偶然の繋がり(4)

夏休みに入って、東京から旧友が遊びに来てくれた。20年以上前に留学先で知り合った日本人女性だ。当時、私は独身で彼女はいわゆる駐在員妻だったが、同い年だったこともあり仲良くなって、いろいろ話していたら、私の留学仲間の日本人男性と彼女のご主人が仲良しだと判明。ふたりとも小学生の頃、その留学国に暮らしていて、同じ学年で同じ学校に通っていたのだという。その後も、そのふたりは何かと縁があり、同時期にまた別の国に共に赴任していた。

今回、遊びに来てくれた友人は5,6年前にようやく日本に戻り、子供さんたちも落ち着いたので、母のひとり旅に出てきたというわけだ。そういえば、私が留学後、東京に戻って転職した際、同じ部署でお世話になっていた先輩が、彼女の同級生だった。彼女とご主人は高校の同級生だったが、その(仕事上の)先輩も同じクラスにいたのだと。

ほんとに人って、いろんなところで繋がっているのだ。

そんな彼女と話していて、意外なことを教えてもらった。私は昔から、田舎と街中といった具合に拠点をふたつ以上もって暮らしたいと言っていたそうだ。自分ではまったく記憶にないのだが、確かに今、我が家は3ヶ所に家があるのだ。といっても豪邸ではないし、今ではしょっちゅう行き来しているわけでもないのだが、「願いをちゃんと実現していたんだ、私!」とびっくり。

偶然の繋がり(2)

ずっと昔の話になるが、息子が小学校に上がる一年前、親子で英語学校の子供向けイベントに参加した。そこで同い年の男の子と出会い、ご両親とお話をしてみると、音楽の趣味が同じだったりして、かなり盛り上がった。途中からうちの夫も合流して話していたら、なんと、そこのご主人が同じ高校の一年先輩だと判明し、びっくり。なにせ、ふたりの出身地はここから離れた他県の田舎なのだ。何かご縁があるのかも…と名刺交換して別れたが、そのまま月日は流れた。

さて、その後、我が家がそのご一家と再会を果たしたのは、息子の中学の入学式だった。息子にとっては、受験塾での何人かの友達を除いては知り合いがまったくいない状況。もちろん私たち夫婦に至っては、顔を見知った人さえいない状態で、入学式を終えて帰途につこうとしていたら、なんとなく見覚えのあるご夫婦がいたのだ。「あ、あの英語学校で会ったご一家だ!」と瞬時に記憶が蘇り、声をかけた。お互いに再会を喜びつつ、子供たちを見ると、なんのことはない、ふたりはすでに受験塾で顔見知りだったという。しかも、中学では同じクラスとなった。

やはりご縁がある人たちだったのだ。

スポットライトー世紀のスクープー

この間の連休中に夫と久しぶりに映画館に行こうという話になり、『スポットライトー世紀のスクープ』を見てきた。今年のアカデミー賞の作品賞と脚本賞を獲得した作品。カトリック教会の神父たちが長年にわたって子供たちを性的虐待していた事実を、アメリカの地方紙ボストン・グローブ紙が暴くという実際の出来事を映画化したものだ。

よく出来た映画ではあったが、ストーリー自体はすでに明白だし、華やかな出演者がいるわけでもなく、ものすごいスリルがあるわけでもなく、高揚感がわきおこるでもなく、いたって地味な作品であった。マイケル・キートンといえば、個人的には『ビートルジュース』のイメージが強かったが、近年は次々とシリアスな作品で頑張っているのだなぁと感心した。

禁欲を強いられる神父様の中に、このような行為に走る人がいることは容易に想像がつくような気がするが、それは非キリスト教世界の視点であって、キリスト教世界の人にとっては受け入れ難い衝撃的な事実なのだろうか。カトリック国ではないアメリカにおいてですら、事実の暴露を阻止する巨大な圧力が働いていたのだ。欧米社会におけるカトリック教会の存在の大きさを、改めて実感した。

