西日本豪雨で殉職された呉署の晋川尚人さんのお母様より

昨年の西日本豪雨(「平成30年7月豪雨」)から1年になろうとしています。関西でも電車が停まり、私が暮らす琵琶湖周辺でも大量の雨がずっと降り続けるので、窓の外を眺めては、「これ以上、降り続けたらどうなるんだろう?」と不安になったことを思い出します。それくらい尋常でない雨でした。

この豪雨は全国各地に甚大な被害をもたらしましたが、特に私の故郷の広島県の被害が大きく、全国の死者・行方不明者231名のうち、広島県が114名(死者108名、行方不明者6名)でした。(*2018年9月末までの情報による。)

その中のおひとり、28歳で殉職された呉署の晋川尚人さんのことを昨年、このブログで何度かお伝えしました。そして、そのことがきっかけで尚人さんのお母様とやりとりするようになりました。私も同年代の母親として、お母様の悲しみに胸が痛くなりますが、けれどその悲しみの本当の深さは私の想像を超えるものだと感じます。お母様のその悲しみを私はどうすることもできないことがまた悲しいのですが、尚人さんたちのご冥福を祈り続け、そして共に生きていくことはできるかな、と思っています。生前の尚人さんを知らないのに、お母様を通して尚人さんを身近に感じられるのも不思議です。尚人さん、たくさんの方々を助けてこられたと思いますが、私にもお母様との縁を取り持ってくださり、感謝しています。

以下は、尚人さんが殉職された7月6日を前に、お母様から届いたメッセージです。今年も九州等で大雨の被害がでていますが、どうかお母様の思いが天に届きますように。

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「西日本豪雨から一年…7月6日をむかえるにあたって」

私達親、家族にとって月の始まりが6日から始まるつらいひと月を刻みながら、早、一年という節目がやってきます。

毎日、息子「尚人」を思わない日はありません。時が流れてもこの喪失感は変わらないどころか日々深くなり、私の心の傷は癒えることなく傷口すら塞ぐことはできずにいます。

親にとって、子を突然失うこと耐え難く、今まで家族4人で生きてきた道のりや、様々な楽しかった思い出までもがこの不幸の訪れに繋がっていたのか……と否定的な思いが沸き上がり溢れてきます。

「世界一立派な息子、世界一親不幸な息子」
私達のところに産まれてきてくれて感謝しています。
そしてあの状況下で勇敢に行動した息子を誇りに思っています。

尚人を失った私達がこれからどのように生きていくべきなのか、頭で考えてみてもそれを行動にうつすことはまだ困難です。

辛い一年でわかったことは、当たり前だと思っていた日常は当たり前ではなく、かけがえのない貴重な時間だったということです。

唯一、遺された息子の家族の笑顔を見ることが私達の幸せになっています。

あたたかい言葉をかけてくれる友人達、そして尚人を通して知り合えた同じ思いをされている方々、多くの優しい方々にあらためて、
「ありがとうございます。どうか、尚人を忘れないでください。」

そして二度と同じ辛い思いをする方が一人もでませんように…と祈っています。

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*2018年7月13日の記事「呉署の晋川尚人さん(西日本豪雨で行方不明)

*2018年7月15日の記事「西日本豪雨で行方不明の晋川尚人さん(続報)

*2018年7月16日の記事「〔西日本豪雨〕呉署の晋川尚人さんに関する報道について

*2018年7月18日の記事「お帰りなさい。(晋川尚人さんへ)

*2018年7月20日の記事「家族を現場に導いた呉署の晋川尚人さん

*2018年7月22日の記事「晋川尚人さんのご両親の言葉

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先日なにげなく読んだ記事があります。

Foresightの連載記事【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(4)-寺島英弥

石巻市の警察官だった31歳の息子さん(謙治さん)を東日本大震災で亡くした母、青木恭子さんのお話です。

警察官の謙治さんが住民の避難誘導をしている際に被災したこと、しばらく行方不明だったのちにようやくみつかったこと、その間の、そしてその後のお母さんの思い…。

思わず、尚人さんのお母様を思い出していました。
この記事のことをお知らせすると、「東日本大震災が起きた時、なにか自分にできることを…と立ち上がって活動を始めたことが、尚人が警察官になろうと決めた理由のひとつでもありました」と。

同じ志、あるいは同じ悲しみを持つ人たちが、実は目に見えないところで繋がっていて、大きな輪となっているのかも知れません。

第37回:比叡山の『お坊さんと話そう』比叡山延暦寺では何を祈っているのか(2019.06.16.)

