中高時代の同級生(その2)

関東から帰省中の同級生とランチをした。
昨夏の同期会以来の再会。しかも今回は
お互いの息子(とうちの夫)つき。

待ち合わせのレストランに行ってみると、
その前の広場は、ああ~、かつて私が金
本のサイン会に駆けつけた場所ではない
か!!

結局、同級生とは何時間もお喋りを堪能
できたのだが、街中に暮らしていた彼女
は学校の外でもいろんな人といろんな交
流をしていたのだなぁと感心。いや、そ
れは住む場所の問題じゃないか。彼女の
社交性は昔から羨ましく思っていたのだ。
当時から田舎者の私が気後れすることな
く輪の中に入れたのだもの。卒業後はす
っかり輪から外れていたけど、こうやっ
てまた交流ができるのは嬉しい限り。

どこに住んでいても、何歳になっていて
も、広島に戻ってくると、あの頃の世界
が蘇るから不思議だ。それは一生変わら
ないはず。

また広島で会おうね!!

*男子ふたり、コナンを読みふける。
13aug09-1

*帰る前に、『ズッコケ三人組』の石像を見に行った。
13aug09-2

大久野島の毒ガス工場

今朝もまた「きょうは長崎原爆記念日です」という町内放送が聞こえた。思えば、父も母も含め、あの戦争を生き延びてきた人たちというのは幸運に恵まれて、何かの力で生かされているのかも知れない。

何気なくテレビをつけたら、NHKのETV特集で『カルテだけが遺された~毒ガス被害と向き合った医師の闘い~』という番組をやっていた。戦争中、大久野島の毒ガス工場に勤務して、その後、呼吸器に障害を負った人たちの治療をひとりで続けた故・行武医師のドキュメンタリーだ。根本的な治療法もない中で、行武医師は患者の治療だけでなく、患者への医療手当を政府に訴え、イランの毒ガス患者治療の支援も行っていた。長年のカルテに書き込んだ患者の心の叫びをまとめる作業にも着手したが、それが完成しないまま、この春、肺がんで世を去った。番組では、ベッドの上で娘さんに口頭で作業を指示している医師の姿も映された。残りの作業は、家族の方が引き継いでおられるようだ。

実は私の母も学徒動員で大久野島の毒ガス工場に通ったひとり。長年、行武先生にお世話になった。母にとって忠海病院に定期健診で通う日は、懐かしい同級生にも会える日だったが、そのうち母の体調が思わしくなくなり、行武先生が健診に来なくても大丈夫なように(手当の申請のためにも健診が必要だったようだが)配慮して手続きをしてくださった。

なのに、その先生の方が先に亡くなってしまったのだ、母は訃報に驚いていた。先生は母とほぼ同年代だったのだ。

今回、テレビで私は初めて先生の姿を拝見した。昔は、なんでわざわざ忠海まで母は通わなくちゃいけないんだろう、もっと近くの病院で治療してくれたらいいのに、と思っていたけど、この番組を見て初めて知った。毒ガス患者を専門に診てくれたのは、行武先生だけだったのだ。毒ガス患者の話を真摯に聞いて、彼らのために動いてくれたのは行武先生だけだったのだ。

私が子供の頃から、母は気管が悪くて、日常的に鼻をつまらせ、痰を出していた。見ていて嫌になるくらい、ひどかった。不思議なことに、17年前の心筋梗塞で大手術をしたら、なぜか気管の症状がおさまった。今も理由はわからないけど、ふつうに呼吸ができるようになり、母もだいぶ楽になったはずだ。

母にたくさんの病気があるのは生活習慣のせいもあるだろうし、母自身も毒ガスや放射能のせいだと言ったことはない。昔話はたくさん聞いたけど、毒ガス工場に関しては当時、一学生に過ぎなかった母が知っていたことはほんのわずか。今夜の番組を見て、初めて知ることがたくさんあった。

行武先生の孤軍奮闘ぶりに感動しながら、こういったさまざまな人たちに助けられて、母は生かされているのだなぁと改めて思った。それは私も同じ。

大久野島にもいつか行ってみなくちゃ。行武先生のご冥福をお祈りします。

9aug09

伯母から聞く祖母の話

関西に暮らす伯母が母のことを心配してくれているので、
時々電話で様子を知らせている。夏休みに入って、私と
息子がふたりで実家に戻っていることを知らせると、き
ょうも電話がかかってきた。結局、延々と喋ること一時
間半!

