将来の世代のために

特に忙しいわけでもないのに、このところ、あらゆることが滞っている私。かつては筆まめだったのに、最近では友人への連絡も滅多にしない。特に海外の友人とは疎遠になるばかり。

と思ったら、2年前の夏に娘ふたりと来日したアメリカの友人から、「最近、どうしているの?」とメールがきた。Facebookも殆ど使いこなしていないので、近況報告をまったくしていなかったのだ。彼女はアートが大好きで、美の追求こそが人生というエネルギッシュな女性。学生の頃から、趣味は絵画取引だと言っていたくらい! 自分のジュエリーブランドを立ち上げて成功しているビジネスウーマンでもある。(来日時には、京都駅のみどりの窓口で、Amexのブラックカードなのにチケットが買えず、大騒ぎに。実は慣れない新人スタッフがチケット代を何回かに分けての少額決算を試みたため、不審行動とみなされたと後で判明した。)

世界各地を飛び回っている彼女は、京都の美しさを絶賛し、日本はすばらしいと高く評価していた。実は彼女は自社製品の製造工場を中国に持ち、アジアの中ではいちはやく韓国の販売店から声をかけられ、販売網も開拓していたのだが、来日時には工場の移転を考えていること、韓国にはあまり行きたくないことなどをグチっていた。本当は日本に販売網を持ちたいが、日本市場への参入はなかなか難しいとのことだった。

日本の良さをわかってくれる人、評価してくれる人は世界にたくさんいると思うのだが、なにせ日本人は自己アピールが下手で、かなり損をしていると思う。中国や韓国などは海外で活発にロビー活動をしているのに、日本は官民ともに情報発信が少なすぎるのではないか。しかも、明らかにある意図を持ってロビー活動をしている海外勢力に対して、日本の政府はあまりにも無策だ。

きょうもネットでこんな署名をした。まだまだ人数が足りないようだが、どうか一刻も早く多くの日本人が目覚めますように。手遅れにならないうちに・・・。

とりあえず、私ももうちょっとマメに海外にも情報発信できるようにならなければ。将来の世代のために。

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Nellie the Elephant(トイドールズ)

この国の状況を考えていると、くら~くなってきたので、同じパンクでも笑える曲を聞きたくなり、思わず検索してしまったのがこの曲。子供向けの曲をパンクバンドのToy Dollsがカバーして、イギリスで大ヒット。私がパリの銀行で一緒に働いた、パンクスからは程遠いホワイトカラーのイギリス人たちも、この曲はジェスチャーつきで歌っていた。

このToy Dolls、日本にも固定ファンがいて、一時は毎年のように来日していた。実は私も、毎回ライヴに足を運んでいた時期がある。人気が高まり、最後はどこかのホールで演奏したと思うけど、やっぱり一番楽しかったのは新宿ツバキハウスでのライヴだった。みんなでジャンプしまくり、歌いまくり、もみくちゃにされながら、相当の体力を消耗した。たった3人のバンドなのに、その演奏はパワフルで、コミカルで、本当に楽しかった!

Toy Dollsはニューキャッスル近郊の出身で、ローマ字読みに近い訛りがあり、そこがさらに愉快だった。Butがブット、punkがプンク、jump upがジュンプウップという具合だ。しかも早口の歌詞が多くて、アメリカ人のペンパルは歌詞カードがなければ何を歌っているかわからないと言っていた。

数年前、山の集落で友達がパーティを開いた際に、京都在住のスコットランド人男性を紹介された。名前はDougyだというので、Toy Dollsの名曲を思い出し、「Dougy GiroのDougyですね!?」と言うと、めっちゃくちゃ喜ばれた。「そう、Dougy GiroのDougyと同じ名前だよ!」と。 そして思わず、一緒に合唱した。”Dougy, Dougy Giro, Dougy, Dougy, Dougy, Dougy, Dougy, Dougy Giro!”

やっぱりコミックバンドも捨てがたいのだ!

