに、
いつもふたり二人三脚で仲良くやってきた両親が、
離れ離れになったのが、切ないのだ。むしろ当人た
ちの方が、十分に覚悟もできて、今の状態を受け入
れている。

よくよく考えれば、私が自分の家庭を大切にするこ
とが、両親が一番喜ぶことなのだと思う。あんなに
孫のことが気になるんだから。

実家の事務所を借りてくださっている社長さんは、
「介護は人から人へと繋いでやっていくもの」とい
うのが口癖。利用できるものは何でも利用して下さ
いと、本当に親身になって相談に乗ってくださる。
両親のお陰で、いろんな方と繋がって、いい勉強を
している気分。

午後の雷雨の後、夕方やっと晴れてきた。私の心に
も陽射しが射し込んできたようだ。

*やっとデジカメも戻ってきた。
16jun09

16jun09-2

誰のための医療、介護制度?

昨晩は施設近くのカフェで、従姉と楽しい夕食をした。
うちではまだ朝晩こたつを入れているのに、ここは夜
になっても暑い!(少なくとも私には!)そしてきょ
うも雲ひとつない快晴!

朝は母の主治医の先生と、病院のソーシャルワーカー
の方と面談。昼前にうちの事務所を借りてくださって
いる介護事業者さんに挨拶に行ったら、「何でも相談
して下さい!」と、心強いお言葉。午後は父の施設の
方とも話して、その後、母の病院で介護認定のための
市の調査員の方と面談。手伝いをお願いしている元ヘ
ルパーさんも同席してくださった。

とまあ、ほんとにいろんな人のお世話になっているの
だが、現場の皆さんが一様におっしゃっていたのが、
医療・介護制度への疑問。

「制度では医療が必要な人とそうでない人と線引きし
ろと言うんですが、人間、年をとったら誰しもガタが
出てくるし、そんなのきっちり分けられるわけがない。
人間なんだから。机の上だけで考えて作ったとしか思
えない。」
「いろいろ制度が変わるんですけどね、それでいった
い誰が得をしているのか…本当に介護が必要な人が困
る結果になったりしてね…」

せっかくの制度なのに利用者が困惑するほど複雑だし、
縛りが多くて、結局、誰のための制度なの???と私
も思う。頭のいい官僚たちが、なんでシンプルなもの
を作れないのか!?

結局、いろいろな方のお話を聞いて、つくづく思うの
は、「現場を知っている人が一番頼りになる」という
こと。だからお役所は頼りにならないのね。

衰えていく両親。現実は厳しい!

二週間ぶりに帰ったら、母の病状は悪化し、父の認知症は
驚くほど急激に進行していた。ときたま顔を見に行ってく
れる従姉も、父の急変ぶりにショックを受けるほど。二週
間前に従姉と私と一緒に、母の見舞いに行ったことも父は
覚えていない。最初は私のこともスタッフだと思っていた。
名前を告げるとわかってくれたので、ほっとした。しかも、
「○○はもっと古い顔をしとると思うとったけぇ。若いけ、
わからんかった!」と笑わせてくれた。
しかし…二週間前にはまともなことも半分は言っていた父
なのに。

一時は少し体重が増えた母も、またげっそり痩せてしまっ
た。今後、退院しても自宅生活は無理だから、なるべく父
と一緒に入れる施設を探して欲しいと言っていたが、今は
もう別々の施設になっても仕方ないと、覚悟しているよう
だ。

ふたりの状況が違うので、同じところというのはなかなか
難しい。「なるべく家で死にたいね、なるべく最後まで一
緒にいたいね」と思っても、現実的には厳しいようだ。

とりあえず、ふたりとも身体のどこかが痛いとか苦しいと
いうことはないので、それだけはよかったのだけど。

父の施設からの電話にドキリ

このところ、小さな急ぎの仕事をちょこちょこやっているのだが、きょうはちょっと一段落。

父がお世話になっている施設から電話が入り、ドキリとしたが、リハビリ用の靴を購入したいというお話で一安心。とりあえず今のところ、介護関係のスタッフの方で感じ悪い人に出会ったことはないのだが、電話をくださった方は中でも特に明るくて、感じがよくて、こちらまで気分が明るくなる。父が新しい靴のことを喜んでいたとか、施設での生活にも慣れてきた様子だと教えてくださった。

そんなわけで、きょうは久々に読書をしている。ちょうど夫も残業だし。自分の年齢を考えると、いろいろ焦ってしまうのだが、今後のことをいろいろと考え直す機会にしたい。

*デジカメを修理に出したので、写真なし!

老父、ショートステイ先で妹と出会う

私も従姉も昨晩は思わぬ夜更かしをしてしまったが、今朝ちゃんと待ち合わせて、一緒に施設に行った。従姉が車椅子に乗った叔母を、お茶を飲んでいた父のところに連れてくると「お兄ちゃん」と呼びかける。父と一緒にお茶を飲んでいたおばあさんが、「妹さんがいると言ってたのは、この方なのね」と話しかけた。

従姉によると、父はスタッフの方に「妹をよろしくお願いします」と言ってたらしい。自分もお世話になってるくせに、兄の自覚が蘇っているようだ。

その後、従姉も一緒に父を病院の母のところまで連れて行ってくれた。前回よりも母が元気そうになっていると、父はさらに安心したようだ。今回も広い病院内を車椅子なしで、自分で歩いた父の方がよっぽど元気なのだけど。

私と従姉は一緒に電車で広島に出て、お昼ご飯を食べてから別れを告げた。昨晩のファミレスといい、きょうのフードコートといい、従姉にとっては初体験だったらしい。

父のショートステイを始め、何歳になっても初体験することはいろいろあるのだ。

*カープの大ファンの従姉が持たせてくれたお土産。「打たせま煎餅」や「カープ最中」など。
31may09-1

*こちらは連休中のマツダスタジアム。ユニコーンの看板にメンバーがサインしているらしい。
31may-09-2

従姉と再会!

土曜出勤の夫が少し早めに帰宅してくれたので、
私は昼過ぎに家を出て、広島へ向かった。

駅から直接、病院の母のもとに行き、母が夕飯
を食べ終わるまで、いろいろと話をした。

父の施設は8時頃まで面会可能ということだった
ので、急いで駆けつけると、スタッフの方から
「○○さんもいらしてますよ」と教えられた。
同じ施設に入所している叔母(父の妹)のとこ
ろに、従姉が来ているらしい。

彼女と私も本当に久しぶりの再会だ。何年か前
までは帰省の度に会っていたのに、叔母の介護
が必要になってから、なかなか自由がきかなく
なっていたのだ。

叔母は数ヶ月前から入所しているので、従姉は
すでにここの「顔」となっているらしい。偶然、
スタッフにご近所さんもいるらしく、「もう帰
るなら、私の車に乗って行く?」と誘われていた。

親切な誘いを断り、きょうはふたりで夕飯に行
くことになった。(叔母も父も、8時前にすでに
すやすや眠っていたのだ。なんと健康な兄妹!)
8時も過ぎたので、家の近くのファミレスに入り、
おばちゃんふたりで延々と話しこんでしまったよ~。

*鹿に若芽を食べられたけど、花が咲いた!
30may09-1
*大津側から見た比叡山。
30may09-2