ところで、私はカトリック系の学校に何年も通ったのだが、今でも思い出す神父様のお話がある。ヨーロッパ出身のその神父様は若い頃に日本に赴任して、以後、半世紀を過ごし、いつも流暢な日本語でお話されていた。
「自分は皆さんの年齢の倍の年月を日本で過ごしてきました。私には子供はいませんが、皆さんが私の子供のような存在です。」
そこまで言うと、神父様は一瞬、黙って考えるような表情を見せ、「私には子供はいないと確信していますよ。保証はできませんけど」とニヤッと笑ったのだ。

私は、その正しい日本語の使い方に感心すると同時に、意外な人間的側面の発露に、なんてチャーミングな神父様だろうと思ったのだが、今にして思うと、あれは日本人相手だから可能な発言だったのかも知れない。

ローソクの芯

亡き母を真似て、仏壇の前でお経を読むのが日課となった。

母が買い込んでいた線香は既に使い終わったが、母や父が亡くなったあとにいただいた数々の線香や、夫がお寺関係からもらってきた線香がたくさんあり、少しずついろいろな香りを楽しんでいる。

ローソクはスーパーで買ってきたものを使っていたが、父の葬儀場で用意された(と思う)ローソクの残りが出てきたので、そちらも使ってみた。ところが、これ、使い勝手の悪いローソクなのだ。見た目はスーパーで買ってきたものと変わらないが、芯がよくない。糸の質が悪いのか、糸の撚り方が悪いのか、燃え尽きやすい。そのため、一度消して、また火をつけようとしても、燃え尽きた芯になかなか火がつかないのだ。なのに、一度、火がついたら、今度は燃えすぎて、炎が大きくなる。安定した灯りを燈し続けるローソクは、クオリティ高いのだな~。

葬儀場はもしかして安物のローソクを使ってたのか・・・!? 葬儀場では、消したり点けたりしないから、構わないのかな?

なにごとも芯がしっかりしていないといけないのだ、と改めて納得いたしました。

瞬間移動装置

前回、この家に暮らすことになった経緯を長々と書いてしまいましたが、この家について運命的と思えることは他にもあります。

今まで暮らしていた賃貸住宅に比べ、この家はずっと広いので、実家の家具等、使えそうなものはこの家に持ってくることにしました。母がいつも座っていたソファや、父が老人ホームに移った際に購入した椅子を始め、たくさんのものを運びました。中でも実家のダイニングの壁面の下半分を覆っていたキャビネットが、我が家のダイニングにぴったりと収まりました。我が家を訪ねた人たちが、この部屋にもともと取り付けられたものだと思うほど。

それから・・・今までは和室がなかったのですが、この家にはりっぱな和室があるので、実家の仏壇も持ってきました。すると、これまたぴったりと収まるではないですか。私の両親はお寺の熱心な檀徒で、母は元気な頃は朝晩、仏壇の前で読経していました。私も両親が病院や老人ホームに移ったあと、実家に帰るたび、母に代わって仏壇に手を合わせていましたが、今ではこの和室で毎朝、仏壇に手を合わせるようになりました。

すると、なんとも心が落ち着くのです。まるで、実家に帰ったのかと錯覚するほど。そして部屋を見回してよくよく考えてみると、この和室の造りや方角が実家の和室とまったく同じであることに気づきました。どちらも西側に窓があり、北側に床の間と仏壇、そして押入れが並んでいるのです。同じ造りの和室に、仏壇を始め実家にあったものを配置したのですから、実家にいるような気分になるのも当然です。

お陰で私は、故郷から遠く離れたこの家で、まるで両親が暮らしていた実家にいるかのように日々を過ごしています。懐かしくて、なんだか守られているような、本当に幸せな気分です。

この和室、私にとっては懐かしい実家への瞬間移動装置となっています。この家と出会えたのも両親のお陰かしら。感謝感謝。

知らない方がよかったこと

昔からなんでも知りたがりの私。どうやらそれは息子にも遺伝しているようだ。それでも、たまに「知らなければよかった」と思うこともある。

たとえば、先日のワンダイレクションのコンサートでZaynに笑顔がないのが気になって、ネットを見たら、体調を崩していたとの記事を発見。以前に撮られた激ヤセ写真を目撃して、ショックを受けた。さらに、昨夏、Zaynがイスラエルのガザ攻撃後にパレスチナ擁護のツイートをしたことで、殺害予告等の嫌がらせを受けたことを知り、くら~い気分になってしまった。世界的に大人気のアイドル(?)グループのメンバーであることは、ただでさえ大きなプレッシャーとなるだろうに、さらにこの時期にムスリムの有名人として欧米で活動することの精神的負担を想像すると、深く同情してしまう。

