運命線-手相観さんの思い出

東京にいた頃は、健康診断のように定期的に(といっても2年に1度くらいか?)手相を観てもらっていた。雑誌の編集をしていた友人が、とても評判がいい手相観さんを紹介してくれたからだ。たまに占いの特集も組む雑誌だったので、彼女の情報は信頼できた。

手相観さんはスリムで小柄で、話し方も静かなのに、言葉はかなり前向きで、人生のちょっとした方向転換をしたいときに、うま~く背中を押してもらった。彼女は、「手相は変わっていくものなので、気をつけて見てみて。自分で手相をいい方に変えたいと、意識してみるのもいいわよ」とも言っていた。

手相ではないけれど、その後、指の内側にほくろができた。ちょうど職場で大きな変化が起きそうなときだったので、手相観さんに会いに行き、その大きな変化を受け入れることにした。

最後に会いに行ったのは、東京脱出を決めて、いよいよ東京を離れる直前。迷いも悩みもなかったけれど、最後にもう一度、お会いしたかったのだ。自分の決断についての最終確認の意味もあったのかも知れない。その日の彼女は、ちょっと疲れた感じに見えた。私の手を見るなり、「いいわねぇ、すごくいいわねぇ、いい感じだわ~」と喜んでくださった。「すべて、いい感じに流れてるわね~」と。私の決断も、「いいんじゃない、すごくいいわ~」と大絶賛。最後はドアの外まで出て、元気でがんばって~と見送って下さった。

ちょっと疲れがたまっていた手相観さんに、感謝の気持ちと、少しばかりのパワーをお返しできたのだろうか。彼女のお陰で、私は清々しい気持ちで旅立つことができた。その後、いろいろあって、結局いまはここでこんな生活をしている。

手相はあれ以来、一度も観てもらったことはないのだが、実は最近、気になることがある。左手の運命線が途中で切り替わり、そこから上の部分だけ、やけにくっきりと、とても目立つのだ。本屋で手相の本を立ち読みしたのだが、結婚を機に運命線が切り替わっているのかも!? これから、ちょっと気にして観察してみようと思う。

実を言うと、手相よりも、指が太くなって指輪が入らなくなったことの方が今の私にとっては大問題なのですが。

*故郷の町
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’11年11月11日11時11分11秒

きょうは2011年11月11日。デジタル時計が午前11時11分11秒を示す瞬間をカメラに納めようと思っていたが、用事をしていたら、その時刻を過ぎていた。が~ん!

学校から帰宅した息子から、「きょう11時11分にクラスで記念写真を撮った」と聞き、よ~し、午後11時11分に私も写真を撮るぞ~と再度、挑戦。

時計の前で待ち構えていたのに、フラッシュの関係でシャッターがすぐにおりなかった。写真を見てみたら、11時11分12秒。ああ~・・・が~ん!

ちなみに、きょうは夫と初めて出会った記念日でもありました~!

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ふたたび同窓会

もう参加することはないと思っていた中高の同窓会(@関西支部)。なぜか今年も行くことに・・・。

今年は講演会&同窓会という特別企画のせいで、出席者が例年の倍以上となったが、幹事の学年が人数が少なくてお手伝いが必要だと声がかかったのだ。そこで、同期の友人とふたりでちょっと早めに会場に向かい、受付係りを務めた。

お陰でしばらくお会いしていなかった先輩方のお話を聞き、どなたも、原稿なしですらすらと上手にお話になるな~と改めて感心しきり。

ところで、広島から駆けつけてくださった来賓の先生方のおひとりが、私が大の苦手だった体育の先生だった。当時はまだ若かった先生のことを、生徒たちは影でバカにしたり、からかったりしていたけれど、決して毛嫌いしていたわけではなく、実はみんな結構慕っていたらしい。きょうも同窓生が次々とこの先生の元に挨拶に行き、長い行列ができていた。

中高時代、特に体育が苦手だった私だが、悪いことに整列すると先生のまん前に位置していたせいか、準備体操の際にしょっちゅう見本にされていた。それが毎回、苦痛だった。マット運動のときは、放課後に熱血な指導を受け、ますます体育が嫌いになったほど。それでも担任してもらったときは、グループごとの日記に先生が丁寧にコメントをつけてくれたのを覚えている。

その先生に、いつか機会があったら、「中国の体育大学まで太極拳を習いに行った」ことを知らせて、びっくりさせたいと思っていた。けれど結局、何も言わずに帰って来た。先生の回りにたくさん人がいたので、その中に入ってまで話す気力がなかったのと、先生が私の名札を見て、なんだか私を避けたような気がしたからだ。私の思いすごしかも知れないけれど。

勝手な推測としては、①私のことを思い出せなかった。②私の名札に「旧姓(旧姓)」が書かれていたので、「独身? 離婚?」と声をかけられなかった!?

