つい最近、最寄の駅前にたこ焼き屋ができた。開店直後の週末は大盛況で、2時間待ちと言われて諦めたのだが、きょうの夕方、予防接種をすませた息子と行ってみた。夫には申し訳ないが、ふたりで夕食前の軽食としてペロリとたいらげた。味は合格点!
関西では家にたこやき器があるのは普通だそうだが、うちは夫婦ともに関西人ではないので、あいにく家でたこやきを作ることはない。けれど、子供時代の一時期、私はたこ焼き屋さんの隣に住んでいたので、たこ焼きはけっこう食べていた。
たこ焼き屋のおばちゃんは、母の昔からの知り合いで、私もそこの子供さんたちと小さい頃からの幼馴染だった。おばちゃんは、「いつか自分の家を建てたい」と、駅前通りの借家でたこ焼き屋を始めた。高校や小学校の通学路で、企業の独身寮なども並ぶ通りだったので、おばちゃんは安くておいしいたこ焼きを日曜以外は毎日毎日焼いていた。
やがて、うちの父が独立して自営となったとき、おばちゃんのたこ焼き屋の隣の借家に我が家も引越して、事務所を構えた。それ以来、私のたこやき消費量は格段に増えたのだ。
おばちゃんのたこ焼き屋は繁盛し、やがておじちゃんも今までの仕事を辞めて、おばちゃんと一緒にうどん屋を始めた。おじちゃんは無愛想な人だったけど、いつも元気で明るいおばちゃんのお店は相変わらず繁盛していた。
その頃、両親の仕事も軌道にのってきて、激務のあまり帰りが遅くなる日が続いた。そんなときは、たこ焼きでは間に合わず、私はおじちゃんのうどんを食べていた。あの頃の私は、週に何回、おじちゃんの焼きうどんを食べていただろうか。おじちゃんは私の好みをわかっていて、いつも「ソース、ちょっと多めにしといたよ」と家までうどんを運んでくれた。ひとり両親を待つ時間も、隣のお店の気配が感じられて、寂しくはなかった。
やがておばちゃんは念願の家を建てた。お店からちょっと離れた住宅地に、3階建てのりっぱな家ができた。なのに、おじちゃんは「お店で寝泊りする方が楽」と、結局、新しい家には殆ど帰らなかった。もちろん、おばちゃんも昼間はずっとお店で過ごした。
そんなある朝、おばちゃんがお店に来てみたら、おじちゃんが倒れていた。発見されたときには手遅れで、そのまま帰らぬ人となった。おじちゃんが殆ど暮らすことのなかった新築の家で、葬儀が営まれた。そしてその後、うどん屋はなくなったけれど、おばちゃんはずっとたこ焼きを焼き続けた。
我が家もその間に駅前通りから引っ越してしまい、私がおばちゃんのたこ焼きを食べることもなくなった。おばちゃんのたこ焼き屋は、今ではおばちゃんの娘さんが引き継いでいる。彼女も今では明るく元気なおばちゃんとなっているに違いない。
今でも私はたこ焼きを食べるたび、あの働き者のおばちゃん(&おじちゃん)を思い出す。「自分の家を建てる!」ため、いったいいくつのたこ焼きを焼いたのだろうか。おばちゃんの汗と涙のつまったたこ焼きが、私の血肉になっていればいいのだが。