とにかく、ファンとしては5人の歌声を聞くことができれば幸せなので、これからも歌い続けてくれることを祈るのみ。

もうひとつ、いまだに思い出すたびに心苦しくなる話がある。昨年、父が亡くなったことを知り、故郷の町から知り合いのおばさんが電話を下さった。娘さんが小中高と私の後輩で、彼女が東京の大学を受験する際には、すでに東京で学生生活を送っていた私が受験校まで付き添ってあげた記憶がある。年も違うので、結局、私たちは互いに東京にいながら、その後は特に連絡することもなく過ごしていたが、母とおばさんは近所のよしみでずっとお付き合いしていた。

母が亡くなった時も、おばさんは電話を下さり、私が実家に戻った際に訪ねていらして、ひとしきり母の思い出話をして下さった。当時、私は知らなかったけど、今でいう「ママ友」として、ふたりは時たま一緒に出かけていたらしい。初耳の笑えるエピソードもあった。

ところが昨年、父が亡くなったあとの電話でひとしきり昔話をしていたら、ふとおばさんに、「ところで、○○さんのお母さんはどうしていらっしゃる?」と質問された。○○さんとは私の同級生だ。同い年にも関わらず、昔から私が尊敬してきた自慢の同級生だ。人格者で、成績も優秀で、勤勉な性格で、今では立派な職について活躍されている。近年は彼女が忙しすぎて、ゆっくり会う機会がないのだが、年賀状に書かれていた近況を思い出し、おばさんに伝えた。

「○○さんのお母さん、認知症で大変みたいです。」

驚き、あるいは同情の言葉が返ってくると思っていた私は、おばさんの返答にびっくりした。

「あら、じゃあ、もうダメね」と、同情のかけらもない、投げやりな言い方をされたのだ。何がダメなのか意味がわからず、「え?」と黙ってしまった私に対して、おばさんは説明を始めた。

「昔ね、○○さんとも親しくしていたのよ。それで、何度か頼まれて、貸したのよ、断れなくて。けっこうな額よ。私だけじゃないわよ。××さんも貸していたはず。でも、認知症じゃ、仕方ないわね。もう返してもらえないわね~。」

突然の話に私は言葉を失った。○○さんのお母さんは、私が尊敬する○○さんのお母さんだけあって、いつも凛とした上品な方で、よく和服をお召しになっていて、うちの母と年齢は近いのに、えらく違うもんだなぁと思っていたのだ。その方が認知症になっただけでもショックだったのに、過去にそんなことがあったなんて、もっとショックだ。娘の○○さんは、今も何も知らないだろうけれど、あんなにりっぱに思えた彼女のお母さんには別の顔があったのだろうか。

りっぱな母娘と思っていたけど、裏には何か家庭の事情があったのかも。若い頃の私には何も見えていなかったけれど。今になって、こんなこと知りたくなかったな~と思う。しかも、こんな話、誰にも言えない。だから、余計に切なくて、心苦しいのだ。

後日談(母のお導き?)

息子は小3のとき、友人一家に某学校の文化祭に連れて行ってもらったことがきっかけで、その学校に行きたいと言い出した。当時、山の集落の小さな小学校に通っていた息子にとって、都会の中高一貫校は衝撃の世界だったのだと思う。大勢の若者に、多様な部活、きれいな校舎。中でも、以前、テレビで見たぜんじろう先生の理科実験を実際に体験させてもらえたことが息子にとっては感動的だったようだ。

その学校に入りたい一心で、小5から塾に通い始めたのだが、親としては主に塾情報をもとに我が子の学力を見極めながら、複数の受験校を決めることになる。私としては、別の学校の方が息子向きに思えたが、息子はその学校には見向きもしない。受験日も重なっているので併願は無理。息子は本当に自分が行きたい学校のことしか考えておらず、ほかの学校にはまったく興味を示さず、学校見学にすら行こうとしない。