 

Anarchy in the UK(セックスピストルズ)

このことろ懐古趣味に走ってる・・・。ピストルズのデビューは1976年。この「アナーキー・イン・ザ・UK」の歌詞には、MPLA(アンゴラ解放人民運動)とか、UDA(アルスター防衛協会)とか、IRA(アイルランド共和国軍)なんてのが出てくる。北アイルランド紛争が激しかった時代だ。当時の私はもちろん何もわかってなかったけど。

後にジョン・ライドン(当時はジョニー・ロットン)自伝の日本版制作に関わったとき、遅まきながら、ようやく、当時のイギリスの時代背景が理解できた。それにしても、ロンドンの下町で暮らすアイルランド移民の貧しい生活ぶりは、けっこう衝撃だった。一億総中流といわれた同時代の日本人には、想像できないかも。

思えば、中学高校時代の私はイギリスの多くのバンドに憧れ、その音楽のもつエネルギーにひきつけられていたけど、その背景にある社会的、政治的事情など、実はよくわかっていなかった。自分が若かったこともあるけれど、日本ではミュージシャンが政治を語ったり、まして歌にするなんて一般的ではなかったもの。

今回の震災後、テレビで誰かが「チェルノブイリの事故後、ポーランドは安定ヨウ素剤を一斉に子供たちに配ったが、それは核攻撃に備えて用意しておいたものだった」と話しているのを耳にした。米ソ冷戦時代、私たち平和ボケ日本人は、なんの恐怖も持たず、のほほんと暮らしていたように思う。けれど、その頃、私が文通していたヨーロッパの同世代の若者は、「いつ第三次世界大戦が起こるかわからないから、結婚しても子供はいらない」などと、真剣に手紙に書いていた。それを読んで、日本人との意識の違いに愕然としたことを覚えている。私たちは同じバンドの曲を聞きながら、まったく違うことを感じていたのかも知れない。

そういえば、80年代に南アフリカの問題を知ったのも、イギリスで”Biko”や”Free Nelson Mandela”といった曲がヒットしたからだ。その後、90年代半ばに東京で出会った中国人女性から、「日本の若者の間で流行っている歌には、深い意味がないですね。歌詞を読んでも、胸に響かない」と言われたことがある。天安門世代の彼女が中国で聞いていたロックには、おおっぴらには主張できない政治的なメッセージなどが言葉の裏に込められていたのだと。

日本って、これまではよくも悪くも、若者が能天気な歌をうたっていられる国だったのだ。でも、このまま民主党政権が続けば、いずれ天安門世代のような経験をする可能性もあるのでは・・・と不安になるきょうこの頃だ。(特にマスコミを見ていると・・・)

Still a punk―ジョン・ライドン自伝
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God Save the Queen

子供にうるさいと言われながら、きょうもYouTubeでQueenを検索していたら、こんなのをみつけてしまった。
2002年にエリザベス女王戴冠50周年で、クイーンのブライアン・メイがGod Save the Queenをバッキンガム宮殿で演奏した映像だ。すご~い、こんなことやってたのね。

昔、クイーンの人気が出始めた頃、「Queen, England」の宛名のファンレターがバッキンガム宮殿に配達され、後日それがクイーンの元に届けられたという記事を読んだことがある。最初は日本でしか人気がないとか言われていたけど、その後、イギリスでも国民的人気のバンドとなった。フレディの訃報を聞いたときのことは今でも覚えている。当時、イギリス系の会社に勤務していたのだが、ロンドンと電話をしていたイギリス人スタッフが一報を聞き、大声でみんなに知らせたのだ。そのあと、そのイギリス人が立ち上がって、”We Are the Champions”を歌い始めると、ほかのイギリス人もそれに加わった。

それから、これは何年のことだったか・・・。ヨーロッパで皆既日食があったとき、イギリスに留学中だった友人が、ブライアン・メイがBBCで皆既日食の説明をしていたと教えてくれた。クイーンって、本当にイギリスを象徴する存在なのだ。

で、God Save the Queenときたら、やっぱりどうしてもこれを見たくなっちゃうよね~。
当時は若すぎて社会的な意味合いもわかってなかったけど、あのパンクのむちゃくちゃなパワーはなんだかすっごいものに思えたのだ。

