女子校の効用と母の使命

息子が男子校を満喫していることには先日触れたばかりだが(「学ラン(と男子校)の効用」)、共学と違って異性の目がないので、変に気取ったりカッコつけたりする必要もなく、素を出せるのが、男子校女子校の良さだと思う。共学だったら女子に「キモイ」とか「ダサい」とか言われかねないオタク系男子も、その分野についてめちゃくちゃ詳しいエキスパートとしてある意味、尊敬され、きちんと認めてもらえる。いろんな趣味の、いろんなこだわりの子たちが互いに認め合って交流するのは、刺激的で楽しいだろう。成績の良し悪しや、モテるモテないといったことは別に重要じゃない。純粋に相性がいいとか、話が合うとか、趣味が似ているといったことで、友達付き合いが始まるのだろうと思う。

私も中高と女子校だったので、女子校の良さは体験済みだ。女子校育ちの影響は、かなり大きいと思う。そもそも文化祭、体育祭をはじめ、あらゆる行事は女子だけで行うので、当然ながら力仕事も自分たちでやる。「男に頼る」ことがないので、自然と自立の精神が身についたような気がする。そしてそれが、「なにをやってもいい!」というチャレンジ精神に繋がっているような…。

息子の学校もそうなのだが、私の母校でもOGの先生が多かった。つまり先輩方がロールモデルとして、日々、指導してくださるので、自然と学校の教育理念が身についた面もあるかも知れない。多感な中高時代に聞いた先生方のお話は、断片的だが今でも私の心にしっかりと残っている。

中でも一番印象的だったのが、家庭科の先生のお話だ。高校生だった私たちに、先生はおっしゃった。

「皆さんはこれから大学に進学するでしょうけど、私立であっても大学には国から多額の助成金が出ています。だから、皆さんは国民の税金をたくさん投入してもらって勉強ができるのだと自覚して、卒業後にそのお返しをしてください。例えば、社会に出て働くことで、国のためになる。あるいは結婚して家庭を築くことでも、お返しはできます。皆さんの多くは、いずれ母親になるでしょう。未来の日本を支えていく子供たちを育てるという、りっぱな使命があるのです。母親である皆さんがしっかりしてないと、明るい日本の未来はありませんよ!」

東京の女子大を出て、子育てをしながら定年まで勤め上げられた先生とは、何年も前の同窓会で再会した。その際、先生の言葉に感銘を受けて、今もその言葉を思い出しながら子育てをしていることを、先生に伝えることができた。ちなみに先生のご主人は、芸術家でいらしたとか。

いま振り返ると、中高のあの6年間が私の人生に与えた影響はとてつもなく大きかったと思う。あの時代の恩師や友人たちのお陰で、今の私があるのだ。あの学校に通わせてくれた亡き両親には感謝している。


*左上に火星、右下に花火!(8月7日の琵琶湖花火大会)昨晩はペルセウス座流星群を見た!

学ラン(と男子校)の効用

この夏、関西では今までにない酷暑が続いた。

隣市の高校に電車通学しているうちの息子は、異常に暑い日が続くというのに、7月に入ってもかたくなに冬服を着続けた。息子が通う男子校の制服は学ランなのだが、夏は学ランを脱いで、半袖(または長袖)のシャツ姿となる。中学生は素直に半袖シャツの子が多いようだが、高校生になると長袖シャツの袖をまくって着る人が多い気配。ところが、うちの息子は毎年、なかなか学ランを脱がないのだ。酷暑の今年も、相変わらず学ランを脱がないので、熱中症になるんじゃないかと心配していたのだが、本人に言わせると、「電車も学校も冷房がきいてるから」とのこと。しかも、高校生男子は冷房をかなり低い温度に設定するのだとか。

この夏、関西は酷暑の上に、何度も豪雨に見舞われた。大阪北部地震もあったし、地震や豪雨で広範囲に電車が止まることが何度もあり、そのたびに私が急遽、車で息子を迎えに行った。ところが息子はいまどきの高校生には珍しく(!?)スマホを持っていないので(というか、欲しがらないので)、こちらから連絡不可能なのだ。学校の公衆電話から突然、「電車が止まっているらしい」などと連絡が入ると、待ち合わせ場所を指定して迎えに行くしかない。

