ハリウッドの思い出(これもシンプルマインズ絡み)

もう30年以上前の私の「アメリカ・カナダを回る大学卒業旅行」の出発点は、ロサンジェルスだった。当時、ロサンジェルスにペンパルがいるにはいたが、それほど親しくなかったので、泊めてもらうことは考えていなかった。その頃、東京に住んでいたユダヤ系アメリカ人の友人(そもそもはユダヤ系カナダ人の友人の紹介で知り合ったのだが)がロサンジェルス出身だったので、ロサンジェルスの友人宅に私が泊めてもらえるよう手配してくれた。私の到着時に空港まで迎えに来てくれると聞いていたのだが、いざ到着してみると、迎えはおらず、しかもスーツケースも出てこない。間違えて別の空港に行ったみたいだから、みつかったら連絡すると言われ、宿泊先の住所を知らせ、航空会社のお泊りセットをもらって、ひとり空港を出た。

宿泊先の住所(ハリウッドのどこか)は持っていたので、そちら方面に行くバスに乗った。大柄の黒人の運転手さんに行き先を言って、それらしいところで降りて、だだっ広い道路を渡り、なんとか目的の家をみつけた。今思うと、よく見つけられたな~と感心するけど、よく考えたら、スーツケースが行方不明になって助かったのだ。もし大きなスーツケースを引きずりながら移動していたら、大変だったはずだし、下手すると泥棒に狙われたかも知れない。(スーツケースはその翌日だったか、航空会社が届けてくれた。間違えてラスベガスまで行っていたらしい。)

到着した家の呼び鈴を押すと、感じのいい小柄の女性が出てきた。空港に迎えに来るはずだった東京の友人の友人は留守で、彼女によると、「彼はいい加減だから…」とのこと。そのシェアハウスには3人の住人がいて、もうひとりはBBC記者のイギリス人で、取材で留守にしている間、彼の部屋を使っていいということだった。赤の他人の部屋を留守中に使っていいのか、少し気が引けたが、趣味のいい居心地のいい部屋で、なんと赤いウォーターベッドがあった。ウォーターベッドに寝るのは初めてで、とても不思議な体験だった。

結局、車もないので、ろくな観光もできず、家でのんびりしていたのだが、共用のトイレにシンプルマインズのボーカル、ジム・カーのモノクロ写真が飾ってあるのを発見。先ほどの女性に、「あのジム・カーの写真、素敵ですね」と話したら、あれは自分が撮影したのだと喜んで話し始めた。彼女はしばらくジム・カーと付き合っていたという。私はシンプルマインズが大好きだったので、興味津々で彼女の話に耳を傾けた。

それをきっかけに私たちは仲良くなり、当時、定職に就いていなかった彼女が車で私をあちこちに案内してくれた。あのハリウッドグリフィス天文台や夜のライヴハウスにも。彼女は戦時中にドイツからアメリカに渡った映画監督のお父さんと、イタリアからアメリカに渡ったお母さんの下、ハリウッド近辺で生まれ育ったそうだ。今でも忘れられないお父さんからの誕生日プレゼントは、ポニーだったという。

その後、彼女は音楽を志してロンドンに渡り、イギリス人の彼と結婚し、今もロンドンに暮らしている。そもそもハリウッドの家を紹介してくれた友人とは、いつのまにか音信不通になったけれど、この彼女と私は今も友達だ。彼女がロンドンに渡って以降、何度もロンドンの家に泊めてもらった。あの時、シンプルマインズの話をしなかったら、この友情も芽生えていなかったかも知れない。

ちなみに、私がハリウッドのその家を離れる時、彼女が私のために大音量でシンプルマインズの曲を流してくれたことが忘れられない。(↓私が一番好きだった曲『さらば夏の日』)


Someone Somewhere in Summertime by Simple Minds
(アルバム『New Gold Dream(81-82-83-84)』も傑作! 邦題も『黄金伝説』と洒落ていた!!)

