神仏のご加護

去年、交流が復活した旧友と20年ぶり(?)の再会を果たした。連休で旅行中の友人一家を、桜が満開の山のお寺に案内した。

年月の経過を感じることもなく、初対面の互いの家族とも不思議に違和感なく過ごせる。そんな中、友人のご主人から「神仏のご加護」という言葉がでてきた。なんとご主人は、911テロの際にWTCビルの80階から生還されたのだという。衝撃的な話だった。

私たち全員がきょうこんな風に出会い、このような楽しい時間を共有できたことは、いくつもの奇跡が重なり合った結果なのかも。霊山の美しい空気を吸いながら、私も神仏のご加護に感謝した。

*山の麓の棚田地区ではレンゲが満開!
rengeogi

再会話(その2)

雪がとけたと思ったら、ここの奥の隣町の国道が土砂崩れで通行止めになった。うちの裏で雪に埋もれていたシイタケの原木も、やっとすべてが姿を現し、雪の中で育っていた巨大シイタケを発見した。自然の威力を感じるなぁ。

ところで、もうひとつ不思議な再会話。高校時代に仲良しだった友人と東京で同じ大学に入ったのだが、ある日、いきなり絶交を言い渡す手紙が届き、その後まもなく彼女は消えた。あとで、ドイツに留学したらしいと噂を聞いたが、高校の同級生で彼女のその後を知る人もなく、そのまま七年の年月が過ぎた。

その頃、パリに留学していた私は、寝起きの汚い格好のまま、電気料金の支払かなにかのために家を出た。そして、とても美しい日本人らしき女性とすれ違った。ほんの一瞬、遅れて角を曲がっていたら、彼女の姿を見ることはなかっただろう。きれいだけど、どこかで見たような…あ、あの同級生だ!と思ったけど、絶交された手前、ちょっと声をかけるのをためらった。(しかも、ひどい格好!)

が、思い切って声をかけたら、一瞬で彼女もわかってくれた。そして私の手をとって「厚子!」と叫ぶと、目に涙を浮かべた。近くのカフェに入って話をきくと、彼女は留学先のドイツで難病を発症し、帰国して入院治療をしていたのだという。その後、病状がだいぶよくなり、ヨーロッパ各地で療養したり、勉強をしたりしていたようだ。そして当時の彼女はロンドンでの留学を終え、最後にパリでの休暇を楽しみ、その日の夕方の飛行機で日本に帰るところだったのだ。空港に向かう直前の一時間ばかりを、偶然にも私たちは共に過ごした。

その後、彼女との交流は続いていたが、お互いにあちこちと移動が続き、結局また音信普通となっている。彼女の動静を知る同級生も、残念ながらいない。再び偶然の再会があることを、祈ってやまない。

*きょうは休日の夫と再度、近くの街のビストロに行ってみたが、12時前ですでに満席で1時間半待ちと聞いて諦めた。田舎でも流行るところは、流行るのだ。右の写真は、うちでできた巨大シイタケ&隣のおばちゃんがくれた雪の下から出てきた出来そこない大根。
manoysitdai

不思議な再会

昨日の話に出てきた中高時代の同級生とも、不思議な再会があったことを思い出した。彼女とは、お互い東京で大学生活を送っていたのに、高校卒業後は一度も会わなかった。私はそのまま東京で就職したが、彼女は大学卒業と同時に学生時代の彼と結婚して、彼の転勤のため名古屋に引っ越したと風の噂に聞いていた。

心がきれいで、まっすぐで、とっても頭がいい人。そんな彼女に私はずっと好感を抱いていたが、頭がよすぎる彼女は私にはちょっと遠い存在でもあった。(そのわりに、修学旅行では彼女をからかったりした楽しい思い出もあるのだが…。)

就職してから何年かたった頃、自己啓発セミナーにはまってしまった大学の同級生から、「次のセミナーに友達をひとり連れて行かなくてはいけないの」と頼まれた。明らかにやばそうなセミナーで、彼女の目をさまさせるためにも、仕方がないか…と足を運んだ。

当日、青山のビルの一室に30人ほどの若者が集められ、お話や自己紹介ゲームなどをさせられた。段々と時間がたつにつれ、周りの人たちは熱心に話に聞き入っている。「みんな、やばいんじゃない?」と思いながら、すっかり冷めきった私は早く終わらないかな~とそればかり考えていた。ふと見ると、ひとりだけ私と同じように、つまらなそう~に話を聞いている女性がいた。「同類がいた!」と嬉しくなって、よく見たら、それが名古屋にいるはずの同級生だったのだ。

セミナーが終わった途端、殆どの人たちは有無を言わせず次回のセミナー勧誘を受けていたが、私と彼女は辺りをはばかることなく大きな声で広島弁丸出しで喋っていた。ご主人の転勤が終わり、東京に帰ってきたという彼女と連絡先を交換して、その日は別れた。

