父の戦争中の思い出@南大東島

きょうは父の施設に介護認定のための市の調査員の方や、
在宅時のケアマネさん、母を担当してくださっている包括
支援センターの方、そしてふたりが一緒に入れる可能性の
ある施設の方が次々と来てくださった。今後どうするか、
考えていくためだ。

今では誰が誰なのか容易にはわからなくなってしまった父
だが、ふたりきりでしばらく一緒にいると、少しずつわか
ってきて、昔話を始めてくれた。もう何度も聞いた話だが、
きょうはいつもより詳しい。

終戦間近に徴兵されて南大東島にいた時の話だ。「わしら
は年をとった、上等じゃない兵隊じゃったけぇ。あの島に
行っても敵は来ゃあせん。食べ物がないけぇ、やること言
うたら、芋を植えたり、魚を獲るくらいよ。ひとりで坂を
おりて貝や魚を獲りよったら、バシャ~ッと大きな波がき
てさらわれて、ああ、しもうた、もうこりゃダメじゃ…思
うたら、おクワさん(母親の名前)がわしの名前を呼ぶ声
が聞こえた。それで我に返ったら、目の前に岩があって、
それで助かった。あの声が聞こえんかたったら、海に流さ
れて死んどった。郷里におったおクワさんの声がなんで聞
こえたんか、いまだにわからんのんよ。」

そして、「『天皇陛下万歳!』て言よーたが、ほんまは
『おクワさん、万歳』じゃったんよ」と言うと、にま~っ
と笑った。「わしが無茶して生きよったけ、おクワさんが
名前を呼んだんじゃろうの~。あんたも、何かあったら(
母親に)名前を呼んでもらえーよ」。

少し元気を取り戻した母も、同室の方々などの身の上話を
聞いて、自分の幸せをつくづく感じたと話してくれた。両
親を早くに亡くしたので苦労はあったが、小さい頃は母親
にとことん可愛がってもらった思い出しかないと。末っ子
の母は夕飯後も母親に抱っこしてもらい、毎晩のように仲
のいい両親のお喋りをなんとはなしに聞いていたという。

そして私も母と同じような子ども時代を過ごさせてもらっ
た。だから、小さい頃から私の夢は「お母さんのようなお
母さんになること」だった。それがかなっているかどうか
は息子に確かめないといけないが、とりあえず、私はずっ
と幸せだ。

何歳になっても、みんな「お母さん」への思いは変わらな
いのだなぁ。

*母の病院に救急ヘリが到着!
22jun09

“父の戦争中の思い出@南大東島” への2件の返信

  1. 誰にとっても母親の存在って、いろんな意味で大きいんですねぇ。
    自分も母親だと思うと、しゃんとしなきゃ!と思います。

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