イングランドの思い出(2)

私がイギリスに出発する際、父からホストファミリーのお母さんに渡すようにと手紙を託されていた。家に到着してすぐに、その手紙を渡すと、お母さんから「日本語なので、英語に訳してほしい」と頼まれた。「いったい父は何を書いたのだろう?」と読んでみると、「娘がお世話になります。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」といった内容。とりあえずわからない言葉を和英辞典で引いて、そのまま伝えていたら、お母さんが不安そうな顔をして、こう訊いた。「あなたは家で親に迷惑をかけているの?」 私もビックリして、これは本当にそういう意味ではなく、日本では挨拶として、こういう言い方をする習慣があるのだと説明したら、お母さんも安心してくれた。

それから、この家での生活ルールのようなものを説明され、「お風呂は週何日入りたい?」と訊かれたので、「え? 毎日入らないの?」と驚きながらも、イギリスでは何日が妥当なのかわからず、とりあえず「何日でも構いません」と曖昧に答えた。その後、子供たちにこっそり「お風呂は週に何日入るの?」と質問したら「一日」と言うので、ビックリしながらも、それに合わせた。(浴室はバスタブだけで、シャワーがなかったからだろうか。この年は急遽、コートを買い求めるほどの冷夏だったので、週一のお風呂でも結果的に支障はなかった。)

私だけでなく、グループのほかのメンバーも、みんな声高に主張することなく、控えめにイギリスの習慣に黙々と従って、やっぱり日本人だなぁと思わされた。ホストファミリーに言われて洗濯物を出すたびに、「これはまだ汚れてない」とハンカチを突っ返されると嘆いている人もいた。ハンカチは手を拭くものではなく、鼻をかむものだからだ。

私はあまり食べ物の好き嫌いはない。正直、初めてのイギリス滞在で美味しい食事には殆どありつけなかったけど、イギリスのサンドイッチやかりかりのトーストはかなり気に入っていた。ただし、日によっては、トーストの上にベイクドビーンズがたっぷりかかっていて、これが苦手でどうしても完食できなかった。トーストとビーンズが別々のお皿に入っていれば、まだ完食できたかも知れない。せっかくのトーストのカリカリが、ビーンズによってどろどろになり、その触感がたまらなく嫌だったのだ。それからビーンズの匂いも。(チリビーンズは大好きなんだけどね。) 残しては悪いと思い、誰にも見られないように犬に食べさせたこともある。(今思うとひどいことしたかな? 犬は喜んで食べていたけど。さすがイギリスの犬だ。)

日々のちょっとした出来事で、価値観の違いに気づいて驚くことは多々あった。英語の授業で「天皇とはどういう人か?」と質問され、語彙の少ない私は思いつく言葉を使い、「国民がrespectする人である」と答えたら、「respectとは、その人のポジションに拠るものではない」と先生に注意された。確かにそうだけど、今だったら、「日々、日本国民のために祈りを捧げてくださっている天皇陛下を、私は一国民としてrespectしています」と答えるだろうか。

それから、日本人グループでロンドンに行き、パブで昼食を食べたときのこと。お店がとっても忙しそうだったので、カウンター席の私たちが食べ終わったお皿を片付けていたら、ウェイトレスがきっとした顔をして「やめてちょうだい。それは私の仕事なんだから」と言いに来た。私たちの行為は親切ではなく、業務侵害だったのだ。

いろいろあっても、イギリスは私にとっては別世界で(延々と緑が続く田園風景に心癒された!)、居心地がよくて、3週間では満足できず、帰りの飛行機が離陸したときには思わず涙が溢れたほど。感受性豊かな時期だったからこその、感動だったかも知れない。私が両親を説得するために、「いま15歳のこの夏に一ヶ月、英語の生活を体験することは必ず私の人生に大きな影響をもたらす」と言った言葉は、まんざら嘘ではなかったのだ。あ、でも英語は今でもあんまり上手じゃないけどね。

