イングランドの思い出(1)

高1の夏休み、初めて飛行機に乗って、イギリスで3週間ほどホームステイをした。ホストファミリーは30代のお母さんと、娘2人(11歳&10歳)と息子1人(5歳)の四人家族。場所はサリー州の、白人しか住んでいないような小さな村だった。私たち約10人の日本人グループのほかにも、相次いで外国からの学生たちがホームステイをしにやって来たので、私も3週間の間に、アメリカやドイツの高校生と相部屋になったりした。イスラエルの学生との交流があったり(マイムマイムを踊ったはず)、昼間、学校に行くと、授業の合間にイタリア人の高校生と出会ったりした(日本人グループを担当するイギリス人の先生からは、なぜかイタリア人たちと交流しないようにと注意された)。

夏休みの間は各国の学生が集まっていたが、普段は白人だけの保守的なコミュニティだったのだろう。有色人種にはまず出会うことがない場所だったので、近所の小さい子供たちが私を見ると、はやしたてた。そのたびにホストファミリーの次女カレンが、私を守るようにして、いたずら坊主たちを追い払ってくれた。彼女は私が学校から帰るのをいつも待っていて、一緒に遊ぼう!となついていたのだ。ある日、ふたりでテニスをしていたら、近所の悪ガキどもが通りかかり、私の方が弱いことをはやしたて、「イギリスが日本を打ち負かした!」と大声をあげた。それを聞いて怒ったカレンが、ガキ大将に戦いを挑み、「あんたはイギリス代表、私は日本代表よ」と試合を始め、あっさり相手を打ち負かすと、私に「日本が勝ったよ!」と誇らしげに言いに来てくれた。

そうやって仲良く過ごしていたのだが、ある晩、カレンが甘えに来て、私を驚愕させるお願いをした。胸を触らせてほしいというのだ。冗談かと思ったが、彼女はいたって真剣で、私が(必死で和英辞典をひきながら)丁寧に断ると、「私のことが嫌いなのか?」と悲しそうな顔をした。「そんなことはない」と答えると、「じゃあ、なぜダメなの?」と押し問答。それが何日も続いた。昼間は普通に遊び、夜になると、お願いに来る・・・ということの繰り返し。しまいには彼女の弟が私に手紙を届けにきたり・・・。ルームメイトのドイツ人の方が胸が大きいから、彼女に頼んだ方がいいとか、私はいろんな言い訳を考えた。

あとで考えると、彼女はきっと寂しかったのだと思う。詳しいことはわからないが、彼女の母親は離婚したばかりで、仕事を始め、新しいボーイフレンドもいたのだ。彼女によれば、お父さんは医師だったか、とにかく以前はもっと大きな家に暮らし、乳母がいたのだそうだ。で、そのお父さんが夏休みの約束として、子供たちをシンガポール旅行に連れて行ったので、私はようやくカレンから解放された(!?)。

まだ30代と若かったホストファミリーのお母さんは、昼間は学校の清掃員として働き、夜はたまに暗い居間で黒人のボーイフレンドとテレビを見ていた。あの村で、私は自分たち日本人グループ以外の有色人種に出会ったことがなかったので、初めて暗い部屋でお母さんの彼を見たときにはぶったまげてしまった。

彼女がそれ以前にどんな生活を送っていたかわからないが、おそらくかなりの激変を経ていたに違いない。あの村で黒人の彼と付き合っているというだけで、私は「このお母さん、すっごくかっこいい!」と思ってしまったのだけど、子供たちにはいろいろ苦労があったのかも知れない。当時の私はまだ若すぎて、英語も不自由で、お母さんにいろいろ話を聞けなかったのが、今でも残念だ。

*「里山物語」で有名な地区の棚田
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スコットランドの思い出(2)

近所の小学生の女の子に、「最近、学校で何が流行ってるの?」と訊いたら、「みんなで怖い話をすること!」と答えが返ってきた。それでふと、スコットランドでの出来事を思い出した。

昼間はひとりで勝手に行動していた私だけど、夜は日本人グループのみんなと一緒に過ごしていた。私たちの宿泊先は、夏休みで学生がいなくなった大学の寮。広い敷地内の古い館で、泊り客も少なかったせいもあり、夜になるとし~んとして、不気味な雰囲気だった。だもんで、夜はみんなでひとつの部屋に集まって、なんだかんだお喋りしていたのだが、だんだん夜も更けてくると、誰からともなく怖い話が始まった。周囲の雰囲気も怪談にはもってこいだったこともあり、どんどんと話が盛り上がり、私たちの恐怖心も高まってくる。