たぶん②のような気がするなぁ・・・。結婚時に夫婦で私の苗字を名乗ることを選んだだけなのだけど、事情を知らない広島時代の知人には誤解されることもあるのだ。

*大阪・中ノ島に行って来ました!
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広報誌でみつけた思い出

先日の行事の様子が、夫の職場の広報誌(?)に掲載された。よく見ると、写真の中に息子の姿が。それから、その様子をおさめたDVDを、ほかの参加者からいただいた。子供たち用にきちんと編集され、メニューやタイトルまできちんとつけて下さっている! 

これはいい記念になりそうだ。

*8人の中でも、特に気が合っていた息子と通称・ライオンキングくん。
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ジャックはまめ~。

先日、我が家ではルパン3世の替え歌で、「ジュバン、ジュバーン!」と歌っている話をしたが、これについては夫から以前、注意を受けた。「あれは、ルパンルパーンではなく、ルパン・ザ・サードと歌っているのだ」と。

そこから話が広がって、ほかにも私が間違って歌っているCMソングがあると指摘を受けた。時たま鼻歌で「エスエスエスエスエスカップ、エスエスエスエスエスカップ」と歌っているが、あれは「勝ちたいときにはエスカップ、エスエスエスエスエスカップ」だと。それから、「ブルブルブルブルブルベリアイアイブルベリアイ」は普通に「ブルーベリーアイ」と歌えばいいのだと。

ええ~、そんなことないよ~とCM論争になり、最終的にYouTubeで検索してみんなで確認した。確かにエスカップは夫の指摘通り。でもブルーベリーアイは、「ブルブルブルブル」と確かに早口で歌っていた。(でも私のも間違い。)

で、つい懐かしくなって、昔、大好きだった豆スナック菓子「ジャック」のCM映像を探したら、みつかった。このCMシリーズ、私は大好きだったのだが、中でもこの映像の一番最後のバージョンが大好きで、当時の職場で、「ジャックは豆、まめ~! 豆はえんどう豆、まめ~!」と振りをつけて歌っていた。

当時、私は外資系の証券会社に勤務していたのだが、その頃、出張で大阪にしばらく滞在した。大阪証券取引所に上場されている先物の取引をするためで、東京のオフィスと直通回線を結び、必要であればマイクとスピーカーで東京と話ができるようになっていた。大引け後は東京の同僚と楽しく雑談をしていたのだが、ある日、東京の同僚がいきなり、「ジャックは豆」と歌いかけた。すかさず私が、「まめ~~!」と返すと、東京の同僚が焦っている。なんとスピーカーが全開のままで、場が引けてしーんとしていた東京のオフィス中に、私の「まめ~~」の声が響き渡ったらしい。

そんな思い出もあって、今見ても、このCM、笑えるのだ。

God Save the Queen

子供にうるさいと言われながら、きょうもYouTubeでQueenを検索していたら、こんなのをみつけてしまった。
2002年にエリザベス女王戴冠50周年で、クイーンのブライアン・メイがGod Save the Queenをバッキンガム宮殿で演奏した映像だ。すご~い、こんなことやってたのね。

昔、クイーンの人気が出始めた頃、「Queen, England」の宛名のファンレターがバッキンガム宮殿に配達され、後日それがクイーンの元に届けられたという記事を読んだことがある。最初は日本でしか人気がないとか言われていたけど、その後、イギリスでも国民的人気のバンドとなった。フレディの訃報を聞いたときのことは今でも覚えている。当時、イギリス系の会社に勤務していたのだが、ロンドンと電話をしていたイギリス人スタッフが一報を聞き、大声でみんなに知らせたのだ。そのあと、そのイギリス人が立ち上がって、”We Are the Champions”を歌い始めると、ほかのイギリス人もそれに加わった。

それから、これは何年のことだったか・・・。ヨーロッパで皆既日食があったとき、イギリスに留学中だった友人が、ブライアン・メイがBBCで皆既日食の説明をしていたと教えてくれた。クイーンって、本当にイギリスを象徴する存在なのだ。

で、God Save the Queenときたら、やっぱりどうしてもこれを見たくなっちゃうよね~。
当時は若すぎて社会的な意味合いもわかってなかったけど、あのパンクのむちゃくちゃなパワーはなんだかすっごいものに思えたのだ。