去年、夫を亡くして、ひとり暮らしになった80代半ばの
伯母は、よく電話で喋っていた妹(うちの母)も入院し
てしまい、話し相手が欲しいのだろう。

身内の私には、気兼ねなく話ができるようだ。私の知ら
ない昔の話を、きょうはたくさんしてくれた。私が生ま
れる前に亡くなっていた祖父母の話など。母より7歳年
上の伯母は、母の知らない祖父母の姿も知っているのだ。

伯母は、亡き祖母に私の母を守ってくれるようお願いし
ているのだと、何度も繰り返した。祖母が亡くなるとき、
末っ子の母を見て、「そこに私の可愛い○○ちゃんがい
る」と最後に言ったのだそうだ。

確かに、母だけでなく、人間誰しもいろんな人に守られ
て生きているのだろう。

*渋滞中の峠の道から、実家のある海辺まで見渡せた!
28jul09

ジャパントリップの思い出

今朝、実家でレンタルしていた介護ベッドの回収に来てもらい、
広くなった和室でしばしごろりと寝転んでいたら、携帯電話が
鳴った。相手は仕事でもお世話になっている同級生。あれ、ア
メリカに出張のはずだけど…と思ったら、ホントにアメリカか
らだった。

二年前の春、彼の所属するアメリカの組織の会員たちが日本に
やって来た際に、私も彼のお手伝いで京都観光の案内をさせて
もらい、忘れ難い三日間を過ごした。
(*2007年4月14日のブログ参照)

彼はそのときのメンバー(左右ちぐはぐのツッカケを履いて、
ニューヨークから飛行機に乗ってやって来た豪快な女性!)の
お宅に滞在中で、旅行に参加した別のメンバーなども加えて
のディナーの最中に思い出話が盛り上がり、私に電話をしてく
れたというわけだ。その場にいた全員と少しずつお喋りをして、
私も少しだけディナーに加わった気分を味わった。

いい人たちとの出会いは、本当に心を豊かにしてくれる。たま
っていた疲れが、少しほぐれた感じ。私もいつかニューヨーク
に行きたいよ~!

*きょうはショッピングセンターでマッサージもした!
 もうコリコリ。
24jul09

父の戦争中の思い出@南大東島

きょうは父の施設に介護認定のための市の調査員の方や、
在宅時のケアマネさん、母を担当してくださっている包括
支援センターの方、そしてふたりが一緒に入れる可能性の
ある施設の方が次々と来てくださった。今後どうするか、
考えていくためだ。

今では誰が誰なのか容易にはわからなくなってしまった父
だが、ふたりきりでしばらく一緒にいると、少しずつわか
ってきて、昔話を始めてくれた。もう何度も聞いた話だが、
きょうはいつもより詳しい。

終戦間近に徴兵されて南大東島にいた時の話だ。「わしら
は年をとった、上等じゃない兵隊じゃったけぇ。あの島に
行っても敵は来ゃあせん。食べ物がないけぇ、やること言
うたら、芋を植えたり、魚を獲るくらいよ。ひとりで坂を
おりて貝や魚を獲りよったら、バシャ~ッと大きな波がき
てさらわれて、ああ、しもうた、もうこりゃダメじゃ…思
うたら、おクワさん(母親の名前)がわしの名前を呼ぶ声
が聞こえた。それで我に返ったら、目の前に岩があって、
それで助かった。あの声が聞こえんかたったら、海に流さ
れて死んどった。郷里におったおクワさんの声がなんで聞
こえたんか、いまだにわからんのんよ。」

そして、「『天皇陛下万歳!』て言よーたが、ほんまは
『おクワさん、万歳』じゃったんよ」と言うと、にま~っ
と笑った。「わしが無茶して生きよったけ、おクワさんが
名前を呼んだんじゃろうの~。あんたも、何かあったら(
母親に)名前を呼んでもらえーよ」。

少し元気を取り戻した母も、同室の方々などの身の上話を
聞いて、自分の幸せをつくづく感じたと話してくれた。両
親を早くに亡くしたので苦労はあったが、小さい頃は母親
にとことん可愛がってもらった思い出しかないと。末っ子
の母は夕飯後も母親に抱っこしてもらい、毎晩のように仲
のいい両親のお喋りをなんとはなしに聞いていたという。

そして私も母と同じような子ども時代を過ごさせてもらっ
た。だから、小さい頃から私の夢は「お母さんのようなお
母さんになること」だった。それがかなっているかどうか
は息子に確かめないといけないが、とりあえず、私はずっ
と幸せだ。

何歳になっても、みんな「お母さん」への思いは変わらな
いのだなぁ。

*母の病院に救急ヘリが到着!
22jun09

青山のホテルでのバイトの思い出

二つ返事で受けた仕事、う~ん、なかなか難しくて
手こずっている。けっこう時間がかかるかな。

しかし、きょうの夕方は英語レッスン。それが終わ
ると、子どもたちは外で遊んでいる。(ドラえもん
が始まるまでに家に帰るのだ。)

うちの息子は夕飯を食べると、学校の体育館へ。
一部の保護者が地域バレー大会の練習をしている横
で、子どもたちで遊ぶらしい。

夫は久々に東京出張。若手(?)の同僚3人で、な
んと車で出かけたらしい。行き先は南青山だって。

実は学生時代、私は青山のホテルで電話オペレータ
ーのバイトをしていた。知る人ぞ知るホテルで、当
時はさほど有名ではなかったREMや、ピーター・ギャ
レット(オーストラリアの環境相)も泊まっていた。
私が大好きだったスティーヴ・ジャンセンも!