同性婚をしたアメリカのペンパル

ユーレイルパスでのヨーロッパ旅行に続き、私は大学の卒業旅行としてアメリカ・カナダを回った。今度は航空会社の乗り放題パスを使った。空席があれば、その航空会社のどの便にも乗れるというパスだ。満席の場合は、次の便を待つしかないのだけど。そしてヨーロッパの時と同じように、また高校時代からのペンパルを訪ね歩いたのだが、その中のひとりに同い年のデイサという女性がいた。金髪でブルーの瞳の美しい女性で、かつては南部の大都市で暮らしていたが、その頃には南部の中都市の実家に戻り、母親と継父と暮らしていた。

私は彼女の家に一週間ほど泊まらせてもらったのだが、彼女には年上の親友R(女性)がいて、どこかに出かける時は必ずRも同行した。両親と暮らすRの家にも、しょっちゅう行って、長い時間を過ごした。私はなんの違和感もなく、デイサの家族ともRの家族とも接していたが、今でも悔やんでいることがひとつある。それはRの父親が見せてくれた旧日本兵が持っていた英語の辞典。その辞典をどうやって手に入れたか、経緯も聞いたはずだけど、うろ覚えで思い出せない。とにかく私はその辞典に目を奪われた。そこには万年筆で名前が書かれ、持ち主と思われる日本兵の写真もあったからだ。恐らく戦死したと思われるこの日本兵の家族がこの辞典を見たら、喜ぶに違いない。これは、この人の家族に戻してあげるべきだと思ったけれど、いろいろなアンティークと共にこの辞典を嬉しそうに見せてくれたRの父親に、私はそんなことは言い出せなかった。「この辞典を持ち主に返したい」という言葉が出てこないだろうかと、密かに願っていたのだけど。

私が帰国してしばらくしてから、デイサは大学に入り直し、教師の資格をとった。そして南部の大都市の高校に職を得て、Rと共にその大都市に引っ越して新生活を始めた。デイサは、その後、高校教師の団体の研修旅行で念願の来日を果たし、数日間、京都を訪れた際に我が家にも泊まってくれた。その際、いろいろ話を聞いてみると、南部の大都市でついに家を買い、彼女が住宅ローンを払い、Rが主婦として家を守っているということだった。その時ようやく私は、デイサとRは同性カップルだったのだと確信が持てた。京都の街で偶然出会った知り合いのオーストラリア人が、彼女と英語で会話をしたあと、「彼女の使う語彙などからして、彼女はきっとゲイだね」と私に教えてくれたのだが、彼が一瞬で気づいたことに、私は20年近く気づかなかったのだ!!

現在、アメリカではすべての州で同性婚が認められているそうだが、数年前にデイサとRは正式に結婚した。(とフェイスブックで見た。)デイサは今も高校教師として働き、Rも主婦&アーティストとして暮らしている。デイサの継父は亡くなり、年老いた実母が今では大都市の彼女の家に引っ越して、一緒に暮らしている。女3人の生活、楽しそうだ。

初めてのアメリカ旅行で、デイサと過ごした時間を今しみじみと思い出す。日本好きの彼女が連れて行ってくれた日本レストランが、あまりに日本らしくなくて違和感だらけで苦笑してしまったこと。それから、週末の夜に、デイサとRと3人でドライブインシアターに行ったこと。私はこれを一度やってみたかったのだ。その時に見たのは、アメリカの高校の生徒間カーストを描いた『ブレックファースト・クラブ』。この映画の挿入歌『Don’t You』で、シンプルマインズはアメリカでブレイクすることに…。ああ、なんて懐かしい!!

Don’t you forget about me…


*このシンプルマインズのPVに映画『ブレックファーストクラブ』のシーンが少し出てくる!

おっさんずラブ(オランダ編)

私が初めてオランダに行ったのは、もう30年以上も前、大学の夏休みを利用して、ユーレイルパスヨーロッパ各地を旅行した時のことです。高校時代から文通をしていたペンパルの家を訪ね歩いたので、宿泊費も浮くし、現地の暮らしぶりがよくわかって、それぞれの国の違いも発見しました。

中でもオランダペンパルとは、いつも長文の手紙を互いに交換していたので、気持ちの上ではすでに親友気分でした。私よりひとつ年上で、すでにひとり暮らしをしていた彼女のアパートに1週間ほど泊めてもらい、彼女の友人や家族と知り合い、その後、彼らとも手紙のやりとりをするようになりました。

彼女自身はボーイフレンドがいましたが(当時のボーイフレンドの前につきあっていた人のことも、私は手紙を通じて知っていましたが)、彼女の友人の男性がゲイだったので、好きな人のこととか、いろいろ教えてくれました。北ヨーロッパには、夏はギリシャに行くという人がたくさんいましたが、ゲイが集まるギリシャの島があるのだとか。また、同性愛者がナチスに弾圧されたことを忘れないための小さな旗が、彼の部屋に飾ってありました。

