リュクサンブール公園にダニエル・デイ=ルイス

あのあとイポリット・ジラルドについて調べていたら、広島を拠点に活動している諏訪敦彦氏と『ユキとニナ』(2009年)という作品を共同監督していた。イッポ広島と繋がっていたなんて…。

で、昨日の続き。話は学生時代に遡る。英米のバンドの来日公演を見たい一心で広島から東京の大学に進学した私は、洋楽好きの広島時代の同級生と一緒によくコンサートを観に行った。そのうち同じく洋楽好きの彼女の友人とも知り合い、音楽の趣味が似ていたので、何度かコンサートに一緒に行った。私も彼女も、Depeche Modeが大好きだったのだ。

その後、私がパリ行きを準備していた頃、彼女もヨーロッパを一ヶ月ほど旅行する予定と聞いて、「パリで会えたらいいね」なんて話していた。それからしばらくして、ようやくパリに落ち着いた私は広島時代の同級生に新たな連絡先を知らせたが、Depeche Mode好きの友人はすでに旅立っていて、私の連絡先を渡せなかったと返信があり、パリでの再会は夢と消えた。

と思っていたのだが、ある日、日本人の友人とリュクサンブール公園を散歩していたら、後ろから「厚子ちゃん?」と声をかけられ、振り向いたらDepeche Mode好きの友人が立っていたのだ! 結局、うちに泊まってもらい、何日か楽しく過ごし、友情を深めることになった。

その後、私は留学先のカリキュラムの一環で、インターンシップとしてフランス企業にしばらく勤務した。フランス語が不自由なせいもあって、イギリス人チームの中で働いていたのだが、ある日、その同僚のひとりとリュクサンブール公園を散歩していたら、目の前を長髪のダニエル・デイ=ルイスが走って行った。それも猛スピードで。わりと寒い時期だったように記憶しているが、確かランニングシャツだったと思う。(一瞬のことで、自信はないけど。)

ダニエル・デイ=ルイス!?」と思わず声を出したら、私の性格をわかった上でか、「落ち着いて。彼に声をかけないように」と同僚は私を制した。実際にはあっという間に走り抜けていったので、声をかける間もなかったのだけど、しばらくすると再び猛スピードでダニエル・デイ=ルイスが現れ、長い髪をなびかせて走り去った。「なんなんだ、これは!?」と思いながら、散歩の間、何度も走るダニエル・デイ=ルイスを見た。当時はイザベル・アジャーニと付き合っていると聞いていたから、パリにいるのは不思議じゃないけど、なぜあんなに髪を伸ばし、しかも猛スピードで走り続けていたのか、不思議だった。

帰国後、ダニエル・デイ=ルイス主演の新作映画を観に行って、その謎は解けた。新作のタイトルは、『ラスト・オブ・モヒカン』。この中で長髪のダニエル・デイ=ルイスが猛スピードで走っていたのだ!! リュクサンブール公園でもモヒカン族になりきって(!?)走っていたとは!!! 噂通りの徹底した役作りに取り組んでいたんだなぁ。

*ちなみに日本では今年5月公開予定の『ファントム・スレッド』で、ダニエル・デイ=ルイスは俳優を引退するそうです。

ビアトリクス・ポターの引き寄せ

去年の秋から機会あるごとに集まる(私を入れて)3人グループがありまして、その都度、「これからどんな仕事をしていきたいか」、「どんな風に生きていきたいか」、「何を引き寄せたいか」等々、お喋りしています。それも単なる井戸端会議ではなく、楽しくも真剣なお喋りで、いつもあっという間に時間が過ぎてしまいます。毎回、刺激的&クリエイティブなアイデアをたくさん持ち帰るのですが、実行力のない私は、いまだいろいろと企画を温めている段階です。

3人の中でも一番、行動力のある友人は、昨年、ピーター・ラビット関連のイベント企画を実現しました。私も参加したおかげで、ピーター・ラビットの作者、ビアトリクス・ポターの人生について、初めて知ることとなりました。19世紀のイギリスの裕福な家庭に生まれながら、自らの興味の赴くままにキノコの観察・研究や、絵本制作に取り組んだビアトリクス・ポターは、その時代としては革新的な自立した職業婦人(絵本作家)として活躍し、また湖水地方の農場経営をしながら環境保全に尽力し、その広大な土地は遺言によりナショナルトラストに寄贈され、そのお陰で湖水地方は今も美しい自然溢れる観光地となっているのです。彼女の人生の物語も、ドラマチックで学ぶところが多く、これもまさに友人のおかげと感謝しました。