令和になって第一回目のポッドキャストでは、「比叡山延暦寺の数々の法要で、お坊さん方はいったい何を祈っていらっしゃるのか!?」という私の素朴な疑問をぶつけてみました。仏教の総合大学ともいわれる比叡山では、日本の仏教のあらゆる宗派の要素がほぼすべて網羅されているようですが、それぞれのお経や修法によって、祈る内容や目的が変わってくるのでしょうか。(鳩胸厚子

(*この番組は、iTunes等でも聞くことができます。購読ボタンを押すと、更新時に自動的にエピソードが追加されます。なお、番組についてのご質問は、https://hatomuneatsuko.com/ のお問い合わせのページからどうぞ。)

六四天安門事件の思い出(あれから30年)

30年前のきょう、私は東京・丸の内の英国系企業に勤務していた。香港に大きな拠点のある企業だったので、天安門事件後はチャイナリスクの影響をもろに被り、資金調達が容易にできなくなって大変だった。当時のボスは、カナダへの移住を目指していた香港人だった。彼にとって事件の衝撃は計り知れないほど大きかったと思う。その後、彼は毎日のように昼休みになると香港人の仲間と連れ立って、中国大使館前で抗議活動を行っていたようだ。

その年の秋、私は以前からの計画通り、その会社を辞めてパリに留学した。フランスのグランゼコールに新たに設置された英語で学べるMBAコースだったが、クラスには民主化運動をしていたらしい中国人の学生が2名いた。徐々に親しくなって話を聞くと、「詳しいことは言えないが、多くの人の助けにより、香港経由でここまで逃げ延びたのだ」という。あとでわかったのだが、クラスの大金持ちのエリートフランス人が、無償で住居を提供していたようだ。MBAコースの学費はかなり高額で、私はそれまで何年もかけて貯めたお金を使い果たしたのだが、彼らの学費は誰が払ったのか、私は知らない。しかし、こういう点に関して、フランスはとても懐が深い国だと思う。ラジオで中国民主化の特集番組を長時間やっているのを聞いたことがあるし、そもそもベトナム難民として渡ってきたと思われる人たちもパリではたくさん見かけたし、クラスには(国から逃げてきたと思われる)パーレビ王朝派のイラン人や、レバノン人、ラオス人もいた。特に政治難民には寛容な国なのだろう。

当時、カルチェラタンに「中国民主之家」という看板を掲げたアパルトマンがあり、そこが中国人クラスメイトたちの活動拠点だったらしい。その頃、パリのメトロで私は中国の民主化運動のリーダー的存在だったウーアルカイシ(ウルケシ)を見かけたことがあった。応援の言葉をかけたかったが、報道で見た姿よりもだいぶ太って、おしゃれなレザージャケットを着込んで、ガールフレンドらしき女の子といちゃついていたので、私はそのまま立ち去った。あとでクラスメートにその話をすると、「あいつは堕落した」と吐き捨てるように言ったのが忘れられない。

その彼が、卒業後、東京に出張でやって来た際に、再会を果たした。彼は、「フランス企業に就職し、アジア各地を廻っているが、まだパスポートがないので(おそらく政治亡命を申請中だったのだろう)、代わりの分厚い書類を持ち歩いている」と苦笑いしていた。そして、「シンガポール、台湾、香港、日本にはこうやって来れるのに、中国には二度と帰れないだろう」とも。「ウーアルカイシほどの有名人なら、帰国してもその動静を国際社会が注視するが、僕のような無名の活動家は帰国すれば、即逮捕され、処刑されて終わりだ」と。北京の大学で学んでいた彼だが、実は四川省の出身で、夏は暑く冬は寒いのに、エアコンもない家で母は暮らしていると話していた。その母に、二度と会うことはないだろうと。

その時の彼の、遠くを見つめるような、それでいて怖いほどに鋭い眼差しにドキリとしたことを思い出す。いったい彼は、それまでに何を見てきたのだろうかと。同世代の同じアジア人でありながら、こうも違う運命を生きているとは。中国人であることは、なんと過酷なことなのだろうかと、この時も、そしてその後、中国に太極拳留学した時も思ったものだ。

つくづく、日本は本当にいい国だ。

その後、音信不通になってしまったウーハイ。また会えることを願っている。

第4回:鳩胸厚子の「人生は奇跡の連続!」2019.05.17.