西日本豪雨の日も、お昼すぎに息子から電話が入り、授業が終わる頃には電車が運休になる見通しだというので、私は学校近くの喫茶店で待機することにした。その後、学校から各学年の授業終了時刻が書かれた一斉メールが届き、全員授業が終わり次第、部活なしで下校させるとのことだった。あの日の豪雨はすさまじく、いつもの山道は通行止めとなっていたので、私は市街地のルートで早めに迎えに行ったのだが、授業終了時刻を過ぎても、息子は姿を現さない。15分過ぎて、ちょっと心配になり、学校の前まで行くと、出口からちらほらと生徒が出てくる。まだ少し残っている子がいるようだけど…それにしても、息子は出て来ない。さすがに心配になってきて、学校の事務所で確認してもらおうかと正面玄関に向かっていたら、建物の奥の方で何人かの生徒が喋りながら歩いている姿が見えた。その中にひとりだけ、学ランがいるではないか! よかった、息子だ! そう、この時期に学ランを着ている生徒は、ほかにはいないだろう。

このとき初めて、「学ラン着てくれていて、よかった」と思った次第。夏に学ランを着ていると、「どこにいるかすぐわかる!」という効用があったのだ。本人に言わせると、学ランの効用は「内側を含め、ポケットがたくさんあることによる機能性」であるらしい。なので、7月も半ばを過ぎ、ハンパない酷暑が続いていた頃、「きょうこそ、学ラン脱いだら?」と薦める私に、息子は「かなり暑くなってきたけど、ポケットがないと困るしなぁ」とブツブツ言いながら悩んだ挙句に学ランを着て出かけていたのである。そして息子がようやく学ランを脱いだのは、なんと終業式の日であった。その前日が、あまりに暑くてマジでやばかったらしい。

それにしても…「学校でお前以外にまだ学ランの人、いたの?」と聞いたら、「さぁ、少なくとも同じ学年にはいなかったと思うよ」との答え。「じゃあ、きっと変人だと思われてるね」と言うと、「大丈夫。いろんなカテゴリーの変人がたくさんいる中の一種類だから」とニヤリ。ああ、これぞ男子校! 楽しいはずだよね。

ちなみに息子は、散髪されると「耳元がくすぐったくて耐えられない」というお子ちゃまな理由から、髪をなかなか切りに行こうとしない。今回も2月に切ったきりで、かなり伸びている。校則もゆるい男子校ゆえ、どんなひどい髪でも、誰も何も言わないのだろうが、「見ているだけでウザいんだよ!!こら、息子っ!! お前はロッチになりたいんか!?」と、母は毎日、心の中で叫んでいる。

ところで「学ラン」とは、江戸時代に洋服のことを「蘭服」と読んでいたことから、「学生用の蘭服」から「学ラン」になったのだとか。

73回目の原爆の日、大久野島の毒ガス工場で働いていた母を思う

昭和20年、広島の田舎の女学校の生徒だった母は、学徒動員で大久野島の毒ガス工場で働いていた。広島市に原爆が投下された後は、救援隊として派遣され、焼け野原となった広島市内を歩いて郊外の学校にたどり着き、そこで被曝した人たちの看病を手伝った。といっても当時14歳の母たちがお手伝いできたのは、食事を運んだり、患者さんの身体の傷にわくウジ虫を取り除いたり…といったことだったらしい。グラウンドには遺体の山ができて、それを燃やす臭いがたまらなかったと話してくれたことを覚えているが、あまり事細かに当時のことを聞いたわけではない。折に触れて話してくれたとは思うが、私が30代の頃だったろうか、「全部は話していない。とても話せない」という母の言葉に衝撃を受けた。

原爆と違い、大久野島の毒ガス工場のことは、まだ多くの人には知られていないと思う。毎年、秋に大久野島慰霊祭が行われていて、母が亡くなってからは私に招待状が届くのだが、平日の午前中の式典のため、いまだ出席したことがない。今年こそは…と毎年思いながらも。

けれど、今年は先月の豪雨JR呉線が不通となっており、慰霊祭前の復旧はないらしい。
我が家のお墓は呉線沿いの山の霊園にあるのだが、霊園に被害はなかったものの、山に登る道路がすべて通行不能となっていて、お盆のお参りも無理。

行けないとなると余計に思いが募る。今年は大久野島や山の霊園からの瀬戸内海の景色を思い浮かべ、ここでお盆を過ごそうと思う。

ほころびたけど捨てられない母のTシャツ

もう誕生日がめでたくもない年齢になったけれど、真夏に生まれた私は誕生日がくるたびに思うのだ。こんな暑い時期に出産した母は、さぞ大変だったろうなと。当時はまだ病院にエアコンはなかっただろう。

誕生日母に感謝する日なのだと、年々、強く思う。

母が亡くなった後、母の衣類は殆ど処分したのだが、自分でも着られそうなものはせっかくだからと持ち帰った。殆ど未使用に近いと思われるTシャツも何枚かあったので、「母もTシャツを持っていたんだ~」と意外に思いながら、それ以降、私が愛用している。夏に限らず、一年中、ジムで運動をするときに着ているのだが、襟のあたりがくたびれてきて、ほころびているところもあり、そろそろ処分しなくちゃなぁと思いつつ、処分できずにいる。そして、いまだに家の中で着ていたりもする。

母のTシャツだと思うから、捨てられない。ほころびていても。でも、このまま着続けるわけにもいかないし、どうしたものか。
来年の誕生日まで、悩んでいるかも知れない。

カラスの家族も「空の巣症候群」!?