ふと、みんなが静かになった瞬間に、変な音が聞こえてきた。ぴっちゃん、ぴっちゃん・・・と、何かのしずくが垂れる音。床に丸くなって座っていた私たちは、まわりをきょろきょろ。すると、そばのデスクから何かの液体がしたたり落ちているではないか。しかも、暗くてよくわからないけど、赤っぽい色だ。

思わず、「きゃ~っ!」と全員が叫んだ。「なに、これ~?」と、恐怖におののく私たち。
すると、ひとりがデスクの上に倒れていたビニールの袋を持ち上げた。「これだったみたい」。
なんとそれは、きゅうりのキューちゃんだった! 

その部屋に泊まっていたメンバーが、日本から持ってきたきゅうりのキューちゃんを食べかけのまま、デスクの上に置いていたのが倒れちゃったみたいです。

情けないけど、これがアイドルの実家に行ったことの次に鮮明に心に残っているスコットランドの思い出なのでした。(だって、本当に怖かったんだもん。)

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スコットランドの思い出(1)

せっかくなので、高1の夏に訪れたスコットランドの思い出を書こうと思う。私は憧れのアイドルのお母さんからハガキをもらったことがあった。日本の雑誌が彼の実家を取材して、ご両親はエジンバラのメドウス通りに住んでいて、お母さんは息子のファンとの交流を楽しんでいるというようなことが書いてあったのだ。それを見た私はダメ元で、メドウス通り宛てにファンレターを出したら、なんとお母さんからお礼のハガキが届いたのだ!

スコットランドに行ったら、メドウス通りのお家に行きたい!・・・というのが私の願いだった。イングランドのホームステイ・ツアーに参加した約10人(だったか?)の日本人グループと共に二泊三日のエジンバラ旅行に行った私は、昼間だけ、みんなとは別行動をとった。

初日は、知り合って間もないペンパルに会いに行った。彼女がテレビドラマ『西遊記』が好きだと言うので驚いた記憶がある。それから、私の好きなアイドルの実家への行き方も教えてもらった。なんと、彼のご両親はすでにメドウス通りのフラットから、ちょっと郊外の一戸建てに引っ越していた。

翌日、私はペンパルに教えてもらった住所を手に、最寄のバス乗り場に行った。そこに立っていたおじさんに、「ここに行きたいのだけど、このバスで大丈夫か?」と質問したら、おじさんは「私と一緒にいれば大丈夫」と、その後、一緒にバスに乗ってくれて、ここで降りなさいと教えてくれた。おじさんの目的地は、偶然にも私と同方向だったのだろうか。それとも私を目的地まで届けるために、わざわざ一緒に来てくれたのだろうか。

お陰で私は無事に大好きなアイドルの実家に到着。呼び鈴を押すと、雑誌で見たことのある女性が出ていらした。私が日本から来たというと、「これにサインしてちょうだい!」とゲストブックを差し出された。少しお喋りをして、玄関先でお母さん、お父さん、それぞれと記念撮影をした。最後に宿泊先の大学寮の住所を見せ、どのバスに乗ればいいかを教えてもらって、お暇した。

教えてもらった番号のバスに乗り、運転手さんに住所を見せて、「ここに行きたい」と言ったら、「そこに座ってなさい、降りるときに教えてあげるから」と言うので、私は運転席のすぐ後ろの席に座った。途中、別のバスとすれ違ったとき、運転手さんはクラクションを鳴らして、反対車線のバスを呼びとめ、大きな声で何か話していた。たぶん、私をどこに降ろせばいいか、訊いてくれていたのだと思う。しばらくして運転手さんが、「ここで降りなさい」と教えてくれた。降りてからの道順も教えてくれていたようだが、よくわからないまま、お礼を言った。降りた場所にバス停はなかったので、運転手さんが親切にも、一番近いポイントで降ろしてくれたのかも知れない。