実は友人からこの企画の話を聞いて、古い友人からピーター・ラビットピルケースをもらったことを思い出していました。中高時代、親しくしていて、大学でも仲良くしていたのに途中で絶交されて音信不通になり、7年後にパリで偶然再会したという友人です。(詳しくは過去の日記を参照→2011年2月19日2006年3月9日
再会の後、東京で時々会うようになり、よく海外に行っていた彼女から、イギリス土産としてもらったのがピーター・ラビットピルケースでした。彼女は持病のせいで、一生、薬が手放せないと言っていたので、ピルケースは必需品だったのかも知れませんが、当時の私は病気知らずで、そもそもこんな「ピルケース」なるものがあること自体、知りませんでした。しかもピーター・ラビットが好きだったわけでもないし、どうしてこんな(高級そうな)ものを…と不思議に思っていました。そして、ピルケースを使うことのない私は、そのままそのお土産をどこかにしまいこんで、結局、それがどこにいったのかわからないままになっていたのです。

そうしたら、なんと! 昨年の大晦日に大掃除をしていたら、このピルケースが出てきたのです! これもある種の引き寄せでしょうか!?
しかも、私がもらっていたのは「あひるのジマイマ」のピルケースでした。実は、これをプレゼントしてくれた友人とは、お互い、何度も引っ越したり、あちこち移動していたせいで、その後、また音信不通になり、いまどこでどうしているのかまったくわかりません。

それにしても、彼女はどうしてこれを私にくれたのでしょう? 彼女はビアトリクス・ポターのファンだったのか? もしかしたら、自分とお揃いのピルケースをくれたのか? さて今度は、ピルケースの友人を引き寄せなければなりません。

私の東京脱出の理由(阪神淡路大震災の日に)

阪神淡路大震災があった1995年1月17日からきょうで23年である。

あんなに憧れて東京に出た私が、東京脱出を決意したのはその前年の1994年だった。本当は自分自身の問題だったのかも知れないが、当時の東京に閉塞感を感じて、とにかく東京、いや日本を出なければと思っていた。バブル崩壊後の世の中に、なんともいえない厭世観というか、ネガティブな空気が満ちている気がして、どうせなら優雅に楽しく下り坂を転がっていかねば…と思い、そのお手本として一足先に下り坂のヨーロッパを見てきたいなぁと考えていたところ、ひょんなことで中国に行くことになった。本当のところ、私はただあの当時の東京、日本を出たかっただけで、行き先はどこでもよかったのかも知れない。とにかく、あの空気に耐えられなかったのだ。

春に中国に行こうと準備していた矢先に、阪神淡路大震災が起こり、私の東京脱出の決意はますます揺るぎないものとなった。幸いなことに私は震度4以上の地震を経験したことはないのだが、それでもひとりで暮らす東京のマンションの部屋で夜中に震度4の揺れを感じたときは恐怖だった。丸の内や大手町のオフィス街で働いていた頃はさほど気にならなかったのだが、その後、渋谷に通勤するようになってから、渋谷駅前の大きな歩道橋を渡るたび、「いま大地震がきたらどうなるんだろう」と漠然とした不安を抱くようになった。トラックが通過するだけで歩道橋が揺れるので、これで地震がきたら…と思うと、自然と小走りになった。そう思いながら地下鉄に乗ると、またも不安になる。真っ暗なトンネルの中にいるこの瞬間に、地震がきたらどうなるんだろうと。

ひとり暮らしであったことが、一番の不安の原因だったと思う。何かあっても、家族がいれば探しに来てくれるだろうが、ひとり暮らしではどうにもならない。だから「万一のとき、こんなところで死ぬわけにはいかない! 早くここを出なくては!」と思ったのだが、そんなとき地下鉄サリン事件が起こり、私は決意を固くした。