あの頃は東京にいるだけで楽しかったが、今では田
舎生活にすっかり馴染んでしまい、大都市にはもう
住めないような気がする。せめて中都市かなぁ。

気がつくと、息子は深い眠りの中。幸せそう…。

19jun09

天安門事件のニュース

このところ、肩や背中はもちろん、腰や足、ついでに右腕までコリコリで痛い。朝は整体さんに来てもらい、結局、昼過ぎまで雑談で盛り上がった。

午後は両親のことでいろんな方と話すことに。施設の方、元ヘルパーさん、包括支援センターの人…。補聴器が故障したり、週末のことをお願いしたり、今後のことを相談したり…。やっぱり現場にいかないと物事は進まない。

夕方は久々に英語レッスン。本当はレッスン内容についてもっと考えて、事前準備を充実させたいのだが。

きょうもまだ天安門事件のニュースをやっていて、私に最初に中国語を教えてくれたSさんのことを考えている。上海出身で才色兼備。出会った時には、どこから見ても日本人というくらい、日本語も完璧だった。

私より少し年下で、今では日本に帰化して、子連れで海外駐在中というキャリアウーマンだが、彼女が日本に来たのは、天安門事件で民主化運動が潰されたから。約束されていた超エリートへの道を捨てて、言葉もわからない日本にひとりでやって来たのだ。

そんな彼女は日本の歌謡曲やJポップは、うわっつらの言葉が多くて、軽い!と言っていたっけ。隣の国の同世代の人たちは、どれだけ濃厚で切実な青春を送ったのだろう。で、結局、いまも何も変わってないのだろうか!?

天安門事件から20年

きょうの午後は別のママ友が「突然だけど、いい?」と立ち寄ってくれた。彼女のご近所でも問題があるのだが、このところ、大きな動きが出てきたらしい。なんだかんだあっても、みんな「自分の家」の中が平和であることが何よりだ。

さて、きょうは天安門事件から20年。当時、私は東京で外資系の金融機関に勤めていたが、この事件で金融市場も多少、混乱したことを覚えている。香港人の上司や同僚が、お昼休みにデモに出かけたことも思い出す。

夕方、マカオから台湾に強制送還されたウアルカイシのニュース映像を見た。パリ留学時に地下鉄で見かけた時もすでに肉付きがよくなっていたが、20年もの年月でさらに脂肪が乗っていた。(人のこと言えないが)「いまだに親に会えない」と語る姿を見て、留学仲間のウーハイを思い出した。ウアルカイシと同じく民主化運動に立ち上がり、パリに政治亡命していた彼は、「ウアルカイシと違って、無名の僕が中国に帰ればすぐに捕まって処刑される」と言っていた。「四川省の田舎にいる母親とは、一生会えないかも知れない」…と。

最後にウーハイに会ったのは東京だったが、いま彼はどこにいるのだろう!?

故郷の同級生と尽きない話

今回は帰省中に会おうと話していた同級生ふたりと、
結局行き違いになってしまったが、こちらに住んで
いる同級生と久々に会えることになった。

彼女は去年の夏の同期会にも参加できなかったので、
会うのは何年かぶり。ランチをする約束が結局、午
後の間中、喋り続けていた。

身近な同級生や家族の話から、政治経済の話まで…。
何でも話せる友人というのは、ほんとありがたい。
もちろん最後はカープの話題で盛り上がった!!

*カフェから広島の新球場、「マツダZoomZoom
スタジアム」が見えた!
3apr09

アメリカ人のペンパルとネットで再会

SNSを通じて、音信不通になっていた海外の友人とまた交流が始まるということが何度かあったけど、きょうも突然、登録しただけで殆ど活用していないSNSを通じてメッセージが届いた。

私も以前からネットで探したけど、みつからなかった昔のアメリカ人のペンパルだ。20代後半のパリ留学時代の夏休みにイギリスで会ったことは覚えているのだが、さてどの辺りから音信不通になったのか…。

ともかくもネット上の再会にふたりとも大喜び。SNS上で彼女の写真を見ることができ、家族の様子や近況もすぐにわかった。なんという便利な世の中だ。

とりあえずSNSは登録しておく価値はあるようだ。

*雨が降って雪もほぼなくなりつつある。
23feb09