その時、彼には密かに思い焦がれる人がいたのですが、彼の妹がその人と関係を持ったと聞いてショックを受けていました。「妹には負けられない!」と言うので、「でも、妹さんと深い関係になったということは、あなたには可能性はないんじゃない?」と言うと、「大丈夫、彼はバイセクシュアルだから!」との答え。なるほど~、いろんな人がいるんだな~と感心しました。

そうそう、私のペンパルの女友達にもバイセクシュアルの方がいました。その人は、離婚してシングルマザーとして息子さんを育てていて、当時は10歳年下のハンサムなボーイフレンドがいたのですが、その後、別のボーイフレンドと暮らすようになり、その人と結婚するのかと思いきや、彼女の浮気が発覚。その浮気相手は女性で、しかも彼女と名前が同じ。ボーイフレンドとの修羅場は、さぞ混乱したことでしょう。その後、彼女はどちらとも別れて、息子さんも独立したので、一時、シェアハウスに暮らしていました。

バイセクシュアルの彼女は、当時、タバコの葉を自分で紙に巻いて吸っていました。かと思えば、ペンパルの友人の大学生は、禁煙運動をやっていて、「大麻は吸うけど、煙草は吸わない。身体に悪いから」と言っていたり。いろんな人がいるなぁと20歳そこそこの私は驚いたものです。オランダって、いろんな意味で先をいっている国ですね。

おっさんずラブ(私の職場編)

昨夜、帰宅した夫が「『おっさんずラブ』がクランクアップしたらしいね」と言うので、「きょうラジオで2回も『おっさんずラブ』の話題が出てたよ。すごい人気なんだね」と答えたら、夫の職場の女性陣の間でも話題沸騰なのだとか。クランクアップのニュースをその時は聞き流してしまった私。その直後に、このドラマを薦めてくれた友人から「今週の土曜日が最終回だから」と聞いて、が~ん。私はこのドラマの大部分を見逃しているということではないか!!

ところで、この『おっさんずラブ』は現実にはなかなか遭遇しないシュールな物語だから、面白いのだろうか!? それともLGBTの存在も認知され、権利も認められつつある現在だからこそ、受け入れられているのだろうか!?

そこで思い出すのが、私が大学を卒業して最初に就職した英国系の会社。オフィスは丸の内のど真ん中だった。(そう、私は丸の内のOLだったのだ!)壁にはエリザベス女王の肖像画が飾られ、制服はないけれど、女性社員はスカート着用を決められていて、外資系にしては古臭い、大英帝国の名残のような会社だった。幹部のイギリス人も、いかにもイギリス紳士という雰囲気の方が多かったように思う。

それでも、そこはやはり外資系。私がそこに就職を決めたのは、イギリス人との面接の際に「東京でひとり暮らし」をしている点を、「インディペンデントでよろしい」と評価してくれたからだ。当時は、特に大企業などの就職に際して、女性は親元に暮らしていなければダメという条件がついたりしていたのだ。

実際に就職してみると、その会社は外資系とはいえ、昔ながらののんびりした日本の中小企業の雰囲気が漂っていた。「外資系」と聞いて想像する「バリバリ感」のない会社で、先輩方も厳しい人はほとんど皆無。私にとっては居心地がよかった。そんな職場で、特に目を引く男性社員がいた。てきぱきと仕事をしていて、年は私よりだいぶ上と思われるけれど、役職はなく、いつも明るく大きな高めの声で話していて、それがまた女性言葉だったのだ。服装もほかの男性陣と違い、チェック柄のシャツやブレザージャケットだったり。女性の中にひとり混じっても、まったく違和感ない存在で、しかも男性から嫌がられることもなく、みんなのアイドル的な存在だった。先輩女性によると、彼は歌手を目指して上京し、デビュー直前までいったものの夢破れ(?)、会社員生活をしているのだという。ずっと前から歌舞伎町に暮らし、自宅に遊びに行った彼女によると、部屋の中にはスポットライトが設置してあるのだとか。

その彼の歌う姿、一度見てみたいと思っていたら、その機会はちゃんとあった。外資系にも関わらず、毎年行われる社員旅行の宴会のトリは彼が務めることに決まっていたのだ。そのため、社員旅行の幹事には毎年、「スポットライトのある舞台付きの宴会場」がある旅館を選ぶよう申し送りがされていた。旅行当日は、入念な化粧をして、歌舞伎町のゲイバー勤めのお友達から借りたという衣装を着て、彼はステージに立って熱唱した。スポットライトを浴びて。