その後、日本に帰国して、京都に暮らすことになったときも、郊外の山に囲まれた物件を借りた。裏に小川と畑があったので、たとえ地震がきても、なんとかなりそう…と思えたのだ。その後、山奥の過疎地で茅葺屋根の古い家(平屋)に暮らし、いまは湖のそばに住んでいる。いつどこで何があるかはわからないけれど、少なくとも東京にいた頃と違い、自然の景観に恵まれた場所で、家族と共に心穏やかに暮らしていることは確かだ。

クリスマスタブロー(というかBCR)の思い出

子供が通うミッション系の学校では、毎年、クリスマスタブローが行われる。とても大がかりな行事で、キリスト教の信者でない私も神聖な空気と、真摯な生徒たちの姿と、すばらしい音楽に毎年、感動してしまう。私の母校もミッション系で、毎年、クリスマスタブローがあったのだが、これほど大規模でもなかったし、私自身、積極的に参加したことがなかったので、ぼんやりとしか覚えていない。いや、それどころかクリスマスタブローというと、悲しい思い出が蘇るのだ。

中学2年の頃、スコットランド出身のBCRベイシティローラーズ)というバンドに夢中になった私は、同じくBCRファンの同級生と仲良くなった。その年の12月、彼らが初来日することになり、私たちは大阪公演のチケットをなんとか手に入れた。公演日は2学期の終業式で、しかもそのあとにクリスマスタブローがある。夕方までに大阪に行くためには、終業式のあとすぐに出発するしかない。そこで私たちは、それぞれに理由をつけて早退するつもりだったのだが、あまりにはしゃぎすぎていたのだろうか。その計画がどこからか先生に漏れて、コンサート行きを阻止されてしまったのだ。

そのときのショックと言ったら…。まさに「クリスマスタブロー、うらめしや~」である。入手したチケットは無駄になったけど、私はそのまま自分のBCRアルバムに記念として貼り付けた。結局、BCRは次の来日公演で見ることができたし、私はあの日、早退しなかったお陰で、中高6年間の皆勤賞をもらったので、めでたしめでたしなのだが、一緒にコンサートに行く予定だった友人とは、その後、高校の途中からBCR熱が冷めるのにあわせて疎遠となった。そして社会人になってからの同窓会で、彼女の訃報を聞いた。確か3人のお子さんを残しての、突然の事故死。

彼女が好きだったレスリーには、日本人の奥様がいて、今年もそして来年も来日公演があるらしいのだが、私にはいまBCRについて語り合える人がいないと思うと寂しい限りだ。

ステーキハウスで上沼恵美子

さらにバブル期の思い出をもうひとつ。

当時、東京の外資系企業もバブルに浮かれていたけれど、本国から来ている外国人スタッフに比べたら、私たち日本人スタッフは地味なものだった。といっても、たまに女子グループでお昼休みにタクシーでイタリアンを食べに行ったり、今思うとバブルだなぁと思うことをしていた。日本人上司も高級外車を乗り回していたり、外国人上司たちは金曜のお昼になると、アメリカンクラブ(*会員制の社交クラブ!)にランチに出かけて、午後の遅い時刻に赤ら顔で帰ってくる…なんてことも。会社の年末のパーティは東京湾クルーズで、イブニングドレスで現れた女子もいてビックリ。

私自身はある目的のためにそれまで貯めたお金をほぼ使ってしまったので、かなり地味な生活をしていたと思うが、さすがに新入社員の頃に比べると余裕はあった。それでも、普通に電車で通勤して、高級レストランに行くことも滅多になかった(誰かに誘われない限り)。

なぜか学生時代からの友人は、マスコミ関係、特に出版社に就職した人がたくさんいて、彼女たちに会うと、いつも華やかな空気を感じた。もともと華やかな人たちがマスコミの世界に入るのかも知れないけれど、当時は今と違って(失礼!)本当に華やかだった。お給料の額は知らないけれど、とにかく「経費は使い放題」という感じだった。(実際、どうだったかわからないけれど、少なくとも傍から見ていて。)だから、近所に住んでいた編集者の友達と出かけると、いつも帰りは一緒にタクシーに乗せてもらえた!