結局、私が塾で開催された併願可能な近隣の学校の説明会に行き、塾の先生の指導もあって、息子もその学校を併願することを了承した。しかし、そのための対策はいっさいしない。彼の頭にあるのは、第一志望の学校だけ。

もちろん、私も息子の願いが実現するよう、精一杯応援していた。息子なりに頑張っている姿を見ていたら、その思いが叶うよう、私も毎日祈るような気持ちだった。私も息子が受かることしか、考えていなかった。

ところが結果は不合格。実は合格発表を見に行く前になって、息子がぽつりと言ったのだ。

算数の試験中に鼻血が出た。

ええ~、なんで今頃言うの~!? 一番大事な算数、ただでさえ時間が足りない算数で鼻血が出たら、たぶんダメなんじゃない・・・!?」と私の頭の中でいろんな思いがよぎり、ドキドキしながら校門を入ると、やはり息子の番号はなかったのだ。

息子があれほど熱望した学校に入れなかったことは、私にとっても悲しいことだった。なんというか、息子がずっと恋焦がれていた女性への思いが通じず、ふられてしまった様子をつぶさに見てしまったような、なんともいえない切ない気持ちになった。

しかし、今だから言えるのだけど、私は息子の第一志望の学校には一抹の不安を覚えていたように思う。だから別の学校を薦めたりしたのだ。(塾の先生も息子はこっち向きだと、別の学校を薦めていたくらいだ。)

結局、息子は躊躇しながら、近隣の併願校に進学した。お寺の世界しか知らなかった息子にとって、ミッション系の学校というのは想定外で、そういう学校には行きたくないと当初は漏らしていたが、塾の先生の話などを聞いて観念(?)したようだ。しかし、私はというと、実は少し喜んでいた。私はミッション系の学校が好きなのだ。キリスト教のことなど、よく知りもしないくせに、私自身、中学からミッション系に通ったから。熱心なお寺の檀徒だった両親に育てられながら、なぜミッション系だったのか。それは私の母が私が通ったミッション系の学校を高く評価していたから。思えば小学生時代の私も息子と同じうように仏教の世界が当たり前だったため、ミッション系の学校には行きたくなかった。それを母が、わざわざ私を説得してミッション系の学校に入れたのだ。そして今になって、私はそのことを感謝している。

その後、息子が入学を決めたミッション系の学校の校舎に初めて足を踏み入れたとき、私はなぜか懐かしい気持ちになった。ミッション系の学校の雰囲気というのは、どこも似ているのかも知れない。男子校であるにも関わらず、懐かしい場所に帰ってきたような気がして、そのとき確信した。母がここに導いてくれたのだと。

息子は第一志望の受験日に相当、テンパっていたのだろうが、私はいま彼にこう言っている。

ばあちゃんがお前に鼻血を出させたのかも知れないね。こっちの学校に行きなさいって。

by 鳩胸厚子

唇をかみしめて(痔の痛みにも耐えるのだ)

朝いちで子供の塾弁の材料を買おうと、車で近所のスーパーに向かった。落ち込んだときに、つい聞きたくなるのが吉田拓郎の『唇をかみしめて』。といっても、私の場合は2004年10月30日の『ひとり股旅@広島市民球場』の奥田民生バージョンなのだけど。車の中で、これを思い切り大音量でかけてしまった。広島に通った2年間を思い出しながら。入院した母と、それに伴い老人ホームに入所した父と、それぞれに訪ねて、お金の支払いやらの雑用をしたり、旧友に会ってグチったり・・・。そんなことを、あのクリニックの医師は知りもしないくせに、「カイコ~!?」なんて言いやがって・・・。などと、はしたなく心の中で毒づく私。

~心が寒すぎて 旅にも出れなんだ
あんたは行きんさい 遠くへ行きんさい~

この部分で、なぜか私はいつも目頭が熱くなる。子供の頃、自分の育った町が大好きで、「ずっとここに住んで、ここで大きくなって結婚する!」と言っていた私に、近所のピアノの先生が、「厚子ちゃん、ここからもっと大きな世界に出て行かんとダメよ!」と言っていたことを思い出すのだ。あの頃は、「いや、ずっとここにいる!」と思っていたのに、先生の言葉通り、18歳で町を出てしまった。そして親の介護が必要になって、ようやく町に足繁く帰るようになったのだ。

そんな感傷にしばし浸ってスーパーに着いて、急いで買い物をして、レジの列に並んだら、ふと頭上から流れるBGMに気がついた。さっきの曲が頭の中を渦巻いているわけではない。確かにお店のBGMだ。雑音にかきけされそうになるBGMに耳を澄ませたら、やっぱりそう。吉田拓郎の『唇をかみしめて』が流れている! なんという偶然!