だが降りるてみると、朝、バスに乗った場所とはまったく景色が違っていて、私には大学寮がどちらの方向にあるのかすら、わからない。地図を広げて調べていたら、絵に描いたような英国紳士が通りかかり、「どこに行きたいのですか?」と声をかけてくれた。その方のお陰で、無事に私は大学寮に戻ることができた。

わずか二泊三日のスコットランド旅行だったけど、出会った人すべてがあまりに親切だったことに私は驚嘆した。それも、いかにも親切にしているという感じがまったくなくて、みんな、当たり前に親切なのだ。イングランドでも親切な人は多かったけど、自分が有色人種であることを常に自覚させられている感覚があった。だけどスコットランドでは、人種の違いを感じることなく、単に人として親切に接してもらっているような気がしたのだ。もしかしたら、私のアイドルへの思いがスコットランドを特に美化して見せていたのかも知れないけど。あるいは、時に英語とは思えない、ものすごいスコットランド訛りのせいで、意志の疎通ができただけでも感激が倍増したのかも知れない。

でも素朴なスコットランド訛り、私は今も大好きだ。

*先日の美大のカフェの帰りに見かけた、ヴォアイアンの残骸(!?)
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幻のスコットランドでのホームステイ

昨日の話に出てきた美術の先生、私は恨んではいない。中1と高1と二度も担任してもらってお世話になったし、おととしの同窓会でも久々に再会して、楽しくお喋りもした。私は睨まれていたわけでもないし、先生は何気なくコメントしただけだと思う。

大学で英語を専攻したわけでもなく、英語関係の資格があるわけでもない私にとって、英語の原点は中学時代に夢中になったスコットランドのアイドルバンドだった。歌詞カードを見ながら何度もレコードを聞いたり、紀伊国屋書店の洋書コーナーに行って、海外のアイドル雑誌を眺めたり、やがては欧米のファンと文通をすることが、いつのまにか私の英語の勉強になっていた。

高校に進学した頃、確かNHKラジオの英語講座のテキストに、夏休みのホームステイツアーの広告が出ていた。行き先はたいていアメリカかイギリス(イングランド)なのに、ひとつだけ「スコットランドでホームステイ」という広告をみつけ、私は大興奮。だって、どんなに探しても、スコットランドでのホームステイなんて、今まで見たことがなかったからだ。

両親はかなり無理をして私を中学から私学に行かせているのは十分承知していたけれど、私はどうしてもスコットランドに行ってみたくて、母への説得を試みた。「いま15歳のこの夏に一ヶ月、英語の生活を体験することは必ず私の人生に大きな影響をもたらす。20歳や30歳ではなく、いまこの若い年に行くからこそ、意味があるのだ・・・」みたいなことを、何度も何度も話したと思う。

今でも感謝しても仕切れないのだけど、とうとう両親は許可してくれた。どうやら母が伯母からお金を借りてくれたらしい。同じバンドの大ファンの同級生も両親を説得していたが、彼女はとうとう許可が下りなかった。彼女の家は裕福だったが、彼女がかなり悪い点のテストをいくつも隠していたことが発覚したりして、両親の信頼を得られなかったのだと思う。一緒にスコットランドに行こうと話していたのに、結局、私はひとりで参加することになった。

ところが・・・申し込みをしたあとで、ツアー会社から企画がキャンセルになったと連絡がきた。スコットランドでのホームステイを申し込んだのが、私を入れて2名しかおらず、代わりにイングランドのツアーに参加して欲しいとのことだった。「スコットランドに行きたかったのに・・・」と力説したら、「ホームステイは3週間で、最後の1週間は自由旅行ができるので、そのときに行かれたらどうですか?」とのこと。しぶしぶ了承したが、出発前のミーティングで「高校生にひとりで自由旅行をさせるわけにはいけません」と言われ、これまたしぶしぶ大学生グループと共に旅行することになった。ただし、ホームステイ期間の週末に、日本人みんなでスコットランド旅行をするという約束だった。

結果的には、イングランドにもスコットランドにも行けて、大学生に連れられてパリやミュンヘンやインターラーケンまで回って、充実した夏休みを過ごせたことをありがたく思う。わずか数日のスコットランド滞在の間に、憧れのアイドルの実家を訪ね、彼のご両親にも会えたので、私としては夢のような旅行だった。