そんな編集者の友達にステーキハウスに連れて行ってもらったことがある。おしゃれなホテルのお店でもなく、高級感漂うレストランでもなく、老舗の小さな、地味だけど本当の意味で高級なお店だったのだと思う。なにせ友達は有名作家さん方の接待のために、このようなお店に出入りしていたのだから。

出かけたのは、土曜日の遅めのランチタイム。カウンターだけの小さなお店で、目の前の鉄板でシェフが黙々とステーキを焼いてくれる。こんなお店、私は初めってだったし、どういう理由だったのか、その日は友人とその先輩編集者の方と3人だったので、いつもより緊張していた。一応、私は接待されている方なのに、こちらも接待しなきゃ…となぜか一生懸命、お喋りを始め、いつのまにか、家を出る前に見たばかりのNHKバラティ生活笑百科』での上沼恵美子のトークを再現していたのだ。残念ながら上沼恵美子氏は2013年に番組を降板してしまったが、それまでは毎週、「実家が大阪城」だとか、「フランス生まれ」だとか、荒唐無稽の大ホラ話で視聴者を楽しませてくれていたのだ。その日のネタも、もう覚えていないけど、かなりの爆笑ものだったはずだ。ネタ自体は作家さんが書いているのだが、上沼恵美子が喋るから、あれほど面白いのであって、私では100%再現はできないのだが、それでも友人たちは楽しんでくれた。

さて、トークが終わった頃に出て来たステーキは絶品だった。「生まれて初めて、こんなに美味しいお肉を食べた~」と感激して食べ終えた! すると、ずっと無口だったシェフが最後に、「お客さん、絶対テレビに出た方がいいよ」と私に言うのだ。「え!?」と呆気にとられていると、「さっきの話、ものすごく面白かった!」とおっしゃるので、「いえいえ、だから、さっきの話は本当にテレビでやってた話なんです。それを真似して喋っただけなんです!」と説明したのだが、「いや、それでも出た方がいいよ!」と。

トークの神様、上沼恵美子氏の真似をした私としては、恐れ多くて、そそくさと退散したのを覚えている。そのせいか、いまだにあのお店がどこにあったか、思い出せない。ほんとに美味しかったんだけどなぁ。

「ブルジン」ってなに?(「ブルゾンちえみ」ではない!)

昨日の続きで、東京でバリバリ働いていた20代の頃の話をもうひとつ。

当時、私は英国系企業の東京支社に勤務していて、社内にはイギリス人が何人もいた。その中に、ハゲ・チビ・デブの3拍子が揃った愛らしいスコットランド人のおじさまがいて、社内で人気だった。スコットランド好きの私も、もちろん彼のものすご~いスコットランド訛りを聞くのが楽しみだった。他のイギリス人は、たいていエリート面して、ツンとしたタイプが多いのに、彼はとっても気さくな田舎のおじさんそのもので、相手が部長だろうが平社員だろうが清掃員だろうが、みんなに同じように「おはよう!元気?」と声をかけていた。しかも、ほかのイギリス人よりも早く出社してきて、社内を隈なく見て回る、気配りの人であった。彼はいわゆるエリートではなく(エリートなら、あれほど強い訛りはないだろう)、叩き上げでここまで出世した人だと聞いて納得。この会社に入って以降、旧大英帝国の植民地を転々としてきたらしい。しかし、海外生活がこうも長くても、きついスコットランド訛りはそのままというのは、彼にとってスコットランド訛りは、「訛り」ではなく「誇り」だったのだろう。

彼の訛りはほんとにすごくて、普段はイギリス人上司と問題なく会話している同僚たちが、戸惑うこともしばしば。たとえば、「purpose」が「パルポス」としか聞こえない。一度、会社のパーティにキルト姿で登場した際に、「どういう時にキルトを着るのですか?」と訊かれ、いくつか祝日や記念日を挙げてくれたのだが、最後に「ロベルト・ブルンズの誕生日」と言った際には、吹き出しそうになった。カタカナではイントネーションが表わせないのが残念だが、彼が言っていたのは、スコットランドの国民的詩人、「ロバート・バーンズ」。