この5月から新天皇の即位とともに新しい令和の時代が始まりました。きょうは、新天皇陛下のご成婚の頃(平成5年6月9日)、私の回りで起きた小さな偶然についてお話します。(当時の)皇太子ご成婚直後、私の友人にも生涯の伴侶との運命の出会いが待っていたのです。

私もこんな偶然を経験したよ!」というエピソードがある方は、ぜひぜひhatomuneatsuko.com問い合わせページからお知らせください。たくさんの奇跡を皆さんと共有できたら、もっと楽しくなりそうです。

第36回:比叡山の『お坊さんと話そう』春の延暦寺-連休中の行事など(2019.04.28.)

4月4日~11日の御修法のあとも、春は法要が盛りだくさんの比叡山延暦寺。ここでしか行われない数々の法要の舞台裏について、ご住職からお話を伺いました。4月22日上宮太子講式4月26日廣布薩が終わり、今年は特別に4月28日から5月1日まで『天皇陛下御即位奉祝御修法』が行われます。また連休中は、西塔で「さくら祭り」を開催。普段は非公開のにない堂座禅写経ができるそうです。比叡山の麓の坂本地区でも、5月2日慈眼堂で、5月3日滋賀院門跡で法要があるほか、地元のお祭なども催されるとか。私もこの連休中に比叡山の桜を見に行こうと思っています。(鳩胸厚子

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息子の引き寄せ力(会いたい人には会える!)

息子は6年間お世話になった学校を巣立ったあとも、何かあれば学校に足を運んでいる。学校で同級生と待ち合わせたり、たまたま出会った先生と2時間もお喋りしたり。そんなに学校が好きなんかい!と、思わず羨ましくなるほど。

つい先日、私があるホテルのパーティに出席したら、偶然にも向いの宴会場で息子の学校の先生方のパーティが開かれていた。夫にお迎えを頼んだ際にそのことを話したら、夫と一緒に息子もお迎えに現れ、うまい具合にロビーで先生に遭遇し、宴会場に入れてもらっていた。担任を始め、いろいろな先生と雑談してきたらしい。(よく聞いたら、その前日も学校に行ったけど、担任の先生には会えなかったのだとか。)

それからちょうど一週間後、息子はまたも学校の行事に出向き、友達と一緒に後片付けまで手伝って、やっと帰ろうとしていたら、またも担任の先生と出会い、友達と一緒に夕飯をおごってもらって帰ってきた。男同士の絆が深まってる感じで、羨ましい。

最近では、小学校時代の同級生との再会も相次いでいる。息子は山奥の過疎地の小学校から、新興住宅地の大規模小学校に転校し、その後、中学受験をしたのち、またも市内の近隣地区に引っ越したため、いまの家の近所には友達がいない状態だ。小学校時代の仲良しとは、たまに連絡をとりあっていたが、彼らも東京だの大阪だので新生活を始めた。その中で、ひとりだけ近況がわからない友達がいて、共通の友達(複数)に訊いても、わからないまま。一応、家の場所もわかっているけど、いきなり訪ねる理由もなく、そのうちどこかで会えるかな~と思っていたら、数日前に会えたそうだ。電車に乗ったら、そこに彼がいたのだと!

しかし電車がけっこう混んでいたので、一駅過ぎた際にちゃんと顔を確かめて、そこでようやく話ができたそうだ。息子は連絡先を交換しようと思ったものの、カバンの中の携帯をすぐに取り出せず、とりあえず番号を口頭で伝え、「覚えてたら電話して」と言って、その次の駅で降りたらしい。私だったら一度で覚えるのは無理だと思うが、その夜、ちゃんと息子の携帯は鳴り、ふたりは久々にゆっくりと話せたようだ。

「会いたい人には会える!」ということを、改めて息子に教えられた。


*夏休みの思い出*

第35回:比叡山の『お坊さんと話そう』延暦寺の僧侶の日常業務とは?(2019.03.31.)

少し間があいてしまいましたが、早いもので、このポッドキャストを開始して1年が過ぎました。今回はご住職に、延暦寺での日常業務について伺いました。天台宗の総本山という大きな組織である上に、比叡山という大きな山が境内であるため、普通の街中のお寺とは違う業務や日常があるようです。大きな法要の舞台裏についても教えていただきました!(鳩胸厚子

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第3回:鳩胸厚子の「人生は奇跡の連続!」2019.01.23.