で、最初の美術の先生の話に戻るのだけど、2学期の最初のホームルームの時間だったのだろうか、先生がいきなり私に、「イギリスはどうだった? みんなに話を聞かせてちょうだい」と言い出した。それで私は教壇に立って、イギリスでの体験を話したのだけど、話し出すと止まらない私のこと、たぶん授業時間をほぼ使い切ったのではないだろうか。なんでそんなことをさせられたのか、よくわからないのだが、よくも悪くも私にとっては忘れられない美術の先生なのだった。

ところで、きょうはちょっとした用事のために、山の家に戻り、それから別のお山のお寺に行った。いつ来ても、この山に入ると、神妙な不思議な気持ちになる。実はここ、私と夫が初めて出会った場所で、私たち夫婦の原点なのでした。

*山からの眺め
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先生の何気ない一言が生徒を傷つける

土曜出勤の夫は、職場の人とお昼を食べて帰るというので、私は合唱の練習を終えた息子を迎えに行き、ふたりで近くの大学の学食に向かった。息子がここのパングラタンを食べたいと言うのだ。学食といっても、美術大学のせいか、とってもおしゃれ。学生たちが建てたログハウス風の建物に、ダンボールで作ったオブジェのような照明、薪ストーブやソファもあり、遠く湖が見渡せる。大きなガラス戸からテラスに出ると、散歩道があって、そこにまたもや不思議なオブジェがある。一列に腰を下ろして、湖を眺めている人たちの彫刻だ。(タイトルは「湖を見るヴォワイアン」)

私は高校の選択授業で美術をとっていた。美術の才能はなかったけれど、音楽の方がもっと苦手だったのと、美術好きの友達が多かったのが理由だ。普段は友達と喋りながら、楽しい時間を過ごしていたのだが、一学期かけての自由制作の課題を課せられた。友達は本格的な油絵の制作に取り掛かっていたが、私はどんな時間をかけても素晴らしい絵が描けるとは思えず、これはもうアイデア勝負でいくしかない・・・と考えた。

そのとき私はスコットランド出身のアイドルバンドに夢中だったので、そのアイドルのポートレイトを作ろうと思っていた。そして、私の思いのたけを伝えるには、どんな手法をとればいいだろう・・・と四六時中考えていた。いいアイデアが浮かばないまま、日にちだけが過ぎていたのだが、ある日、学校帰りの電車の中で瀬戸内海をぼ~っと眺めていたら、ふと迷彩服の兵士の姿が浮かび、「これだ!」と思いついた。(米軍基地のある岩国発の電車だったせい!?)

私が大好きなアイドルの切り抜きを使って、コラージュの手法で大きな肖像画を作るというのが、そのアイデアだった。顔や頭髪部分をよく見ると、そのアイドルのシルエットが迷彩模様のように描かれていて、どこを見ても、そのアイドルだらけ・・・と、まさに私の溢れんばかりの思いを形にするのだ!

そう思いついたら、あとは作業に没頭するだけ。父の透写台を借りて、一番のお気に入りの特大ポスターをトレースし、その後はたくさんの切り抜きの輪郭をなぞり、下絵ができたら、ポスターカラーを延々と塗る。どのパートも大好きなアイドルの姿なので、ひとつひとつ丁寧に、愛情こめて、少しずつ色を変えて塗っていく。実に楽しい作業だった。

ようやく完成した作品に、我ながら大(自己)満足していたのだが、作品発表会で私の達成感はずたずたにされた。各自が自分の作品をみんなの前で発表し、それに先生がコメントをつけるのだが、私の説明を聞いた先生はこうコメントした。「どうせ何かのパクリでしょ」

頭の中に迷彩服が浮かんで、「これだ!」と思った瞬間を説明して反論したいと思ったけれど、私の心は傷ついていて、結局、何も言えなかった。別に私の作品を認めてもらわなくてもいいけれど、私が作品にこめた思いまで否定されたようで、悲しかったのだ。だから、この年になっても、しつこくこのことを覚えている。

そのせいなのか、アートは好きだけど、その後、自分で作品を作ろうと思うことはなくなった。って、単なる言い訳かな。

*これが美大の学食
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*息子と「湖を見るヴォワイアン」の一部
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母の原爆の記憶