そしてある時、会社主催の打ち上げパーティが開催されることになった。女の子大好きのそのおじさまは、当日の昼間、私たちのところにやってきて、「ハウ・メニ・ゲロズ・アー・カミン?」と訊いた。つまり、「How many girls are coming?」 思わず、「ワシらはゲロか!?」と突っ込みたくなった。で、その夜のパーティで、私はおじさまと同じテーブルだったのだが、別のテーブルでは普段は上品で神経質な若いイギリス人が、お酒のせいで顔を紅潮させて、ウェイトレスの女の子に絡んでいた。彼が何か変なことを言ったらしく、回りの人たちがたしなめていたので、私の隣にいた同僚が、「なんて言ったんでしょうね?」と訊くと、スコットランド人のおじさまが「彼女にブルジンかどうか訊いたんだよ」と答えた。同僚が「え?」と聞き返すと、おじさまは「ブルジンかどうか」と繰り返した。それでも同僚がぽか~んとしていると、おじさまが「彼はブルジンも知らないのか。なんと純粋な青年だ!」と笑ったので、同僚は私に真顔で尋ねた。

鳩胸さん、ブルジンってなに?

「だから~、バージンかどうかって訊いたんですよ!」と、私まで赤面するはめに。それくらいすごいスコットランド訛り、懐かしく思い出す。ちなみに、このあと、おじさまは帝国ホテルのレインボーラウンジ(今もあるのかな?)に連れて行ってくれたり、実はロバート・バーンズと同じくフリーメイソンだったり、ただの田舎のおじさんではなかったのだ。真冬の六本木も、全然寒くないと言って、コートなしのスーツ姿で闊歩していたし。

まさに80年代バブリーな私の「ブルゾンちえみ時代」の思い出だ。

ブログ移転の理由

家族で山奥の過疎地に暮らしていた13年前に、このブログ『鳩胸厚子の日記』を始めました。
そもそものきっかけは、当時、夫にデジカメをプレゼントされて、嬉しくて、毎日のように回りの景色を撮っていたので、それを遠くの街々に暮らす友人たちに見せたいという思いから。いきなり田舎に引っ越した私たちが、どんな場所でどんな生活をしているか、知ってほしいという気持ちでしたが、そもそも日記なんていつも三日坊主だった私が、「ブログならもっと長く続けられるか!?」というチャレンジ精神もありました。毎日、文章を書くという訓練を自分に課すという意味もありました。

結果は、自分でも驚くほど長く『鳩胸厚子の日記』は続きました。その間に両親ともに他界し、我が家は二度も引越し、保育園に通っていた子供は高校生となりました。近年はしばらく日記をさぼっていたのですが、今、昔の日記を読み返してみると、自分にとっては貴重な記録となっていることに気づきました。(特に両親の遠距離介護から看取りまでの頃!)しかし、それが無料ブログに書き溜めてあることに一抹の不安を抱き、夫のアドバイスを参考に、自分のページを作って、そちらに移転することにしました。(かなり夫に助けてもらってます!)

誰のためでもない、自分のために書いてきたものなので、他人様に読んでもらいたいというものではないのですが、それでも一応、「他人に読まれても恥ずかしくないものを書く」ことをモットーとしてきたので、過去の日記もまとめてここに置くことにしました。私がパソコンに強くないため、いまだに試行錯誤の繰り返し。しかも寄る年波のせいで、今までにない眼精疲労。作業もなかなか進みません。それでも、今はまた時間ができたので、『鳩胸厚子の日記』を本格的に再始動するつもりです。

最後に、前にも書いたことがあるけど、『鳩胸厚子』というのは私が高校生の頃にできたペンネーム。私の体型を表わした名前です。あれからすでに40年!? でも、中高時代って、いろんな意味で自分の人生の原点って気がします。わが子が今、まさにそんな時期なので、私は羨望の気持ちを抱きつつ、(生)温かく見守っているきょうこの頃。これから、このページがどんどん進化していくよう、頑張ります!

by 鳩胸厚子

LILINA ハワイの恵みから生まれたノンシリコンシャンプー



偶然の繋がり(4)

夏休みに入って、東京から旧友が遊びに来てくれた。20年以上前に留学先で知り合った日本人女性だ。当時、私は独身で彼女はいわゆる駐在員妻だったが、同い年だったこともあり仲良くなって、いろいろ話していたら、私の留学仲間の日本人男性と彼女のご主人が仲良しだと判明。ふたりとも小学生の頃、その留学国に暮らしていて、同じ学年で同じ学校に通っていたのだという。その後も、そのふたりは何かと縁があり、同時期にまた別の国に共に赴任していた。