6月26日の記事で、この辺りでは3羽のカラスが夏の晴天に羽を広げて日干しをする(たぶん)と書いたのだが、実はこの夏はまだ3羽のカラスを見かけていない。6月26日の記事に載せた写真でも、日干しをしているのは2羽のカラス。去年までは3羽のカラスが仲良く寄り添って、まるでコウモリ傘が3本並んでいるかのように、大きく羽を広げていたのに…。

3羽のうち1羽が少し小さかったので、両親と子供の3羽から成る家族だったのだろう。そして恐らく子供は巣立っていったということか。だから、今年は2羽のカラスしか現れないのだろう。しかし数日前に撮った写真を見ると、やけに2羽の距離が離れているではないか。子供が巣立ったあとの、冷め切った中年夫婦って感じで、こちらも身につまされながら眺めてしまった。

ところが、なんときょうは、とうとう1羽のみが現れて、ゆうゆうと羽を日干ししていた。写真は撮れなかったのだが、もしかして「空の巣症候群」のお母さんカラスだろうか!? それとも、お母さんに相手にされなくなって暇つぶしをしているお父さんカラスだろうか!?

よそのカラス一家のことを心配していたら、ネットを見ていた夫が話しかけてきた。「上沼恵美子夫源病別居しているらしいよ。完全別居の決定打は、大阪北部地震の時に別荘から自宅に帰ってこなかったことだって」

我が家の子ガラスが巣立っていくのは、いつだろう(と戦々恐々)。

(潜在的)地震恐怖症 / seismophobia

2018年6月18日(月)の午前7時58分

大阪北部地震で、この辺りも震度5弱の揺れがあったらしい。「らしい」と言ったのは、私は震度5弱と思える揺れを体感していないからだ。

普段は車通勤の夫が、その日は夕方から打ち合わせを兼ねた宴会に出席するというので、私が珍しく職場まで送って行った帰り道に地震が発生。といっても、私はスマホのアラームにビックリしたものの、「もしかしてちょっと揺れたかな?」というくらいで、そのまま走り続けたのだ。(たぶん、アラームのせいで、前後の車も徐行してたけど)

その5分後くらいに帰宅すると、家の中も外もなにも変わっていなかった。鴨居にかけていたハンガーも、そのまま。しかしよく見ると、金魚の水槽の水が少しだけこぼれていた! 

地震発生時、学校(@京都)の教室にいた息子や、うちからさほど離れていない職場にいた夫も、ものすごい揺れだったと話していたので、揺れの恐怖を感じなかった私はラッキーだったのかも。

私はいまだに震度4までしか、体験したことがない。どうも潜在的な地震恐怖症らしく、太平洋岸にも、高層マンションにも、住みたいと思ったことがない。というより、絶対住みたくないのだ。地震国である日本に絶対安全な場所なんて、ほぼないだろうと思うけど、それでも地震が来てもまだ大丈夫そうなところを選んで住んでいるつもりだ。(とりあえず生き延びれそうなところ。)

そして今回なによりも実感したのは、家族が一番ということ。みんな無事で一緒にいられることが、本当に幸せなのだ。ありがとうね。

*関連記事「私の東京脱出の理由(阪神淡路大震災の日に)

NCISはファミリードラマ

我が家は昔から、基本的に朝ご飯と晩ご飯は家族3人で食べている。子供が中学に入って以降だろうか、いつのまにか夕飯時には、録画している1時間ドラマを一緒に見るのが習慣となっているのだが、3人共通で楽しめる英米のドラマを見ることが多い。今まで我が家で人気だったのは、『BONES』、『ホワイトカラー』、『スーツ』(ハリー王子と結婚したメーガン・マークルも出演)、『シャーロック』など。最近では『ツインピークス』や『スニッファー ウクライナの私立探偵』が好評だった。