母の日の花束をネットで注文していたせいで、今年もいかがですか?とメールがくる。「そうか~、また母の日か~」と思いつつ、今年は母がいないのだなぁと気づく。ちょっと寂しい。

被災地の悲惨な状況を報道などで聞くたびに、母がちょこっと話してくれた原爆の話を思い出す。田舎の女学生だった母は、広島に原爆が落とされたあと、救援隊として送られた。広島駅から焼け野原の市内を延々と歩き、郊外の学校にたどりつくと、大勢の負傷者が寝かされていて、女学生は食事を運んだり、傷に湧くウジを取ったりしていたそうだ。市内の様子、負傷者の様子は、あまりに悲惨すぎて言葉では表せないと言っていた。毎日、毎日、人が死んでいき、校庭には燃やされた遺体の山ができていたそうだ。その臭いが嫌で嫌で、夜はなんだか怖いので、友達と誘いあわせてトイレに行っていたとか。よく考えたら、母はそのとき14歳だったのだ。

そんな大変なことがあっても、広島の街はちゃんと復興したし、生存者たちも健康に問題はあったかも知れないけれど、意味のある人生を送られたのではないだろうか。うちの母も、病気はいろいろあったし、若い頃には苦労もあったようだけど、晩年は心穏やかな落ち着いた暮らしができて、幸せだったと思う。14歳の母は、まさか現代の豊かで便利な生活を想像だにしなかったろう。

とはいえ、何もなくて必死に生きていた14歳も、最新の医療に助けられて長生きできた晩年も、本人は同じように幸せだったと思う。心配性だったけど、何事にも一生懸命で、いつも希望を持っていたから。

ところで、うちの息子は「母の日」なんて、すっかり忘れている気配。あ~あ。

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決断のとき

これまで人生の重大局面での決断で迷ったことは殆どない。自分にとって重要なことほど、心の声がはっきり聞こえるというか、迷うまでもなく、最初から心が決まっているのだ。逆に、どうでもいいことについては、妙に迷ってしまう私がいる。たとえば、レストランのメニューで何を選ぶか、前髪をもう少し短くするべきか・・・といったこと。それから、その中間で、わりと大事なことだけど、しゃきっと心が決まらなかったり、自分の下そうとする決断に自信がないときは、少し猶予期間を置くことにしている。たとえば一日くらい。その間に、その決断を下した場合に起こりうる最悪の状況を想定して、「あ、これくらいなら大丈夫」と思えたら、GOサインを出す。

かつて東京の会社に勤めていたとき、ある日、突然、その会社を辞めたいと思った。望んで入った会社だったけど、仕事の内容はともかく、一緒に働く人たちがあまりにネガティブで(全員じゃないけど)、「これはたまらん!」という思いが少しずつたまっていて、とうとうこの日、私の中で「こんなところは、もう嫌だ」という思いがはじけたのだ。ネガティブな気持ちや悪意が私に向けられれば、言い返したり何なりするのだけど、私とは関係ないところで他の人たちにねちねちやってる様子がいつのまにか耳に入ったりするのが、嫌でたまらなくなった。そして、ふと「あ、この会社を辞めたら、こんな思いをしなくていいんだわ。なんで、今まで気づかなかったんだろう?」と思ったら、気持ちがすっきり。「よ~し、社長に話しに行こう!」と思ったのだが、「待てよ、こんな思いつきで会社を辞めて、あとで後悔したらいけないから、きょう一晩考えよう。明日も同じ気持ちだったら、そのとき社長に話しに行こう」と思いとどまった。

その日の帰り道、雑踏の中を歩いていたら、はるか前方から見たことのある人が歩いてきた。何年も前に別れて以来、一度も会ったことのない彼だ。「うわっ、やばい!」と思ったけど、あっちは暗くうつむき加減に歩いていて、まったく私に気づく気配はない。申し訳ないけど、今見ると、なんだか貧相で情けない感じの人だ。その彼には失礼ながら、私は「やっぱり、別れて正解! 私は正しい決断をして、正しい道を歩んでるんだわ~」と納得し、翌日、社長に退職願を出した。