それを見て、私たちの上司であるイギリス人のおっさんたちは、酔っ払って、浴衣をはだけただらしない姿で、紙テープ(←死語?)の代わりにトイレットペーパーを投げたりして、大喜びするのであった。普段はスーツをかっちり着ているイギリス紳士の豹変ぶりも、これまた見物だった。

いま思うと、かなり楽しい職場だったなぁとしみじみ。『おっさんずラブ』、最終回、楽しみだ。

国際女性デー(アエロフロートの思い出)

日本では馴染みがないけれど、3月8日国際女性デー。今朝のニュースで、ロシアでは多くの男性がこの日、女性に花を送ると解説していた。そういえば、私がこの日を初めて知ったのもソ連がらみだった。それは、ソ連崩壊直前の80年代終わりにパリに留学していたときのこと。

東京の会社を辞めて正式に留学する前に、準備のためにパリに行った際、私は初めてアエロフロートを利用した。自分で貯めたお金で留学するので、少しでも渡航費を節約するためだ。アエロフロートは北回り(だから早く着く)の中では一番安かったのだ。けれど、実際に乗ってみて驚いた。椅子が壊れていたり、機内食はアルミの食器で見た目も味も昔の給食のようだったり。(アイスクリームだけは、とっても美味しかったけど!)一番びっくりしたのは、モスクワで一度、飛行機を下りて再搭乗したら、自由席になっていたこと!!(要は早い者勝ち!)

パリから東京に帰る便では、いかつい大柄なロシア人男性グループの中にぽつんと座るはめになった。幸い隣の男性は、そのグループの中でも小柄な方だったので、さほど窮屈ではなかったけれど、そこら中の空気がなんだか男臭いし、みんな見た目も怖くて、とんでもない席になってしまったなぁ~と思っていた。ところが隣の男性は、とてもフレンドリーで、片言の英語でいろいろと話しかけてきて、私を女王様のように扱うほど異常に親切だった。実はその一団は、ソビエトのナショナルラグビーチームで、フランスに遠征していたのだという。

当時はゴルバチョフ大統領の時代で、彼は「グラスノスチはいいが、ペレストロイカはダメだ」と言っていた。彼自身はグルジア人で(いまはジョージア人と言うのか?)、ジョージア旧グルジア)とモスクワに家があり、ロシア人は嫌いだと言っていた。そして日本のことをいろいろと聞いてきた。

飛行機がモスクワに近づくと、彼は私にモスクワの家に泊まっていけという(ちなみに彼は既婚者)。「ビザがないから無理」と答えると、「なんとかなる」と言い張っていたが、「とにかく無理」と言うとお別れにキャビアをくれた。飛行機を降りる際に、手荷物としてタバコ(マルボロだったと思う)をたくさん持っていて、「これは空港の職員のため」と言っていたから、それで何か便宜をはかってもらったのだろうか!?(もしかしたら、ビザも本当になんとかなったのかも知れない。)

その後、彼のことは忘れていたが、正式に留学してパリでの生活が落ち着いた頃、東京の元同僚から連絡があった。私宛てにモスクワから電話がかかってきたので、パリの連絡先を知らせたというのだ。電話の主は、あのグルジアのラグビー選手以外に考えられない。連絡先を教えてくれというから当時の名刺を渡したのだが、本当に東京に電話していたとは!!

それから一度、手紙が届いたような気がするが、その後、彼はパリの私に電話をしてきた。しかし片言の英語なので、会話も一苦労。事前の手紙にも書いてあったのだが、彼のおばさんがフランスに渡航できるよう、招待状を書いてほしいと言っているようだった。ソ連の人が海外に行く場合、相手国の受け入れ先からの招待状がないとビザを取得できないらしい。「私が日本にいる時であれば、日本への招待状を書くけれど、私はフランスに来たばかりで、ここでは外国人なので、申し訳ないけれど、あなたのおばさんの保証人にはなれない」と返事をしたのだが、彼にちゃんと伝わったかはわからない。電話をしてくるぐらいだから、けっこう焦っている気配だった。今思えば、崩壊前のソ連を脱出するルートを確保したかったのだろうと思う。彼自身はナショナルチームの選手として海外に出ることは可能だったろうけど、ほかの家族のために。

