大久野島、毒ガス工場。母の証言

私の母は戦争中、女学校から学徒動員として毒ガス工場で働いた時期があった。当時、毒ガス工場は軍事機密として存在を隠されていたので、現在もその全容をきちんと記録したものはないらしい。

戦後、毒ガス工場時代の後遺症に苦しむ患者たちを治療し、さらには国に補償を働きかけてくださった故・行武医師は、患者たちが口にした当時の思い出話をカルテやメモに書き留めていらしたそうだ。行武先生の娘さんがその遺志を継ぎ、その証言の数々をまとめて、出版を計画されているという。

そこで、その証言を確認の上、掲載を許可するかどうか知らせて欲しいと私に連絡がきた。すでに広島の親戚から、この話は聞いていたので、連絡があれば、すぐに対応しようと待っていた。

そしてきょう、その書類が届いた。母の証言はわずか10行ほどの事実の羅列。それでも読んでいたら、涙がでてきた。

昭和19年11月から終戦まで動員され、毎日通いました。(中略)最後には、大八車にドラム缶を乗せて四人で押していく作業をしました。行く回数が決められており、わらぞうりを一日に3、4足も履きつぶしました。(中略)昭和20年8月15日、玉音放送を聞きました。背が高かったので最前列におり、敗戦がわかりました。受け持ちの将校が、山の上にあがっておんおん泣いておりました。

このとき母は13歳。私が13歳の頃は、私立の中学に通わせてもらい、習い始めた英語が嬉しくて、毎日のように洋楽を聴いて胸を躍らせていたというのに。

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