世間は狭いと実感したのは、関西に引っ越して、結婚して子供ができたあとのこと。京都の友人から本をプレゼントされた。著者は、彼女のご主人の親友で、本には彼女のご主人も登場するから読んでみて・・・とのこと。「ええ~、そんな本をもらっても・・・」と思いつつ、ぺらぺらめくっていたら、あとがきにあの貧相な彼の名前が出ているではないか。この本の制作に携わったらしく、あとで聞くと、友人夫婦も出版パーティで彼と知り合ったという。おかげで彼の近況を友人から聞くことになり、まあ、お互い幸せで何より。私の決断が正しかったことを、この目で確認させてくれた彼には、今でも感謝しております。それにしても、人の縁とは不思議なものよ・・・。

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「ねこの森」とオールナイトニッポン

中高時代のことを思い出したついでに、鳩胸厚子という名前の由来を。当時、東京の大学生が「ねこの森」というミニコミ誌を作っていて、その編集長が広島出身ということで、校内でもその雑誌が出回っていた。いつか東京の大学に行きたいと思っていた私も、そのミニコミを通じて大学生の世界を垣間見ていた。で、回りの友達と一緒に編集部に手紙を出すと、返事が返ってきたりして、うわ~、大学生から手紙がきたって喜んだりしていたのだ。たぶん今見たら赤面確実のくだらない手紙を真剣に書いていたと思う。

で、経緯はよく知らないんだけど、ミニコミに触発されてか(?)、いつのまにか高校生(になってたんかな?)の間でノートが回っていた。一冊のノートが、私の通う女子高と近くの男子校の間を往復していて、いろんな人がいろんなことを書き綴っていたのだ。それが私のところにも回ってきたとき、とりあえず考えたペンネームが鳩胸厚子だった。鳩胸で胸板が厚いという自分の体型をそのまんま表しただけ。都合の悪いことはすぐに忘れる性格なので、当時、その名前でどんなことを書いたのか、まったく記憶にない。

けれど、その後、ちゃんと夢かなって東京の大学生になったとき、私はこのペンネームでラジオ番組に投稿してハガキを読まれたことがある。それは、高橋幸宏のオールナイトニッポン。当時、祖師ヶ谷大蔵の安アパートに暮らしていた私は、駅前にできた「フライ男爵」という惣菜屋さんのイカマリネを食べたのが病み付きになり、殆ど毎日のようにイカマリネを買いに行っていたのだが、イカマリネを主食にしていると思われるのが嫌で、毎回、わざわざ違う店員さんに当たるようにして、いかにも初めて客のように装って、迷いながらイカマリネを注文している…という話を書いたのだ。実際、そのハガキを選んでくれたのは、番組を一緒にやっていた放送作家の景山民夫だったと思うのだが、「バカな人ですねぇ」とふたりが笑ってくれたのが嬉しかったことを覚えている。

その後、景山民夫は某新興宗教にはまり、ちょっと腑に落ちない形で亡くなってしまったが、その新興宗教の問題で実はいまこの地域は困っているのだ。そういえば、景山民夫って本籍地は広島で、広島の小学校にも通った時期があったらしい。でもって、同じ信者仲間の小川知子も、広島生まれだった…。

ちなみに、ねこの森に関わっていた学生で、現在マスコミ関係で活躍している人たちも(何人も)いるそうだ。

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ぞろ目

きょうは、ようやく自力で山の美容室に行った。車でわずか30分の場所なのに、桜はまだつぼみも膨らんでない! いま咲いているのは、梅の花。

帰宅後は急いでお弁当を作って、息子の送迎。なるべく早い電車で塾に行きたいらしい。どうやら(授業は)学校より塾の方が楽しいようだ。塾がない日も、「塾の宿題が早く終わったら、遊びに行く」と、自分でスケジュールを立てて、がんばっている(!?)。「先生がこんなこと言った、あんなこと言った」と報告してくれるのは、殆どが塾の先生の話。友達に関しては、学校も塾も楽しいようだけど。

自分のことを振り返っても、いま帰省のたびに会っている同級生は小学校の塾仲間だった。田舎の小学校からただひとり、街の中学に進学して心細かったけど、田舎町の同じ塾に通っていた近隣地区の仲間が数人いたことが、どれだけ心強かったか。それから6年間、5時半起きで始発電車に乗って、その仲間と通学したのだ。もしかしたら息子も、いま出会ったばかりの仲間が生涯の友となるのかも知れない。

ところで、ぞろ目を見るたびに「天使のメッセージかも!」と喜んでいた私。テレビでサバンナ八木が、「最近嬉しいこと」として「ぞろ目をよく見る」と発言したのを聞いてしまった。「私、サバンナ八木と同じレベルなんだ…」と、ちょっとガックリ。

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シンガポール人の上司の口癖、ハッピーかい?