けれど、我が家でダントツの人気ドラマシリーズといえば、『NCIS~ネイビー犯罪捜査班~』。アメリカ、ワシントンDCにある海軍犯罪捜査局を舞台とした一話完結のクライムドラマ。私はそんなに入れ込むほどではなく、夫と息子がえらく気に入っていて、なにがそこまでいいのだろうとずっと思っていたのだが…。

最近になって久しぶりにまた『NCIS』を見始めたところ、遠くにいた家族に再会したような喜びで妙に心が温かくなり、私もかなり『NCIS』にやられていることを実感。FOXで現在、シーズン15を放送中だが、我が家はまだシーズン14を見ている最中。ずっと前に録画してそのままになっていたものを、満を持して毎晩、3人で鑑賞しているのだ。

シーズン14ともなると、私たち、視聴者にとっても番組のキャラクターは長年、付き合ってきた友人のような存在になっている。そもそも、ボスのギブスを中心とした捜査班は「チーム」というより「ファミリー」なのだ。(実際、ドラマのセリフでもファミリーと言っている。)それぞれ個性のあるキャラたちの過去のトラウマなども、ファミリーは(そして視聴者も)知り尽くしていて、その都度、互いに助け合い、絆を深めていく。だから、視聴者にとっても彼らは愛おしいファミリーのような存在になっているのだ。

もちろん、長年の間にはメンバーの移り変わりもあるので、いくつもの別れや悲しい出来事もある。さらに、毎回、悲惨な事件が起こるのに、それでも最後にはジョークを言ったり、おちゃらけてしまうアメリカ的な明るさに救われることも多い。「なんだかんだ言って、アメリカ人って明るくて強いな~、前向きだな~」と感心する。

そしてもうひとつ感心するのは、このドラマがある意味、海軍の宣伝番組にもなっていること。軍関連の制度やサービスなどの広報、あるいは一般的な啓蒙を兼ねた内容になっていたり、クリスマスやその他の折に触れて、「国のために戦っている皆さん」への感謝のメッセージを発信している。日本人である私はその都度、新鮮な感動を覚えるのだが、よく考えればこれ、当たり前のことなのだろう。

ロシアでは5月9日の戦勝記念日がもっとも重要な祝日で、若者が第二次世界大戦を経験したお年寄りたちに、「国のために戦ってくれてありがとう」とお礼を言うと聞いたことがある。ひるがえって日本はどうなのか…考えさせらる。

Once a Marine, Always a Marine.


↑これは琵琶湖のクルーズ船

*関連記事『NCIS~ネイビー犯罪捜査班

シャバーサナの度に蘇る母の愛

このところポッドキャストでいろんな番組を聞いている。いろんな人の人生の物語を聞く番組が面白くて、刺激を受けているのだが、やはり幼少期の経験がその後の人生に大きな影響を与えているのだなぁと実感する。特に成功者といわれる人は、幼少期に辛い思いをした人が多いような気もする。その辛い経験を乗り越える力があったからこその成功なのだろう。中でも、親との関係に恵まれないことは、よほど辛いことなのだろう。親から愛されていると実感できずに大人になり、その思いを何歳になっても持ち続けている人は意外と多いのかも…。

さて、私は健康のためジムに通っているのだが、そこのヨガのクラスで最後に行うのが屍のポーズ、「シャバーサナ」。仰向けに寝て、全身をリラックスさせて、目を閉じる…。たいてい私は眠りに落ちて、大きな寝息や、下手をするとイビキをかきそうになって焦るのだが、これ、本当に心地よい時間なのだ。

このとき、なぜか私は子供の頃、母と一緒にお昼寝をしていたときのことを思い出す。甘えん坊の私は、小学校の低学年になっても、学校から帰ると母に抱きついて、一緒に寝転んでしばらく昼寝をすることがよくあったのだ。ぽっちゃりした母に寄り添って寝る安心感。私にとって至福の時間であった。

その後、私自身が母親になり、息子とのお昼寝の時間が一番の幸せな時間となった。今では息子もすっかり大きくなったけど、いまだに私は何かあると思い出したようにつぶやいてしまう。「一緒にお昼寝していた頃、楽しかったね~」。あんな幸せな時間はなかったよ、と心から思う。

子供として、親として、こんな幸せな時間を持てたことは、本当にありがたいことだ。この幸せな思い出があるから、「何があっても大丈夫!」と思えるのだから。今も横になれば、すぐに母の温かな腕に抱かれていたときを思い出せる。シャバーサナのたびに、亡き母のぬくもりを感じて、ぐっすり寝てしまう私なのだ。

