プロ意識

私は一応、翻訳の仕事をしている。かつてバブルの頃、金融関係の職場にいたが、誰かを搾取しているような気分がまとわりつき、誰にも迷惑をかけずに一人でできる仕事はないかと考えた結果、今に至っている。専門の教育を受けたことがなく、実務経験もなかった私が、出版社の翻訳スタッフになれたのは、めちゃくちゃ運がよかったと言うしかない。転職を考えていた頃に、手相観さんから、「『私はきょうから翻訳家』と宣言すれば、あなたはもう翻訳家よ。翻訳家の名刺を作って、みんなに『私は翻訳家よ』と言えばいいだけ」と言われ、その気になっていたせいもあったかも知れない。

その後、フリーになって、今も細々と仕事を続けているけれど、結婚してからは夫という大黒柱がいるので、たいして稼いでいるわけじゃない。それでも東京から離れ、営業活動なしに今までやってこられて、ラッキーだと思っている。翻訳家として成功したいという夢があったわけではない。ただ誠実な仕事をして、食べていけたらいいな・・・という気持ちだった。自分の実力不足、勉強不足はよ~く自覚していたから、「お金をもらって勉強させてもらってるみたい」と感謝していた。

今もその思いは変わらないけど、たまに嫌な思いをすることも、もちろんある。他人を搾取していない代わりに、今度は私が搾取されている気分になることもあるし、「成功した翻訳家」ではないから、バカにされているというか、扱いが悪いこともある。それでも、すべてを謙虚に受け止めようとしてきたのは、何度も言うけど、自分の実力不足、勉強不足を自覚していたから。「私より上手に翻訳できる人は、世の中にたくさんいるにも関わらず、私にこの仕事を与えてくれた」というだけで、相手に感謝できたのだ。(いや、もちろん、人間なので腐って陰で愚痴ったりするんだけど。)

だけど、昨日は編集後の翻訳原稿の校正をしながら、今までにない徒労感に襲われた。こんなの、初めてだ。翻訳した原稿が、紙面や文字数などの関係で編集されることはよくあるのだが、それで嫌な気持ちになったことは今まではなかった。むしろ、プロの編集者の仕事ぶりに感嘆したものだ。たまに文字数とは関係ない修正があると、「こういう表現があったか~」と、自分のつたなさを反省する。単語をひとつ書き替えるだけで、こんなに良くなるんだなと感心すると同時に、あくまでも私の文章を尊重してくれているんだなと身が引き締まる思いがしたり・・・。ところが今回は、なんだか自分で書いたとは思えない文章がたくさんあって、よく読み返したら、やっぱり多くの箇所が書き換えられていた。中には助詞が換えてあるところも。文字数とは関係なく、編集者の好みで換えたのだろうか。けれど、日本語として間違っている箇所がいくつもあるし、前よりよくなっているとは思えない文章が多くて、いったい何のための修正なのか、わからない。

さらには、原文にはなかったパラグラフまで入っている(要するに編集者の作文)。文字数の関係で、削除するのはわかるけど、勝手に新たな文章を入れるなんて。翻訳者の立場として、私は作者の考えをそのまま日本語に置き換えることを目指している。そして、その文章がなるべく自然でなめらかに頭に入る日本語になるよう、努めている。国や文化の違いで、その文章だけではわかりにくい場合は、注釈をつけることもある。だけど、作者の心情を語った部分については、作者以外の人間が余計な説明をつける必要はまったくないし、そんなことをする権利もないと思う。

一応、作者の気持ちになって翻訳していたつもりだから、編集後の原稿を見て、作者の分まで二人分も傷ついてしまった・・・。いったいどういう意図だったのか、編集者によく聞いてみなくては。見方を変えると、この出来事のお陰で私にもやっとプロ意識が芽生えてきたようだ。そういう意味では感謝しなくちゃ。でも、やっぱり愚痴っちゃったよ・・・。

*結婚式のお土産
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