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イングランドの思い出(1)

高1の夏休み、初めて飛行機に乗って、イギリスで3週間ほどホームステイをした。ホストファミリーは30代のお母さんと、娘2人(11歳&10歳)と息子1人(5歳)の四人家族。場所はサリー州の、白人しか住んでいないような小さな村だった。私たち約10人の日本人グループのほかにも、相次いで外国からの学生たちがホームステイをしにやって来たので、私も3週間の間に、アメリカやドイツの高校生と相部屋になったりした。イスラエルの学生との交流があったり(マイムマイムを踊ったはず)、昼間、学校に行くと、授業の合間にイタリア人の高校生と出会ったりした(日本人グループを担当するイギリス人の先生からは、なぜかイタリア人たちと交流しないようにと注意された)。

夏休みの間は各国の学生が集まっていたが、普段は白人だけの保守的なコミュニティだったのだろう。有色人種にはまず出会うことがない場所だったので、近所の小さい子供たちが私を見ると、はやしたてた。そのたびにホストファミリーの次女カレンが、私を守るようにして、いたずら坊主たちを追い払ってくれた。彼女は私が学校から帰るのをいつも待っていて、一緒に遊ぼう!となついていたのだ。ある日、ふたりでテニスをしていたら、近所の悪ガキどもが通りかかり、私の方が弱いことをはやしたて、「イギリスが日本を打ち負かした!」と大声をあげた。それを聞いて怒ったカレンが、ガキ大将に戦いを挑み、「あんたはイギリス代表、私は日本代表よ」と試合を始め、あっさり相手を打ち負かすと、私に「日本が勝ったよ!」と誇らしげに言いに来てくれた。

そうやって仲良く過ごしていたのだが、ある晩、カレンが甘えに来て、私を驚愕させるお願いをした。胸を触らせてほしいというのだ。冗談かと思ったが、彼女はいたって真剣で、私が(必死で和英辞典をひきながら)丁寧に断ると、「私のことが嫌いなのか?」と悲しそうな顔をした。「そんなことはない」と答えると、「じゃあ、なぜダメなの?」と押し問答。それが何日も続いた。昼間は普通に遊び、夜になると、お願いに来る・・・ということの繰り返し。しまいには彼女の弟が私に手紙を届けにきたり・・・。ルームメイトのドイツ人の方が胸が大きいから、彼女に頼んだ方がいいとか、私はいろんな言い訳を考えた。

あとで考えると、彼女はきっと寂しかったのだと思う。詳しいことはわからないが、彼女の母親は離婚したばかりで、仕事を始め、新しいボーイフレンドもいたのだ。彼女によれば、お父さんは医師だったか、とにかく以前はもっと大きな家に暮らし、乳母がいたのだそうだ。で、そのお父さんが夏休みの約束として、子供たちをシンガポール旅行に連れて行ったので、私はようやくカレンから解放された(!?)。

まだ30代と若かったホストファミリーのお母さんは、昼間は学校の清掃員として働き、夜はたまに暗い居間で黒人のボーイフレンドとテレビを見ていた。あの村で、私は自分たち日本人グループ以外の有色人種に出会ったことがなかったので、初めて暗い部屋でお母さんの彼を見たときにはぶったまげてしまった。

彼女がそれ以前にどんな生活を送っていたかわからないが、おそらくかなりの激変を経ていたに違いない。あの村で黒人の彼と付き合っているというだけで、私は「このお母さん、すっごくかっこいい!」と思ってしまったのだけど、子供たちにはいろいろ苦労があったのかも知れない。当時の私はまだ若すぎて、英語も不自由で、お母さんにいろいろ話を聞けなかったのが、今でも残念だ。

*「里山物語」で有名な地区の棚田
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スコットランドの思い出(2)

近所の小学生の女の子に、「最近、学校で何が流行ってるの?」と訊いたら、「みんなで怖い話をすること!」と答えが返ってきた。それでふと、スコットランドでの出来事を思い出した。