私の経験則によれば、こういう小さな偶然があるのは、いい流れに乗っているとき。
きょうの空と同じく、私の心も晴れてきた。

by 鳩胸厚子


年相応(NHKニュースに同級生が出てきてビックリ)

今朝のNHKのニュースに同級生が出た。ちょっとした解説コメントがVTRで流れたのだ。

彼と出会ったのは20代後半の留学先。なぜかその年は、彼や私を含め、同い年の日本人が何人もいた。しかし当時の彼は、私たちと同い年には見えなかった。見た目だけでなく、その話し方といい、振る舞いといい、やけに落ち着いて貫禄があり(太っていたわけではない)、百戦錬磨のビジネスマンの風格だった。なんとなくおどおどしたように見える日本人が多い中で、彼はいつも堂々としていた。

そういえば、私の先輩が初めて彼と会った際、てっきり彼の方が年上だと思って、ずっと敬語で喋っていたそうだ。「だって、どこかの議員さんみたいだったんだもん」というコメントに笑ったことがある。

そんな彼の姿を久々にテレビで見たわけだが、今となっては年相応。年齢がルックスに追いついたという感じ。ということは、逆に彼はあのときからあまり老けていないわけだ。

一方、私は20年前の写真をわが子に見せたら、ぎょえ~っと怖がられてしまった。20年前の姿が怖かったのか、20年間の変化があまりにも大きすぎて怖かったのか、不明である。

*これは穴太積みの石垣でござる。
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運命線-手相観さんの思い出

東京にいた頃は、健康診断のように定期的に(といっても2年に1度くらいか?)手相を観てもらっていた。雑誌の編集をしていた友人が、とても評判がいい手相観さんを紹介してくれたからだ。たまに占いの特集も組む雑誌だったので、彼女の情報は信頼できた。

手相観さんはスリムで小柄で、話し方も静かなのに、言葉はかなり前向きで、人生のちょっとした方向転換をしたいときに、うま~く背中を押してもらった。彼女は、「手相は変わっていくものなので、気をつけて見てみて。自分で手相をいい方に変えたいと、意識してみるのもいいわよ」とも言っていた。

手相ではないけれど、その後、指の内側にほくろができた。ちょうど職場で大きな変化が起きそうなときだったので、手相観さんに会いに行き、その大きな変化を受け入れることにした。

最後に会いに行ったのは、東京脱出を決めて、いよいよ東京を離れる直前。迷いも悩みもなかったけれど、最後にもう一度、お会いしたかったのだ。自分の決断についての最終確認の意味もあったのかも知れない。その日の彼女は、ちょっと疲れた感じに見えた。私の手を見るなり、「いいわねぇ、すごくいいわねぇ、いい感じだわ~」と喜んでくださった。「すべて、いい感じに流れてるわね~」と。私の決断も、「いいんじゃない、すごくいいわ~」と大絶賛。最後はドアの外まで出て、元気でがんばって~と見送って下さった。

ちょっと疲れがたまっていた手相観さんに、感謝の気持ちと、少しばかりのパワーをお返しできたのだろうか。彼女のお陰で、私は清々しい気持ちで旅立つことができた。その後、いろいろあって、結局いまはここでこんな生活をしている。

手相はあれ以来、一度も観てもらったことはないのだが、実は最近、気になることがある。左手の運命線が途中で切り替わり、そこから上の部分だけ、やけにくっきりと、とても目立つのだ。本屋で手相の本を立ち読みしたのだが、結婚を機に運命線が切り替わっているのかも!? これから、ちょっと気にして観察してみようと思う。

実を言うと、手相よりも、指が太くなって指輪が入らなくなったことの方が今の私にとっては大問題なのですが。

*故郷の町
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