ちなみに、今年の母の日は私のアピールが効いたのか、息子が初めて花束をプレゼントしてくれた。でも、「お母さんにもらったお金で買ったんだけどね」だと。

結婚記念日を終え、天中殺について考えた

結婚記念日、日曜日だよ」と息子に言われ、おとといの日曜日は3人でお祝ランチに出かけました。しかし、月曜になってわかったのですが、息子は日曜日にインフルエンザを発症していたようです。小学校以来のインフルエンザ…。本人曰く、疲れが溜まっていたそうです。

ところで、結婚記念日については、このブログ日記で何度も何度も書いた気がしますが、私と夫は算命学の大家の助言に従い、私が天中殺に入る直前に入籍しました。本当は節分(2月3日)の前日の2月2日に入籍を予定していたのに、夫の書類が間に合わず、一時はどうなることかと思いましたが、その年の旧正月が2月5日だったので、無事に2月4日に入籍して、今に至ります。今も、この人と結婚できて本当によかったと毎日、感謝する日々です。

ところで、眞子様と小室圭さんのご結婚に向けた行事の延期を宮内庁が発表したとのこと。実は眞子様も私と同じ戌亥天中殺。昨年の婚約内定の発表後、「眞子様、天中殺に結婚されるなんて、大丈夫かしら?」と勝手に心配していました。

当初の予定では、納采の儀 2018(平成30)年 3月 4日(日)、告期の儀 2018(平成30)年 10月 7日(日)、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀 2018(平成30)年 10月31日(水)、朝見の儀 2018(平成30)年 10月31日(水)、入第の儀 2018(平成30)年 11月 4日(日)、ご結婚式 2018(平成30)年 11月 4日(日)と、すべて眞子様の天中殺期間。しかも「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」から「ご結婚式」までは年の天中殺だけでなく、月の天中殺にも当たっています。

小室圭さんは、2月4日から4月4日が月の天中殺なので、納采の儀はまさにその期間。それが月の天中殺に入った途端、その予定が延期されたという…。小室さんの天中殺は2022年からなので、2020年に延期であれば問題なさそうですが。

皇室の方々はこういった大切な日取りについて、算命学でなくとも、なんらかの方法で縁起の良い日を選ぶということはされないのでしょうか!? それとも、そういうことを考慮した上での当初の予定だったのでしょうか!? ともかくも、天中殺のご結婚を回避されたことが吉と出るよう、影ながら眞子様のお幸せを願っております。

ブログ移転の理由

家族で山奥の過疎地に暮らしていた13年前に、このブログ『鳩胸厚子の日記』を始めました。
そもそものきっかけは、当時、夫にデジカメをプレゼントされて、嬉しくて、毎日のように回りの景色を撮っていたので、それを遠くの街々に暮らす友人たちに見せたいという思いから。いきなり田舎に引っ越した私たちが、どんな場所でどんな生活をしているか、知ってほしいという気持ちでしたが、そもそも日記なんていつも三日坊主だった私が、「ブログならもっと長く続けられるか!?」というチャレンジ精神もありました。毎日、文章を書くという訓練を自分に課すという意味もありました。

結果は、自分でも驚くほど長く『鳩胸厚子の日記』は続きました。その間に両親ともに他界し、我が家は二度も引越し、保育園に通っていた子供は高校生となりました。近年はしばらく日記をさぼっていたのですが、今、昔の日記を読み返してみると、自分にとっては貴重な記録となっていることに気づきました。(特に両親の遠距離介護から看取りまでの頃!)しかし、それが無料ブログに書き溜めてあることに一抹の不安を抱き、夫のアドバイスを参考に、自分のページを作って、そちらに移転することにしました。(かなり夫に助けてもらってます!)

誰のためでもない、自分のために書いてきたものなので、他人様に読んでもらいたいというものではないのですが、それでも一応、「他人に読まれても恥ずかしくないものを書く」ことをモットーとしてきたので、過去の日記もまとめてここに置くことにしました。私がパソコンに強くないため、いまだに試行錯誤の繰り返し。しかも寄る年波のせいで、今までにない眼精疲労。作業もなかなか進みません。それでも、今はまた時間ができたので、『鳩胸厚子の日記』を本格的に再始動するつもりです。

最後に、前にも書いたことがあるけど、『鳩胸厚子』というのは私が高校生の頃にできたペンネーム。私の体型を表わした名前です。あれからすでに40年!? でも、中高時代って、いろんな意味で自分の人生の原点って気がします。わが子が今、まさにそんな時期なので、私は羨望の気持ちを抱きつつ、(生)温かく見守っているきょうこの頃。これから、このページがどんどん進化していくよう、頑張ります!

by 鳩胸厚子

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