しかし、お互い忙しい日々を送る中、殆ど旧交を温めるまもなく年月が過ぎた。転職活動をしていた私は、ある日の夕方、会社が終わったあと小さな出版社へと面接に向かった。いつもは残業がないのに、その日に限って定時に終わらず、面接の時間に少し遅れそうになったため、私は渋谷駅で公衆電話を探した。まだ携帯など普及していない頃の話だ。10台以上並ぶ公衆電話は、見事にすべてふさがっていたので、勘を頼りに一番早く終わりそうに思える人の後ろに立った。そして、電話を終えて振り返ったのが、そう、その同級生だったのだ。

事情が事情だけに、ゆっくり話すことはできなかったが、二度の偶然の再会を経て、その後はなんとなく交流が続いている。二度目の再会のときも、実は大手町の隣のビルで働いていたことが発覚したり、私が出版社に転職して初めて手がけた超マイナーな本を彼女が買っていたりと、他にも意外なつながりはあった。私が関西に引っ越したあとも、彼女のご主人が転勤となり、関西でまた何度も再会できた。

嬉しいことに彼女のイメージは昔とまったく変わらない。心がきれいで、まっすぐで、そしてもちろん頭がいい。彼女を育んだ瀬戸内海のように、おだやかで、やさしくて、温かい彼女の心に触れる度、私は懐かしさでいっぱいになる。

*きょうも犬の散歩に、隣の犬が仲間入り。
sornleo

不思議な縁

先日、中高時代の友人からご主人が制作したテレビの新番組のお知らせがきた。ネットで検索してみたら、その番組の制作に携わった方のブログに遭遇した。そして、そのブログの最新日記を見ると、なんとその方は東京から関西まで移動して、ご主人のバンドを見るために私の友人のライヴハウスに来ているという。まさに、私がその日記を読んでいた頃、ライヴが行われていたのだ。

なんともいえず不思議な縁を感じてしまった。が、そもそもなぜこの方のブログに読み入ってしまったか。それは可愛い男の子の写真を見てしまったから。この方の息子さんは、うちの子のほぼ二年後に生まれ、わずか2歳半で突然の病気でこの世を去ったのだという。

大切なものができると、人はそれを失うことを恐れ、おびえる。私も子供をもつようになってから、この子が何事もなく無事に大きくなるようにと、いつも祈るような気持ちでいる。何かの間違いで突然、この子がいなくなってしまったらどうしよう…という恐怖心は、いつも心のどこかにある。だから、子供の事件をニュースで聞いても他人事とは思えない。子供は特に、自分の子供でありながら自分のものではない、預かりものという意識があるからこそ、この気持ちは切実だ。

子供に限らず、出会いがあれば、必ず別れがある。それがわかっているからこそ、共有できる「いま」が大切なのだ。そして出会いも「いま」も、永遠に心の中で生き続ける。不思議な縁で出会った、もうこの世にはいない男の子も、いまでは私の心の中で生きている。

*きょうも霧の朝。このあとは快晴となりました。
kiriasbs

ドゥブロブニク

昨晩、サッカーのボスニア戦を見るとはなしに見ていたら、アナウンサーがビッチ、チッチ言っている。いやぁ、ボスニアの選手名を見たら、見事にほぼ全員が○○ビッチ、○○チッチとなっていた。大学時代、ホテルの電話オペレーターのバイト中に、ポッポビッチさんという人から電話があって、吹き出しそうになったことを思い出した。(まだ箸がころんでもおかしい年頃だったのだ。)

80年代の終わり頃、私はクロアチアのドゥブロブニクという街に一週間ほど行ったことがある。アドリア海の真珠と呼ばれる美しいリゾート地だ。銀行のジュニアディーラーの世界大会だったので、日中はずっとセミナーを受け続けたが、夕方や週末の自由時間に中世の姿をそのまま残す旧市街やお隣のモンテネグロまで足を伸ばした。

ある日の夕方、ドゥブロブニクの旧市街をひとりで歩いていたら、どこからともなく美しいリュート音楽が聴こえてきて、中世にタイムスリップしたような幻想に襲われた。そのまま音楽の出所をたどると、一軒の画廊(といってもお土産屋さんに近い)に行きついた。そこではおばあさんが、息子の版画を売っていた。絵にもひきつけられて、衝動買いしたら、作者である息子さんも出てきて、リュート音楽のタイトルを教えてくれた。

あまりに美しい街だったので、いつか新婚旅行で再訪しようと決意したが、その後、内戦が勃発した際に、この美しい街も攻撃された。なぜかわからないが、私はセミナー中もセルビア人と思われる人たちには好意がもてず、クロアチアの人たちに妙な親近感があった。あの日の夕方の、あの夢のような空間体験もいまだに鮮明に脳裏に焼きついている。バカらしいと思われるだろうが、密かに私は思っている。きっと私は前にもここに来たことがあったのだと。だって、そこにいるだけで涙がでてきたのだ。

だから、ボスニアには負けるわけにはいかない(!?)。引き分けでよかった~。(あとで調べたら、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口構成は、ボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%でした。う~ん、複雑!)