イングランドの思い出(2)

私がイギリスに出発する際、父からホストファミリーのお母さんに渡すようにと手紙を託されていた。家に到着してすぐに、その手紙を渡すと、お母さんから「日本語なので、英語に訳してほしい」と頼まれた。「いったい父は何を書いたのだろう?」と読んでみると、「娘がお世話になります。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」といった内容。とりあえずわからない言葉を和英辞典で引いて、そのまま伝えていたら、お母さんが不安そうな顔をして、こう訊いた。「あなたは家で親に迷惑をかけているの?」 私もビックリして、これは本当にそういう意味ではなく、日本では挨拶として、こういう言い方をする習慣があるのだと説明したら、お母さんも安心してくれた。

それから、この家での生活ルールのようなものを説明され、「お風呂は週何日入りたい?」と訊かれたので、「え? 毎日入らないの?」と驚きながらも、イギリスでは何日が妥当なのかわからず、とりあえず「何日でも構いません」と曖昧に答えた。その後、子供たちにこっそり「お風呂は週に何日入るの?」と質問したら「一日」と言うので、ビックリしながらも、それに合わせた。(浴室はバスタブだけで、シャワーがなかったからだろうか。この年は急遽、コートを買い求めるほどの冷夏だったので、週一のお風呂でも結果的に支障はなかった。)

私だけでなく、グループのほかのメンバーも、みんな声高に主張することなく、控えめにイギリスの習慣に黙々と従って、やっぱり日本人だなぁと思わされた。ホストファミリーに言われて洗濯物を出すたびに、「これはまだ汚れてない」とハンカチを突っ返されると嘆いている人もいた。ハンカチは手を拭くものではなく、鼻をかむものだからだ。

私はあまり食べ物の好き嫌いはない。正直、初めてのイギリス滞在で美味しい食事には殆どありつけなかったけど、イギリスのサンドイッチやかりかりのトーストはかなり気に入っていた。ただし、日によっては、トーストの上にベイクドビーンズがたっぷりかかっていて、これが苦手でどうしても完食できなかった。トーストとビーンズが別々のお皿に入っていれば、まだ完食できたかも知れない。せっかくのトーストのカリカリが、ビーンズによってどろどろになり、その触感がたまらなく嫌だったのだ。それからビーンズの匂いも。(チリビーンズは大好きなんだけどね。) 残しては悪いと思い、誰にも見られないように犬に食べさせたこともある。(今思うとひどいことしたかな? 犬は喜んで食べていたけど。さすがイギリスの犬だ。)

日々のちょっとした出来事で、価値観の違いに気づいて驚くことは多々あった。英語の授業で「天皇とはどういう人か?」と質問され、語彙の少ない私は思いつく言葉を使い、「国民がrespectする人である」と答えたら、「respectとは、その人のポジションに拠るものではない」と先生に注意された。確かにそうだけど、今だったら、「日々、日本国民のために祈りを捧げてくださっている天皇陛下を、私は一国民としてrespectしています」と答えるだろうか。

それから、日本人グループでロンドンに行き、パブで昼食を食べたときのこと。お店がとっても忙しそうだったので、カウンター席の私たちが食べ終わったお皿を片付けていたら、ウェイトレスがきっとした顔をして「やめてちょうだい。それは私の仕事なんだから」と言いに来た。私たちの行為は親切ではなく、業務侵害だったのだ。

いろいろあっても、イギリスは私にとっては別世界で(延々と緑が続く田園風景に心癒された!)、居心地がよくて、3週間では満足できず、帰りの飛行機が離陸したときには思わず涙が溢れたほど。感受性豊かな時期だったからこその、感動だったかも知れない。私が両親を説得するために、「いま15歳のこの夏に一ヶ月、英語の生活を体験することは必ず私の人生に大きな影響をもたらす」と言った言葉は、まんざら嘘ではなかったのだ。あ、でも英語は今でもあんまり上手じゃないけどね。

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イングランドの思い出(1)

高1の夏休み、初めて飛行機に乗って、イギリスで3週間ほどホームステイをした。ホストファミリーは30代のお母さんと、娘2人(11歳&10歳)と息子1人(5歳)の四人家族。場所はサリー州の、白人しか住んでいないような小さな村だった。私たち約10人の日本人グループのほかにも、相次いで外国からの学生たちがホームステイをしにやって来たので、私も3週間の間に、アメリカやドイツの高校生と相部屋になったりした。イスラエルの学生との交流があったり(マイムマイムを踊ったはず)、昼間、学校に行くと、授業の合間にイタリア人の高校生と出会ったりした(日本人グループを担当するイギリス人の先生からは、なぜかイタリア人たちと交流しないようにと注意された)。