助けてあげられなくて心苦しかったけれど、私自身もフランスでの生活がおぼつかない状況だった。しかも電話の最中に、突然、オペレーターが出てきて途中で通話が途切れたり、なんだか怖くなったのだ。あとで日本人の友人から、「フランスに来たばかりなのに、モスクワから電話がかかってきたりして、スパイだと思われるよ!?」と怖い冗談を言われたくらいだ。

それからだいぶ時間が過ぎたある朝早く(6時前後だったか)電話が鳴った。「フランステレコムですが、あなた宛にモスクワから電報が届いていますので、とりあえず電文を読み上げます。ただし私はロシア語がわからないので、スペルアウトします」と言われ、びっくり。「いや、私だってロシア語、わからないよ…」と思いながら聞き流し、電話を切った。その2時間後くらいに、実際の電報が届いたが、何が書いてあるのかわからない。差出人はあのグルジア人のラグビー選手だ。

手紙ではなく電報ということは、何か重要なことに違いないと思い、私は近所のロシア語専門書店を訪ねてみた。(そう、パリにはそんなお店があるのだ!)下手なフランス語で、「こんにちは。ロシア語の電報が届いたのですが、ロシア語がわからないので、意味を教えてもらえませんか?」と尋ねると、店主はすぐに電報を見て説明してくれた。「女性の日、おめでとう」と書いてあると。「え、なんじゃ、それ!?」とびっくりする私に、店主は3月8日は女性の日なのだと教えてくれた。

ええ~、なんだか拍子抜け! それを言うためだけに電報を送ってきたとは!!(これでは公安に、何かの暗号と思われるではないか!!)
確かその後、バラ模様のカードも届いたので、もしかしたらカードが3月8日に間に合わないからと、電報を打ってくれたのだろうか!?
結局、彼とは音信不通になってしまったが、1991年末にソ連が崩壊してから、どうなったのだろうと、国際女性デーがくるたびに思い出す。

インフルエンザと四十九日の思い出


↑瀬戸内の倉橋島から届いた牡蠣

この冬はインフルエンザが大流行とのこと。先日、うちの子もインフルエンザになり、学校でも学級閉鎖が相次いだ。

私が最後にインフルエンザになったのは、4年前。しかも、1月と2月と2度もかかったのだ。といっても病院嫌いの私は、2回とも病院に行かなかったので、本当にインフルエンザだったかどうかはわからないが、インフルエンザとしか思えない高熱と身体の痛みだったのだ。(インフルエンザであっても、風邪であっても、おとなしく寝るのが最良の治療だと思っているので、よほど異常がない限り、私は病院には行かない。病院に行く方がしんどいもの。)なんで2回もインフルエンザになったかといえば、それだけ免疫力が落ちていたからだろう。そして、それには理由がある。

1月の初めに父が亡くなっていたのだ。百歳の大往生だったし、その前年の秋頃から「もう長くはないな」と感じていたし、年末に広島まで会いに行ったときも、「これが最後かも知れない」という気もしていたので、父の死に際しても特に悲しいとかショックとかいう気持ちはなかった。むしろ本当の自然死を迎えた姿に感動したし、回りの人たちにも感謝の気持ちでいっぱいだった。とはいえ、葬儀はもちろん、さまざまな手続きや、苦手な親戚との久々の再会など、疲れることもたくさんあったのだ。そして自分では気づいていなかったけど、父がいなくなったことで、ぽっかり心に穴があいたのだと思う。

だから、1月下旬に大学の同級生の結婚パーティに呼ばれたときも、寂しい気持ちを紛らわすかのように出かけて行った。久々の東京で、しかも夜のパーティなんていうのも久々で、お酒も入り、その晩は同級生夫婦の家で朝方近くまで語り明かした。そして翌日はそのまま、昔の職場の同僚と会ってランチをして、午後の遅い時間まで喋り倒して、帰りの新幹線で爆睡して帰宅したら、インフルエンザになったのだ。恐らく、新幹線で口を開けて爆睡している間に(恥ずかしい!)感染したのだろうと思う。久々の夜遊び&お酒が祟ったのか、本当に苦しかった。

そして翌2月下旬の週末、父の四十九日の法要を広島の実家で行うことになった。その前日、夫が仕事から帰宅したら車で広島に向かうことになっていたが、その日の午後から私はだんだんしんどくなり、出発時に体温を計ったら38.6度だった。助手席に座っているのもしんどくて、翌日の法要も大丈夫だろうかと不安だった。しかも、誰も住んでいない実家の仏間やリビングなどを翌日の法要までに掃除するつもりだったのに、こんな体調では明らかに無理。夫は「なんとかなるさ」と言うけれど、私はしんどくて返答もしていられなかった。