今回、遊びに来てくれた友人は5,6年前にようやく日本に戻り、子供さんたちも落ち着いたので、母のひとり旅に出てきたというわけだ。そういえば、私が留学後、東京に戻って転職した際、同じ部署でお世話になっていた先輩が、彼女の同級生だった。彼女とご主人は高校の同級生だったが、その(仕事上の)先輩も同じクラスにいたのだと。

ほんとに人って、いろんなところで繋がっているのだ。

そんな彼女と話していて、意外なことを教えてもらった。私は昔から、田舎と街中といった具合に拠点をふたつ以上もって暮らしたいと言っていたそうだ。自分ではまったく記憶にないのだが、確かに今、我が家は3ヶ所に家があるのだ。といっても豪邸ではないし、今ではしょっちゅう行き来しているわけでもないのだが、「願いをちゃんと実現していたんだ、私!」とびっくり。

偶然の繋がり(2)

ずっと昔の話になるが、息子が小学校に上がる一年前、親子で英語学校の子供向けイベントに参加した。そこで同い年の男の子と出会い、ご両親とお話をしてみると、音楽の趣味が同じだったりして、かなり盛り上がった。途中からうちの夫も合流して話していたら、なんと、そこのご主人が同じ高校の一年先輩だと判明し、びっくり。なにせ、ふたりの出身地はここから離れた他県の田舎なのだ。何かご縁があるのかも…と名刺交換して別れたが、そのまま月日は流れた。

さて、その後、我が家がそのご一家と再会を果たしたのは、息子の中学の入学式だった。息子にとっては、受験塾での何人かの友達を除いては知り合いがまったくいない状況。もちろん私たち夫婦に至っては、顔を見知った人さえいない状態で、入学式を終えて帰途につこうとしていたら、なんとなく見覚えのあるご夫婦がいたのだ。「あ、あの英語学校で会ったご一家だ!」と瞬時に記憶が蘇り、声をかけた。お互いに再会を喜びつつ、子供たちを見ると、なんのことはない、ふたりはすでに受験塾で顔見知りだったという。しかも、中学では同じクラスとなった。

やはりご縁がある人たちだったのだ。

スポットライトー世紀のスクープー

この間の連休中に夫と久しぶりに映画館に行こうという話になり、『スポットライトー世紀のスクープ』を見てきた。今年のアカデミー賞の作品賞と脚本賞を獲得した作品。カトリック教会の神父たちが長年にわたって子供たちを性的虐待していた事実を、アメリカの地方紙ボストン・グローブ紙が暴くという実際の出来事を映画化したものだ。

よく出来た映画ではあったが、ストーリー自体はすでに明白だし、華やかな出演者がいるわけでもなく、ものすごいスリルがあるわけでもなく、高揚感がわきおこるでもなく、いたって地味な作品であった。マイケル・キートンといえば、個人的には『ビートルジュース』のイメージが強かったが、近年は次々とシリアスな作品で頑張っているのだなぁと感心した。

禁欲を強いられる神父様の中に、このような行為に走る人がいることは容易に想像がつくような気がするが、それは非キリスト教世界の視点であって、キリスト教世界の人にとっては受け入れ難い衝撃的な事実なのだろうか。カトリック国ではないアメリカにおいてですら、事実の暴露を阻止する巨大な圧力が働いていたのだ。欧米社会におけるカトリック教会の存在の大きさを、改めて実感した。

ところで、私はカトリック系の学校に何年も通ったのだが、今でも思い出す神父様のお話がある。ヨーロッパ出身のその神父様は若い頃に日本に赴任して、以後、半世紀を過ごし、いつも流暢な日本語でお話されていた。
「自分は皆さんの年齢の倍の年月を日本で過ごしてきました。私には子供はいませんが、皆さんが私の子供のような存在です。」
そこまで言うと、神父様は一瞬、黙って考えるような表情を見せ、「私には子供はいないと確信していますよ。保証はできませんけど」とニヤッと笑ったのだ。

私は、その正しい日本語の使い方に感心すると同時に、意外な人間的側面の発露に、なんてチャーミングな神父様だろうと思ったのだが、今にして思うと、あれは日本人相手だから可能な発言だったのかも知れない。