昼間はひとりで勝手に行動していた私だけど、夜は日本人グループのみんなと一緒に過ごしていた。私たちの宿泊先は、夏休みで学生がいなくなった大学の寮。広い敷地内の古い館で、泊り客も少なかったせいもあり、夜になるとし~んとして、不気味な雰囲気だった。だもんで、夜はみんなでひとつの部屋に集まって、なんだかんだお喋りしていたのだが、だんだん夜も更けてくると、誰からともなく怖い話が始まった。周囲の雰囲気も怪談にはもってこいだったこともあり、どんどんと話が盛り上がり、私たちの恐怖心も高まってくる。

ふと、みんなが静かになった瞬間に、変な音が聞こえてきた。ぴっちゃん、ぴっちゃん・・・と、何かのしずくが垂れる音。床に丸くなって座っていた私たちは、まわりをきょろきょろ。すると、そばのデスクから何かの液体がしたたり落ちているではないか。しかも、暗くてよくわからないけど、赤っぽい色だ。

思わず、「きゃ~っ!」と全員が叫んだ。「なに、これ~?」と、恐怖におののく私たち。
すると、ひとりがデスクの上に倒れていたビニールの袋を持ち上げた。「これだったみたい」。
なんとそれは、きゅうりのキューちゃんだった! 

その部屋に泊まっていたメンバーが、日本から持ってきたきゅうりのキューちゃんを食べかけのまま、デスクの上に置いていたのが倒れちゃったみたいです。

情けないけど、これがアイドルの実家に行ったことの次に鮮明に心に残っているスコットランドの思い出なのでした。(だって、本当に怖かったんだもん。)

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スコットランドの思い出(1)

せっかくなので、高1の夏に訪れたスコットランドの思い出を書こうと思う。私は憧れのアイドルのお母さんからハガキをもらったことがあった。日本の雑誌が彼の実家を取材して、ご両親はエジンバラのメドウス通りに住んでいて、お母さんは息子のファンとの交流を楽しんでいるというようなことが書いてあったのだ。それを見た私はダメ元で、メドウス通り宛てにファンレターを出したら、なんとお母さんからお礼のハガキが届いたのだ!

スコットランドに行ったら、メドウス通りのお家に行きたい!・・・というのが私の願いだった。イングランドのホームステイ・ツアーに参加した約10人(だったか?)の日本人グループと共に二泊三日のエジンバラ旅行に行った私は、昼間だけ、みんなとは別行動をとった。

初日は、知り合って間もないペンパルに会いに行った。彼女がテレビドラマ『西遊記』が好きだと言うので驚いた記憶がある。それから、私の好きなアイドルの実家への行き方も教えてもらった。なんと、彼のご両親はすでにメドウス通りのフラットから、ちょっと郊外の一戸建てに引っ越していた。

翌日、私はペンパルに教えてもらった住所を手に、最寄のバス乗り場に行った。そこに立っていたおじさんに、「ここに行きたいのだけど、このバスで大丈夫か?」と質問したら、おじさんは「私と一緒にいれば大丈夫」と、その後、一緒にバスに乗ってくれて、ここで降りなさいと教えてくれた。おじさんの目的地は、偶然にも私と同方向だったのだろうか。それとも私を目的地まで届けるために、わざわざ一緒に来てくれたのだろうか。

お陰で私は無事に大好きなアイドルの実家に到着。呼び鈴を押すと、雑誌で見たことのある女性が出ていらした。私が日本から来たというと、「これにサインしてちょうだい!」とゲストブックを差し出された。少しお喋りをして、玄関先でお母さん、お父さん、それぞれと記念撮影をした。最後に宿泊先の大学寮の住所を見せ、どのバスに乗ればいいかを教えてもらって、お暇した。

教えてもらった番号のバスに乗り、運転手さんに住所を見せて、「ここに行きたい」と言ったら、「そこに座ってなさい、降りるときに教えてあげるから」と言うので、私は運転席のすぐ後ろの席に座った。途中、別のバスとすれ違ったとき、運転手さんはクラクションを鳴らして、反対車線のバスを呼びとめ、大きな声で何か話していた。たぶん、私をどこに降ろせばいいか、訊いてくれていたのだと思う。しばらくして運転手さんが、「ここで降りなさい」と教えてくれた。降りてからの道順も教えてくれていたようだが、よくわからないまま、お礼を言った。降りた場所にバス停はなかったので、運転手さんが親切にも、一番近いポイントで降ろしてくれたのかも知れない。