夏休みの間は各国の学生が集まっていたが、普段は白人だけの保守的なコミュニティだったのだろう。有色人種にはまず出会うことがない場所だったので、近所の小さい子供たちが私を見ると、はやしたてた。そのたびにホストファミリーの次女カレンが、私を守るようにして、いたずら坊主たちを追い払ってくれた。彼女は私が学校から帰るのをいつも待っていて、一緒に遊ぼう!となついていたのだ。ある日、ふたりでテニスをしていたら、近所の悪ガキどもが通りかかり、私の方が弱いことをはやしたて、「イギリスが日本を打ち負かした!」と大声をあげた。それを聞いて怒ったカレンが、ガキ大将に戦いを挑み、「あんたはイギリス代表、私は日本代表よ」と試合を始め、あっさり相手を打ち負かすと、私に「日本が勝ったよ!」と誇らしげに言いに来てくれた。

そうやって仲良く過ごしていたのだが、ある晩、カレンが甘えに来て、私を驚愕させるお願いをした。胸を触らせてほしいというのだ。冗談かと思ったが、彼女はいたって真剣で、私が(必死で和英辞典をひきながら)丁寧に断ると、「私のことが嫌いなのか?」と悲しそうな顔をした。「そんなことはない」と答えると、「じゃあ、なぜダメなの?」と押し問答。それが何日も続いた。昼間は普通に遊び、夜になると、お願いに来る・・・ということの繰り返し。しまいには彼女の弟が私に手紙を届けにきたり・・・。ルームメイトのドイツ人の方が胸が大きいから、彼女に頼んだ方がいいとか、私はいろんな言い訳を考えた。

あとで考えると、彼女はきっと寂しかったのだと思う。詳しいことはわからないが、彼女の母親は離婚したばかりで、仕事を始め、新しいボーイフレンドもいたのだ。彼女によれば、お父さんは医師だったか、とにかく以前はもっと大きな家に暮らし、乳母がいたのだそうだ。で、そのお父さんが夏休みの約束として、子供たちをシンガポール旅行に連れて行ったので、私はようやくカレンから解放された(!?)。

まだ30代と若かったホストファミリーのお母さんは、昼間は学校の清掃員として働き、夜はたまに暗い居間で黒人のボーイフレンドとテレビを見ていた。あの村で、私は自分たち日本人グループ以外の有色人種に出会ったことがなかったので、初めて暗い部屋でお母さんの彼を見たときにはぶったまげてしまった。

彼女がそれ以前にどんな生活を送っていたかわからないが、おそらくかなりの激変を経ていたに違いない。あの村で黒人の彼と付き合っているというだけで、私は「このお母さん、すっごくかっこいい!」と思ってしまったのだけど、子供たちにはいろいろ苦労があったのかも知れない。当時の私はまだ若すぎて、英語も不自由で、お母さんにいろいろ話を聞けなかったのが、今でも残念だ。

*「里山物語」で有名な地区の棚田
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スコットランドの思い出(2)

近所の小学生の女の子に、「最近、学校で何が流行ってるの?」と訊いたら、「みんなで怖い話をすること!」と答えが返ってきた。それでふと、スコットランドでの出来事を思い出した。

昼間はひとりで勝手に行動していた私だけど、夜は日本人グループのみんなと一緒に過ごしていた。私たちの宿泊先は、夏休みで学生がいなくなった大学の寮。広い敷地内の古い館で、泊り客も少なかったせいもあり、夜になるとし~んとして、不気味な雰囲気だった。だもんで、夜はみんなでひとつの部屋に集まって、なんだかんだお喋りしていたのだが、だんだん夜も更けてくると、誰からともなく怖い話が始まった。周囲の雰囲気も怪談にはもってこいだったこともあり、どんどんと話が盛り上がり、私たちの恐怖心も高まってくる。

ふと、みんなが静かになった瞬間に、変な音が聞こえてきた。ぴっちゃん、ぴっちゃん・・・と、何かのしずくが垂れる音。床に丸くなって座っていた私たちは、まわりをきょろきょろ。すると、そばのデスクから何かの液体がしたたり落ちているではないか。しかも、暗くてよくわからないけど、赤っぽい色だ。

思わず、「きゃ~っ!」と全員が叫んだ。「なに、これ~?」と、恐怖におののく私たち。
すると、ひとりがデスクの上に倒れていたビニールの袋を持ち上げた。「これだったみたい」。
なんとそれは、きゅうりのキューちゃんだった! 