ところが、夜中近くに実家に到着すると、家の中がめちゃくちゃきれいだったのだ。床がぴかぴかなのはもちろんだけど、仏間の破れていた障子も張り替えてあるし、窓ガラスもぴかぴかで、しかもレースのカーテンも真っ白。まさに、「なんということでしょう!!」と叫びたい状況。お陰でその日はそのまま寝て、翌日の法要もなんとか倒れずにやり終えた。

翌日確かめたところ、実家の事務所を借りてくださっている会社の社長さんが、四十九日の法要の前にお掃除してくださっていたと判明。年末に帰ったときにも、実家の玄関廻りがぴかぴかになっていて驚いたことがあるのだが、掃除が苦手な私には信じられないほどのお掃除ぶりに尊敬&感動&感激の嵐だった。

翌日、社長さんにお礼を言うと、奥様が「うちの主人は掃除が趣味なんですよ。家でも私が帰宅すると窓ガラスがぴかぴかになってたり。だから気にしないで下さいね」と言ってくださった。なんというご夫婦だろう。

これもある意味、引き寄せだろうか。掃除を引き寄せるって、なかなかないと思うけど。
ちなみについ先日、この社長さんから大量の牡蠣が送られたきた。毎年、音戸ちりめん倉橋島お宝トマトも送ってくださる、ありがたい方なのだ。感謝感謝。

そうそう、今年も半月ほど前、インフルエンザ大流行の最中に日帰りで東京に行って来たのだが、体力も回復したのか、今回はインフルエンザにもならず元気そのもの。新幹線の中で行きも帰りも女3人で喋り続けていたのが良かったのかも。

リュクサンブール公園追記ー私の妄想

リュクサンブール公園で「走るダニエル・デイ=ルイス」に遭遇したとき、私と一緒にいたのはフランス企業に入社したばかりの若いイギリス人だった。といっても彼は東欧系移民2世で、出身国の言葉も堪能だったようだ。オックスフォード大学出身の長身のエリートで、アルマーニのスーツはこういう人が着てこそ、映えるのだなぁと感心したものだ。でも中味は新卒ほやほやで、まだまだ若いなぁ青いなぁと、すでに20代後半だった私は微笑ましく思っていた。職場のイギリス人チームのほかのメンバーからは「若いくせに生意気だ」と嫌われていたけど、「移民」目線のある彼は、ほかのイギリス人にはないシンパシーを東洋人である私に示してくれていたので、私はけっこう仲良くしていたのだ。親しくなって、いろいろ話をしてみると、理系のインテリのくせに実は予知夢など、けっこうスピリチュアルな体験をいくつもしていたのでビックリ。人って、わからないものだ。

オックスフォードでは、彼が在籍していたカレッジに秋篠宮様が留学されたので、当時はカレッジのパーティなどでご一緒したらしい。「Prince Ayaはとてもいい人だったよ」と話していた。同じくオックスフォード在学中に、MI6にスカウトされたこともあると話していた。東欧の言語ができるエリートだから、目をつけられたのだろう。

そんな彼とは、日本に帰国直後は連絡をとっていたのだが、いつのまにか互いに音信不通になった。彼に限らず、留学時代の多くの知り合いとはしばらくの間、疎遠になっていたのだが、SNSが普及するようになって昔の知り合いとネット上で再会することが多くなった。フランス企業のイギリス人チームのメンバーとも、滅多に連絡を取り合うわけではないが、お互いにどこにいて、何をしているかくらいはわかっているので、何かあれば連絡はとれる状態だ。ところが、この東欧系の彼だけは、ネットで検索しても、一切みつからない。どのSNSでも、みつからない。東欧系の珍しい名前なので、本名を名乗っていればすぐにみつかりそうなのだが、みつからない。

もしかして、名前を変えたのだろうか!? でも、両親の母国を誇りに思っていた彼が、わざわざ本名を変えるだろうか!? もし変えるとすれば、素性を隠して別人にならなくてはいけない、なんらかの任務を負っているのだろうか!? たとえば、MI6の諜報員として…!? 
と、私の妄想は広がるのでした。

でも本当に、どこに消えたんだろう・・・!?

*スパイといえば、ケンブリッジ・ファイヴガイ・バージェスをモデルにした『アナザー・カントリー』を思い出すけど、AXNミステリーで見た『ケンブリッジ・スパイ』も面白かった! マギー・スミスの息子、トビー・スティーブンスキム・フィルビー役だ!