だが降りるてみると、朝、バスに乗った場所とはまったく景色が違っていて、私には大学寮がどちらの方向にあるのかすら、わからない。地図を広げて調べていたら、絵に描いたような英国紳士が通りかかり、「どこに行きたいのですか?」と声をかけてくれた。その方のお陰で、無事に私は大学寮に戻ることができた。

わずか二泊三日のスコットランド旅行だったけど、出会った人すべてがあまりに親切だったことに私は驚嘆した。それも、いかにも親切にしているという感じがまったくなくて、みんな、当たり前に親切なのだ。イングランドでも親切な人は多かったけど、自分が有色人種であることを常に自覚させられている感覚があった。だけどスコットランドでは、人種の違いを感じることなく、単に人として親切に接してもらっているような気がしたのだ。もしかしたら、私のアイドルへの思いがスコットランドを特に美化して見せていたのかも知れないけど。あるいは、時に英語とは思えない、ものすごいスコットランド訛りのせいで、意志の疎通ができただけでも感激が倍増したのかも知れない。

でも素朴なスコットランド訛り、私は今も大好きだ。

*先日の美大のカフェの帰りに見かけた、ヴォアイアンの残骸(!?)
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幻のスコットランドでのホームステイ

昨日の話に出てきた美術の先生、私は恨んではいない。中1と高1と二度も担任してもらってお世話になったし、おととしの同窓会でも久々に再会して、楽しくお喋りもした。私は睨まれていたわけでもないし、先生は何気なくコメントしただけだと思う。

大学で英語を専攻したわけでもなく、英語関係の資格があるわけでもない私にとって、英語の原点は中学時代に夢中になったスコットランドのアイドルバンドだった。歌詞カードを見ながら何度もレコードを聞いたり、紀伊国屋書店の洋書コーナーに行って、海外のアイドル雑誌を眺めたり、やがては欧米のファンと文通をすることが、いつのまにか私の英語の勉強になっていた。

高校に進学した頃、確かNHKラジオの英語講座のテキストに、夏休みのホームステイツアーの広告が出ていた。行き先はたいていアメリカかイギリス(イングランド)なのに、ひとつだけ「スコットランドでホームステイ」という広告をみつけ、私は大興奮。だって、どんなに探しても、スコットランドでのホームステイなんて、今まで見たことがなかったからだ。

両親はかなり無理をして私を中学から私学に行かせているのは十分承知していたけれど、私はどうしてもスコットランドに行ってみたくて、母への説得を試みた。「いま15歳のこの夏に一ヶ月、英語の生活を体験することは必ず私の人生に大きな影響をもたらす。20歳や30歳ではなく、いまこの若い年に行くからこそ、意味があるのだ・・・」みたいなことを、何度も何度も話したと思う。

今でも感謝しても仕切れないのだけど、とうとう両親は許可してくれた。どうやら母が伯母からお金を借りてくれたらしい。同じバンドの大ファンの同級生も両親を説得していたが、彼女はとうとう許可が下りなかった。彼女の家は裕福だったが、彼女がかなり悪い点のテストをいくつも隠していたことが発覚したりして、両親の信頼を得られなかったのだと思う。一緒にスコットランドに行こうと話していたのに、結局、私はひとりで参加することになった。

ところが・・・申し込みをしたあとで、ツアー会社から企画がキャンセルになったと連絡がきた。スコットランドでのホームステイを申し込んだのが、私を入れて2名しかおらず、代わりにイングランドのツアーに参加して欲しいとのことだった。「スコットランドに行きたかったのに・・・」と力説したら、「ホームステイは3週間で、最後の1週間は自由旅行ができるので、そのときに行かれたらどうですか?」とのこと。しぶしぶ了承したが、出発前のミーティングで「高校生にひとりで自由旅行をさせるわけにはいけません」と言われ、これまたしぶしぶ大学生グループと共に旅行することになった。ただし、ホームステイ期間の週末に、日本人みんなでスコットランド旅行をするという約束だった。