*これがドゥブロブニクで買った版画です。
dubpr

*大学時代にゼミで読んだ『ドリナの橋』。ユーゴの複雑な歴史がわかります。
ドリナの橋

東銀座 レストラン「ナイル」の思い出

今朝も雪が舞っている。
日曜だけど、夫はきょうは普段より早く家を出て、神戸・大阪で仕事。

私は子供の相手をしながら、相変わらず仕事。と言いつつ、おやつ代わりにパッパドを食べる。先日、輸入食品店でみつけて初めて買ってきたのだ。おとといのインド料理がまだ尾を引いている。

私が初めてパッパドを食べたのは、東銀座レストランナイル。(ここのメニューはパッパルと表記していたと思う。)カレー好きの私は、東京で機会あるごとにカレーの食べ歩き(?)をしたけれど、今でもここのカレーが一番好きだ。

カレーの味ももちろんだが、お店の人たちも忘れられない。インド独立運動の闘士だったという今は亡き初代ナイルさんは、レジの前に座って、ときどき話しかけてくれた。二代目ナイルさんは、BGMのインド音楽について質問したら、テープに録音してくれた。そして…驚異的だったのが、名前も知らない給仕のおじさん。これぞ、プロ中のプロ。こんな人は見たことない。

ナイルさんを始め、このおじさんもお客に「お嬢さん」、「若旦那」と呼びかける。なんと新鮮な響き! そして、うま~いこと店の名物「ムルギランチ」を薦め、食べ方を教えてくれる。というより、その通りに食べなくてはいけないのだ。

私は何度か通ううちに、ようやく「ムルギランチ」以外のものを頼む勇気が出たが、店の表のウィンドウで見て興味津々だったインドのハンバーグのようなものだけは、「時間がかかるよ」の一言で注文を受けてもらったことがない。

そのうち、私は「ムルギランチ」かその他のカレーパッパド二枚、食後はマサラティーを注文するのが定番となった。といっても、そんなに頻繁に通っていたわけではない。よくても二ヶ月に一度。一緒に行く人も、そのつど違っていたはずだ。そのおじさんのすごいところは、私のパターンを覚えていて、カレーを注文したあと、やっぱりパッパドも…と思っていると、ふと目が合って、「はい、お嬢さん、パッパド二枚ね」と心を読んでくれること。辛いカレーを食べて、ああ紅茶が欲しい…と思って顔を上げると、「マサラティーね」と声がかかる。

そして一番驚いたのが、パリで二年間を過ごして東京に帰り、久々にナイルを訪れたときのこと。店に入るなり、「ああ、お嬢さん、久しぶりだねえ」と声をかけられた。「え、覚えてますか?」と驚く私に、彼は「当たり前ですよ。きょうもパッパド二枚つける?」と言ってくれたのだ。これには感激した。

きょう久々にパッパドを食べたせいで、こんな記憶が蘇ってきた。ああ、またナイルカレーが食べたい。あのおじさんは健在だろうか。あれから十年は過ぎたから、もう私のことは覚えていないだろうか。

気がついたら、夫のために…と思って多めに揚げたパッパドを殆どひとりで食べつくしていた。辛いものを食べると、今度は甘いものがほしくなるんだよな~と思っていたら、大阪のど真ん中のホテルに行ったからと、夫がケーキをお土産に買ってきてくれた。「おお、ここにも私の心が読める人がいた!」と、ひとしきり感激したのでありました。

ああ、また食べすぎ。

ケーキ

無欲の勝利!?(夫が大量の洋服を手に入れた)

保育園に向かう道すがら、「あ、飛行機雲だ!」と子供が叫んだ。
お陰でしばらくの間、青く晴れ渡った空を見上げることに。
ああ、気持ちいい! 歩いて子供の送り迎えができることの喜び
をかみ締めた。

夕方は、夫が大きな紙袋をいくつも抱えて帰宅。食べ物をもらって
帰ることは時々あるけど、きょうはなにかと思えば、大量の衣類!
職場の先輩がクローゼットの整理をしたとかで、「着られなかった
ら、洗車にでも使え」と、ポロシャツやジャンパーなどが30着ほど
入っていた。しかも、新品同様(まっさらの新品も!)で殆どがブ
ランド物。

きょうの午後、友達と電話で長話したときに、私も夫も着るものに
無頓着すぎると話したところだったのだ。夫は作務衣かジャージ以
外のものを着ることが殆どない。そういう私も、人のことを言えた
筋合いではない。太ってサイズが変わったことを言い訳に、おしゃ
れする努力を怠っている。

それにしても…。とりたててそんなものいらないと思っているとき
にこそ、手に入ることって多くない? 邪念を捨てたときにこそ、
願いがかなうように。

空

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