リュクサンブール公園にダニエル・デイ=ルイス

あのあとイポリット・ジラルドについて調べていたら、広島を拠点に活動している諏訪敦彦氏と『ユキとニナ』(2009年)という作品を共同監督していた。イッポ広島と繋がっていたなんて…。

で、昨日の続き。話は学生時代に遡る。英米のバンドの来日公演を見たい一心で広島から東京の大学に進学した私は、洋楽好きの広島時代の同級生と一緒によくコンサートを観に行った。そのうち同じく洋楽好きの彼女の友人とも知り合い、音楽の趣味が似ていたので、何度かコンサートに一緒に行った。私も彼女も、Depeche Modeが大好きだったのだ。

その後、私がパリ行きを準備していた頃、彼女もヨーロッパを一ヶ月ほど旅行する予定と聞いて、「パリで会えたらいいね」なんて話していた。それからしばらくして、ようやくパリに落ち着いた私は広島時代の同級生に新たな連絡先を知らせたが、Depeche Mode好きの友人はすでに旅立っていて、私の連絡先を渡せなかったと返信があり、パリでの再会は夢と消えた。

と思っていたのだが、ある日、日本人の友人とリュクサンブール公園を散歩していたら、後ろから「厚子ちゃん?」と声をかけられ、振り向いたらDepeche Mode好きの友人が立っていたのだ! 結局、うちに泊まってもらい、何日か楽しく過ごし、友情を深めることになった。

その後、私は留学先のカリキュラムの一環で、インターンシップとしてフランス企業にしばらく勤務した。フランス語が不自由なせいもあって、イギリス人チームの中で働いていたのだが、ある日、その同僚のひとりとリュクサンブール公園を散歩していたら、目の前を長髪のダニエル・デイ=ルイスが走って行った。それも猛スピードで。わりと寒い時期だったように記憶しているが、確かランニングシャツだったと思う。(一瞬のことで、自信はないけど。)

ダニエル・デイ=ルイス!?」と思わず声を出したら、私の性格をわかった上でか、「落ち着いて。彼に声をかけないように」と同僚は私を制した。実際にはあっという間に走り抜けていったので、声をかける間もなかったのだけど、しばらくすると再び猛スピードでダニエル・デイ=ルイスが現れ、長い髪をなびかせて走り去った。「なんなんだ、これは!?」と思いながら、散歩の間、何度も走るダニエル・デイ=ルイスを見た。当時はイザベル・アジャーニと付き合っていると聞いていたから、パリにいるのは不思議じゃないけど、なぜあんなに髪を伸ばし、しかも猛スピードで走り続けていたのか、不思議だった。

帰国後、ダニエル・デイ=ルイス主演の新作映画を観に行って、その謎は解けた。新作のタイトルは、『ラスト・オブ・モヒカン』。この中で長髪のダニエル・デイ=ルイスが猛スピードで走っていたのだ!! リュクサンブール公園でもモヒカン族になりきって(!?)走っていたとは!!! 噂通りの徹底した役作りに取り組んでいたんだなぁ。

*ちなみに日本では今年5月公開予定の『ファントム・スレッド』で、ダニエル・デイ=ルイスは俳優を引退するそうです。

ビアトリクス・ポターの引き寄せ

去年の秋から機会あるごとに集まる(私を入れて)3人グループがありまして、その都度、「これからどんな仕事をしていきたいか」、「どんな風に生きていきたいか」、「何を引き寄せたいか」等々、お喋りしています。それも単なる井戸端会議ではなく、楽しくも真剣なお喋りで、いつもあっという間に時間が過ぎてしまいます。毎回、刺激的&クリエイティブなアイデアをたくさん持ち帰るのですが、実行力のない私は、いまだいろいろと企画を温めている段階です。

3人の中でも一番、行動力のある友人は、昨年、ピーター・ラビット関連のイベント企画を実現しました。私も参加したおかげで、ピーター・ラビットの作者、ビアトリクス・ポターの人生について、初めて知ることとなりました。19世紀のイギリスの裕福な家庭に生まれながら、自らの興味の赴くままにキノコの観察・研究や、絵本制作に取り組んだビアトリクス・ポターは、その時代としては革新的な自立した職業婦人(絵本作家)として活躍し、また湖水地方の農場経営をしながら環境保全に尽力し、その広大な土地は遺言によりナショナルトラストに寄贈され、そのお陰で湖水地方は今も美しい自然溢れる観光地となっているのです。彼女の人生の物語も、ドラマチックで学ぶところが多く、これもまさに友人のおかげと感謝しました。