その部屋に泊まっていたメンバーが、日本から持ってきたきゅうりのキューちゃんを食べかけのまま、デスクの上に置いていたのが倒れちゃったみたいです。

情けないけど、これがアイドルの実家に行ったことの次に鮮明に心に残っているスコットランドの思い出なのでした。(だって、本当に怖かったんだもん。)

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スコットランドの思い出(1)

せっかくなので、高1の夏に訪れたスコットランドの思い出を書こうと思う。私は憧れのアイドルのお母さんからハガキをもらったことがあった。日本の雑誌が彼の実家を取材して、ご両親はエジンバラのメドウス通りに住んでいて、お母さんは息子のファンとの交流を楽しんでいるというようなことが書いてあったのだ。それを見た私はダメ元で、メドウス通り宛てにファンレターを出したら、なんとお母さんからお礼のハガキが届いたのだ!

スコットランドに行ったら、メドウス通りのお家に行きたい!・・・というのが私の願いだった。イングランドのホームステイ・ツアーに参加した約10人(だったか?)の日本人グループと共に二泊三日のエジンバラ旅行に行った私は、昼間だけ、みんなとは別行動をとった。

初日は、知り合って間もないペンパルに会いに行った。彼女がテレビドラマ『西遊記』が好きだと言うので驚いた記憶がある。それから、私の好きなアイドルの実家への行き方も教えてもらった。なんと、彼のご両親はすでにメドウス通りのフラットから、ちょっと郊外の一戸建てに引っ越していた。

翌日、私はペンパルに教えてもらった住所を手に、最寄のバス乗り場に行った。そこに立っていたおじさんに、「ここに行きたいのだけど、このバスで大丈夫か?」と質問したら、おじさんは「私と一緒にいれば大丈夫」と、その後、一緒にバスに乗ってくれて、ここで降りなさいと教えてくれた。おじさんの目的地は、偶然にも私と同方向だったのだろうか。それとも私を目的地まで届けるために、わざわざ一緒に来てくれたのだろうか。

お陰で私は無事に大好きなアイドルの実家に到着。呼び鈴を押すと、雑誌で見たことのある女性が出ていらした。私が日本から来たというと、「これにサインしてちょうだい!」とゲストブックを差し出された。少しお喋りをして、玄関先でお母さん、お父さん、それぞれと記念撮影をした。最後に宿泊先の大学寮の住所を見せ、どのバスに乗ればいいかを教えてもらって、お暇した。

教えてもらった番号のバスに乗り、運転手さんに住所を見せて、「ここに行きたい」と言ったら、「そこに座ってなさい、降りるときに教えてあげるから」と言うので、私は運転席のすぐ後ろの席に座った。途中、別のバスとすれ違ったとき、運転手さんはクラクションを鳴らして、反対車線のバスを呼びとめ、大きな声で何か話していた。たぶん、私をどこに降ろせばいいか、訊いてくれていたのだと思う。しばらくして運転手さんが、「ここで降りなさい」と教えてくれた。降りてからの道順も教えてくれていたようだが、よくわからないまま、お礼を言った。降りた場所にバス停はなかったので、運転手さんが親切にも、一番近いポイントで降ろしてくれたのかも知れない。

だが降りるてみると、朝、バスに乗った場所とはまったく景色が違っていて、私には大学寮がどちらの方向にあるのかすら、わからない。地図を広げて調べていたら、絵に描いたような英国紳士が通りかかり、「どこに行きたいのですか?」と声をかけてくれた。その方のお陰で、無事に私は大学寮に戻ることができた。

わずか二泊三日のスコットランド旅行だったけど、出会った人すべてがあまりに親切だったことに私は驚嘆した。それも、いかにも親切にしているという感じがまったくなくて、みんな、当たり前に親切なのだ。イングランドでも親切な人は多かったけど、自分が有色人種であることを常に自覚させられている感覚があった。だけどスコットランドでは、人種の違いを感じることなく、単に人として親切に接してもらっているような気がしたのだ。もしかしたら、私のアイドルへの思いがスコットランドを特に美化して見せていたのかも知れないけど。あるいは、時に英語とは思えない、ものすごいスコットランド訛りのせいで、意志の疎通ができただけでも感激が倍増したのかも知れない。

でも素朴なスコットランド訛り、私は今も大好きだ。

*先日の美大のカフェの帰りに見かけた、ヴォアイアンの残骸(!?)
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