結果的には、イングランドにもスコットランドにも行けて、大学生に連れられてパリやミュンヘンやインターラーケンまで回って、充実した夏休みを過ごせたことをありがたく思う。わずか数日のスコットランド滞在の間に、憧れのアイドルの実家を訪ね、彼のご両親にも会えたので、私としては夢のような旅行だった。

で、最初の美術の先生の話に戻るのだけど、2学期の最初のホームルームの時間だったのだろうか、先生がいきなり私に、「イギリスはどうだった? みんなに話を聞かせてちょうだい」と言い出した。それで私は教壇に立って、イギリスでの体験を話したのだけど、話し出すと止まらない私のこと、たぶん授業時間をほぼ使い切ったのではないだろうか。なんでそんなことをさせられたのか、よくわからないのだが、よくも悪くも私にとっては忘れられない美術の先生なのだった。

ところで、きょうはちょっとした用事のために、山の家に戻り、それから別のお山のお寺に行った。いつ来ても、この山に入ると、神妙な不思議な気持ちになる。実はここ、私と夫が初めて出会った場所で、私たち夫婦の原点なのでした。

*山からの眺め
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魔法の街

晴れて気持ちのいい土曜日。夫はいつも通り出勤し、息子は合唱団の練習に出かけたのに、私の仕事はなかなか進まない。ふぅ。

奇跡話ついでにパリのことを思い出すきょうこの頃。私は、パリを魔法の街と呼んでいた。街の不思議な空気が、日々の暮らしに魔法を呼び込んでいるような気がしたからだ。

そのひとつの例が、広島時代の同級生との再会だ。中高6年間を共に過ごし、仲のよかった友人がいた。東京の同じ大学に進学したので、その後も仲良くしていたのに、ある日、突然、絶交の手紙がきた。もともと、私が彼女にいじられる関係だったので、なんで私の方が絶交を言い渡されたのか、よく飲み込めなかったが、今風に言えば、私のことがうざくなったということだったと思う。

しばらくして、彼女は大学を休学して、ヨーロッパに留学したと風の便りに聞いた。その後、広島時代の同級生に聞いても、彼女と連絡をとりあっている人はいなかった。

それから7年後、私はパリに暮らしていた。その日の朝はすぐ近所の銀行まで支払いに行くため、化粧もせず、どうでもいい格好で外に出た。路地の角まで来たところで、アジア系の美女が表通りをさっそうと歩いて行く姿が見えた。きれいな人だなと思いつつ、どこかで見たような…。もしかして、7年前に絶交された親友かも…。

確かめたいと思いつつ、万一、本当に彼女だったとしても、絶交を言い渡された身としては、無視されるだけかも…と不安がよぎる。でも、やっぱり声をかけなきゃ。と思い切って、後ろからその女性を追いかけ、「すいません!」と日本語で声をかけた。

女性は振り返って私を見ると、驚いた顔で私の名前を叫んだ。次いで、「なんで、ここにおるん!?」とお互い、訊いていた。私が留学中であることを告げると、彼女もイギリスに留学していたという。その留学期間を終え、日本に帰る前に何日かパリに立ち寄り、まさにその日の夕方、成田行きの飛行機に乗るのだと。

結局、お互いの用事を終えて、その日の午後、改めて会う約束をした。そこで互いの7年間の出来事を話し、またの再会を約束して、私は彼女を見送った。手を振る彼女の目は、涙でうるんでいた。

これを機に、私たちはまた連絡をとりあうようになり、私の帰国後も東京で親しくつきあっていた。けれど、彼女も海外を行ったり来たり、私も中国に留学してしまったりで、今はまた連絡が途絶えている。

次の魔法を心待ちにしているのだけど、パリに行かないと、無理かしら!?

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