実は友人からこの企画の話を聞いて、古い友人からピーター・ラビットピルケースをもらったことを思い出していました。中高時代、親しくしていて、大学でも仲良くしていたのに途中で絶交されて音信不通になり、7年後にパリで偶然再会したという友人です。(詳しくは過去の日記を参照→2011年2月19日2006年3月9日
再会の後、東京で時々会うようになり、よく海外に行っていた彼女から、イギリス土産としてもらったのがピーター・ラビットピルケースでした。彼女は持病のせいで、一生、薬が手放せないと言っていたので、ピルケースは必需品だったのかも知れませんが、当時の私は病気知らずで、そもそもこんな「ピルケース」なるものがあること自体、知りませんでした。しかもピーター・ラビットが好きだったわけでもないし、どうしてこんな(高級そうな)ものを…と不思議に思っていました。そして、ピルケースを使うことのない私は、そのままそのお土産をどこかにしまいこんで、結局、それがどこにいったのかわからないままになっていたのです。

そうしたら、なんと! 昨年の大晦日に大掃除をしていたら、このピルケースが出てきたのです! これもある種の引き寄せでしょうか!?
しかも、私がもらっていたのは「あひるのジマイマ」のピルケースでした。実は、これをプレゼントしてくれた友人とは、お互い、何度も引っ越したり、あちこち移動していたせいで、その後、また音信不通になり、いまどこでどうしているのかまったくわかりません。

それにしても、彼女はどうしてこれを私にくれたのでしょう? 彼女はビアトリクス・ポターのファンだったのか? もしかしたら、自分とお揃いのピルケースをくれたのか? さて今度は、ピルケースの友人を引き寄せなければなりません。

私の東京脱出の理由(阪神淡路大震災の日に)

阪神淡路大震災があった1995年1月17日からきょうで23年である。

あんなに憧れて東京に出た私が、東京脱出を決意したのはその前年の1994年だった。本当は自分自身の問題だったのかも知れないが、当時の東京に閉塞感を感じて、とにかく東京、いや日本を出なければと思っていた。バブル崩壊後の世の中に、なんともいえない厭世観というか、ネガティブな空気が満ちている気がして、どうせなら優雅に楽しく下り坂を転がっていかねば…と思い、そのお手本として一足先に下り坂のヨーロッパを見てきたいなぁと考えていたところ、ひょんなことで中国に行くことになった。本当のところ、私はただあの当時の東京、日本を出たかっただけで、行き先はどこでもよかったのかも知れない。とにかく、あの空気に耐えられなかったのだ。

春に中国に行こうと準備していた矢先に、阪神淡路大震災が起こり、私の東京脱出の決意はますます揺るぎないものとなった。幸いなことに私は震度4以上の地震を経験したことはないのだが、それでもひとりで暮らす東京のマンションの部屋で夜中に震度4の揺れを感じたときは恐怖だった。丸の内や大手町のオフィス街で働いていた頃はさほど気にならなかったのだが、その後、渋谷に通勤するようになってから、渋谷駅前の大きな歩道橋を渡るたび、「いま大地震がきたらどうなるんだろう」と漠然とした不安を抱くようになった。トラックが通過するだけで歩道橋が揺れるので、これで地震がきたら…と思うと、自然と小走りになった。そう思いながら地下鉄に乗ると、またも不安になる。真っ暗なトンネルの中にいるこの瞬間に、地震がきたらどうなるんだろうと。

ひとり暮らしであったことが、一番の不安の原因だったと思う。何かあっても、家族がいれば探しに来てくれるだろうが、ひとり暮らしではどうにもならない。だから「万一のとき、こんなところで死ぬわけにはいかない! 早くここを出なくては!」と思ったのだが、そんなとき地下鉄サリン事件が起こり、私は決意を固くした。

その後、日本に帰国して、京都に暮らすことになったときも、郊外の山に囲まれた物件を借りた。裏に小川と畑があったので、たとえ地震がきても、なんとかなりそう…と思えたのだ。その後、山奥の過疎地で茅葺屋根の古い家(平屋)に暮らし、いまは湖のそばに住んでいる。いつどこで何があるかはわからないけれど、少なくとも東京にいた頃と違い、自然の景観に恵まれた場所で、家族と共に心穏やかに暮らしていることは確かだ。