月1回更新のポッドキャスト、「人生は奇跡の連続!」の第3回目。受験シーズン真っ只中ですが、今回は子供の中学受験時のお話です。テーマは、「母の幻影」。少し長くなりましたが、私にとっては大切な思い出です。

私もこんな偶然を経験したよ!」というエピソードがある方は、ぜひぜひhatomuneatsuko.com問い合わせページからお知らせください。たくさんの奇跡を皆さんと共有できたら、もっと楽しくなりそうです。

鈴木るみこちゃんの思い出

るみこちゃんとは同じ大学の一年違いで、出会ったのはバイト先だった。同じシフトの時には、恋愛話など、たわいないことを語り合った。そこにはいつからかノートが置いてあって、日誌のようにみんな何かしら書いていくのだが、るみこちゃんの文章はいつも際立っていた。

大学卒業後、るみこちゃんは大手出版社の編集者となり、その会社の学生向けの新聞広告の一面にデカデカと写真が載っているのを見て、やっぱりここでも花形なんだなぁと誇らしく思った。時代はまさにバブル期。出版界は特に華やかだった。 

私の留学前後は東京のアパートを引き払っていたので、るみこちゃん家に泊めてもらったことが何度もある。その後、私が関西に越してからは、るみこちゃんが我が家に何度も来てくれた。生後3ヶ月の息子を抱いた、るみこちゃんの写真がアルバムに残っている。

東京を離れたあとも、こんな風に付き合いが続いていたのに、ある時、ちょっと気まずいことになり、実はそれ以降は会わないままだった。といっても、表面上は今まで通り。たまにメール等で連絡はしていたし、本屋でるみこちゃんの文章をみつけては喜んでいたんだけど。

それがおととし、突然ハガキが届き、それまでと違う筆跡と文章に驚いた。すぐにでも会いに行きたかったのに、私自身も仕事に追われて体調を崩した。ようやく落ち着いた頃、るみこちゃんからのメールに関西に遊びに行きたいと書いてあったので、きっと近いうちに会えると思っていた。メールには、仕事のことなど、ほかにもいろんなことが書いてあったので、るみこちゃんも元気になったと思っていたのだ。

どうして私はその後、連絡していなかったのか、自分でも不思議でならない。いや、連絡したつもりだったのだ。「いつでも来てくれて大丈夫よ。私もいつでも遊びに行けるよ」と伝えたつもりだった。それで、ずっと待っていたのだ、るみこちゃんからの連絡を。

るみこちゃんからの最後のメールを読み返したら、関西に遊びに行けたらいいなという書き方をしていた。つまり、自信を持って遊びに行ける状態ではなかったのだろう。そして、私に対して、遊びに来てねと書いてくれていた。それなら、私が会いに行けばよかったのだ。

いつでも、すぐにでも、会いに行くつもりだったのに、私の心のどこかに遠慮があったのだと思う。あの気まずい一件のせいで。もうわだかまりはなかったはずなのに。るみこちゃんの心の中にも遠慮があったから、あんな書き方をしたのだろうか。というより、それを読み取れなかったあの時の自分が情けない。そして、それを今になって気づいている自分も情けない。

もうずっと前、るみこちゃんが山奥の我が家(当時)に遊びに来てくれた時、幼かった息子にはまだ生まれる前の記憶が残っているかも知れないからと、るみこちゃんが「生まれる前はどこにいたの?」と尋ねたことがある。息子は、その時、肌身離さず持っていた大好きなアニメのゲーム攻略本をぱらぱらめくり、目に入った単語を組み合わせて、「永遠の」+「光の塔」と答えた。それを聞いて、「本当にそうかも!」、「すてきな言葉だね~」と盛り上がったのだが、るみこちゃん、今ごろはその「永遠の光の塔」に帰っているのだろうか…。

るみこちゃんが残した宝石のような言葉の数々・・・たくさんの人の心の中で今もきらめいていると思う。
すてきな思い出をたくさん、ありがとう。

——-追記——

Olive』、『anan』、『クウネル』、『つるとはな』等の雑誌を中心に活躍された鈴木るみこさんを追悼する会を、遅ればせながら開きたいと思います。彼女の文章が好きだった読者の方、あるいは彼女と仕事やプライベートで交流のあった方、どなたでもご参加ください。比叡山の麓で、鈴木るみこさんの文章や彼女にまつわる思い出など、語り合いましょう。

日時:2019年11月4日(月・祝) I部:午後1時~2時30分

                  II部:午後3時~4時30分

* 事前申込制、定員各20名。(空きがあれば両方参加も可)

場所:むあ文庫 muabunko.com 

  最寄駅:(京阪石山坂本線)坂本比叡山口駅/(JR湖西線)比叡山坂本駅

参加費:1,500円(飲み物・お菓子付)

お申込、お問合せは、hatomuneatsuko.comのお問合せページにお願いします。

*劇団を観に行ったときに流れていて、るみこちゃんに教えてもらった曲。マイク・オールドフィールドの「To France