東電会長の記者会見を見ても、総理等の対応を見ても、トップがこんなことでいいんだろうかと怒りを通り超して、涙が出てくる。

今朝の「す・またん」で辛坊さんが言っていた。批判するのは簡単だけど、批判しても起こったことは変わらない。とにかく事態を何とかしてもらいたいから、今まで批判は控えてきた。だけど、ここまでの対応を見ていると、この人たちは批判を受けないとなかなか動かない。だからもう批判しなくちゃダメだ…というようなことを。

先日、かつての職場の香港人の上司の話をしたけれど、さらにその上に、私が尊敬するもうひとりの上司がいた。トレーディングルームを拡張するに当たって、シンガポールから突然呼び寄せられた華人のボスだ。本来なら支店長と同等のポジションの人なのだが、急遽、任務を与えられてやって来たため、オフィスも秘書もない状態。取り急ぎ、ガラス張りのトレーディングルームの隣にスペースを作り、最初は支店長秘書が面倒をみていたが、その後、トレーディングルームで最年少で唯一の女性だった私が上司のお茶くみなどの雑用を受け持った。といっても、トレーディングルーム内の仕事が優先なので、タイミングを見計らって、ガラス越しに上司とジェスチャーでやりとりして、お茶を入れていた。

この上司は、広東語を喋るシンガポール人だったので、香港人の上司とは広東語で楽しそうに喋っていた。そして、いつも気さくにトレーディングルームのスタッフ全員に声をかけてくれた。ひとりひとりの席に来て、「元気かい? 困っていることはないかい? ハッピーかい?」と尋ねるのだ。ひとり暮らしの私には、「田舎のお父さん、お母さんも元気?」とまで訊いてくれる。彼に言わせれば、「ハッピーでなければ、仕事に集中できない。私生活がハッピーじゃないと、仕事もハッピーにできない。部下にはハッピーに仕事をしてほしい」ということだった。

ある日、スタッフ全員を集めての会社のパーティが開かれた。ただし、夕方の時間、トレーディングルームを空にするわけにはいかず、私を含め下っ端の若手数人が留守番をしていた。するとパーティの途中で、シンガポール人の上司がトレーディングルームの様子を見に来た。もしかしたら、私たちが信頼されていなくて心配だったのかも知れないが、上司は若い私たちにねぎらいの言葉をかけてくれた。「みんながパーティで楽しい時間を過ごしているときに、ここに残って仕事をしてくれて、ありがとう。来年のパーティは、参加できるから、今年は我慢してくれ。僕が若い頃は、そもそもパーティなんて最初から参加できなかったんだよ。」

それから、私はその上司に、女性で唯一、トレーディングルームに配属してもらったことについてお礼を言ったことがある。すると、「配属を決めたのは僕だけど、感謝する相手は、君の回りの同僚たちだ。僕が新しいメンバーを外で募集しようか、それとも社内で誰かいい人がいるか尋ねたら、みんなが君がいいと推薦してくれた。君は一生懸命やっていると」と答えてくれた。

いよいよ上司の離日が決まり、東京での最後の出勤日。これも最後と思いつつ、午後のコーヒーを持って行ったら、上司がお礼を言ってくれた。「本当は君の仕事ではないのに、ずっと長いこと、僕のために毎日コーヒーを入れてくれて、ありがとう。明日からは、この任務から解放されるよ」と。

彼のためなら、本来の任務でないことも、喜んでお手伝いしたい。そう思える人だった。旧宗主国の人たちが幹部職を占めるシンガポールの職場で、現地人としてトップのポジションについていたというだけあって、人の心をしっかり掴む、叩き上げの、器の大きな人だった。

そういえば、細身でひょろりと背の高い彼が、皮肉まじりに言っていたことがある。「背が高いのは、いいものだよ。上司を見下ろして喋ることができるから。」きっと、いろんな苦労があったのだろう。
香港人の上司とともに、今も私が感謝している恩人だ。

ちなみに、東電の副社長もやけに長身だったよね…。

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