後日談(母のお導き?)

息子は小3のとき、友人一家に某学校の文化祭に連れて行ってもらったことがきっかけで、その学校に行きたいと言い出した。当時、山の集落の小さな小学校に通っていた息子にとって、都会の中高一貫校は衝撃の世界だったのだと思う。大勢の若者に、多様な部活、きれいな校舎。中でも、以前、テレビで見たぜんじろう先生の理科実験を実際に体験させてもらえたことが息子にとっては感動的だったようだ。

その学校に入りたい一心で、小5から塾に通い始めたのだが、親としては主に塾情報をもとに我が子の学力を見極めながら、複数の受験校を決めることになる。私としては、別の学校の方が息子向きに思えたが、息子はその学校には見向きもしない。受験日も重なっているので併願は無理。息子は本当に自分が行きたい学校のことしか考えておらず、ほかの学校にはまったく興味を示さず、学校見学にすら行こうとしない。

結局、私が塾で開催された併願可能な近隣の学校の説明会に行き、塾の先生の指導もあって、息子もその学校を併願することを了承した。しかし、そのための対策はいっさいしない。彼の頭にあるのは、第一志望の学校だけ。

もちろん、私も息子の願いが実現するよう、精一杯応援していた。息子なりに頑張っている姿を見ていたら、その思いが叶うよう、私も毎日祈るような気持ちだった。私も息子が受かることしか、考えていなかった。

ところが結果は不合格。実は合格発表を見に行く前になって、息子がぽつりと言ったのだ。

算数の試験中に鼻血が出た。

ええ~、なんで今頃言うの~!? 一番大事な算数、ただでさえ時間が足りない算数で鼻血が出たら、たぶんダメなんじゃない・・・!?」と私の頭の中でいろんな思いがよぎり、ドキドキしながら校門を入ると、やはり息子の番号はなかったのだ。

息子があれほど熱望した学校に入れなかったことは、私にとっても悲しいことだった。なんというか、息子がずっと恋焦がれていた女性への思いが通じず、ふられてしまった様子をつぶさに見てしまったような、なんともいえない切ない気持ちになった。

しかし、今だから言えるのだけど、私は息子の第一志望の学校には一抹の不安を覚えていたように思う。だから別の学校を薦めたりしたのだ。(塾の先生も息子はこっち向きだと、別の学校を薦めていたくらいだ。)

結局、息子は躊躇しながら、近隣の併願校に進学した。お寺の世界しか知らなかった息子にとって、ミッション系の学校というのは想定外で、そういう学校には行きたくないと当初は漏らしていたが、塾の先生の話などを聞いて観念(?)したようだ。しかし、私はというと、実は少し喜んでいた。私はミッション系の学校が好きなのだ。キリスト教のことなど、よく知りもしないくせに、私自身、中学からミッション系に通ったから。熱心なお寺の檀徒だった両親に育てられながら、なぜミッション系だったのか。それは私の母が私が通ったミッション系の学校を高く評価していたから。思えば小学生時代の私も息子と同じうように仏教の世界が当たり前だったため、ミッション系の学校には行きたくなかった。それを母が、わざわざ私を説得してミッション系の学校に入れたのだ。そして今になって、私はそのことを感謝している。

その後、息子が入学を決めたミッション系の学校の校舎に初めて足を踏み入れたとき、私はなぜか懐かしい気持ちになった。ミッション系の学校の雰囲気というのは、どこも似ているのかも知れない。男子校であるにも関わらず、懐かしい場所に帰ってきたような気がして、そのとき確信した。母がここに導いてくれたのだと。

息子は第一志望の受験日に相当、テンパっていたのだろうが、私はいま彼にこう言っている。

ばあちゃんがお前に鼻血を出させたのかも知れないね。こっちの学校に行きなさいって。

by 鳩胸厚子

唇をかみしめて(痔の痛みにも耐えるのだ)


朝いちで子供の塾弁の材料を買おうと、車で近所のスーパーに向かった。落ち込んだときに、つい聞きたくなるのが吉田拓郎の『唇をかみしめて』。といっても、私の場合は2004年10月30日の『ひとり股旅@広島市民球場』の奥田民生バージョンなのだけど。車の中で、これを思い切り大音量でかけてしまった。広島に通った2年間を思い出しながら。入院した母と、それに伴い老人ホームに入所した父と、それぞれに訪ねて、お金の支払いやらの雑用をしたり、旧友に会ってグチったり・・・。そんなことを、あのクリニックの医師は知りもしないくせに、「カイコ~!?」なんて言いやがって・・・。などと、はしたなく心の中で毒づく私。

~心が寒すぎて 旅にも出れなんだ
あんたは行きんさい 遠くへ行きんさい~

この部分で、なぜか私はいつも目頭が熱くなる。子供の頃、自分の育った町が大好きで、「ずっとここに住んで、ここで大きくなって結婚する!」と言っていた私に、近所のピアノの先生が、「厚子ちゃん、ここからもっと大きな世界に出て行かんとダメよ!」と言っていたことを思い出すのだ。あの頃は、「いや、ずっとここにいる!」と思っていたのに、先生の言葉通り、18歳で町を出てしまった。そして親の介護が必要になって、ようやく町に足繁く帰るようになったのだ。

そんな感傷にしばし浸ってスーパーに着いて、急いで買い物をして、レジの列に並んだら、ふと頭上から流れるBGMに気がついた。さっきの曲が頭の中を渦巻いているわけではない。確かにお店のBGMだ。雑音にかきけされそうになるBGMに耳を澄ませたら、やっぱりそう。吉田拓郎の『唇をかみしめて』が流れている! なんという偶然!

私の経験則によれば、こういう小さな偶然があるのは、いい流れに乗っているとき。
きょうの空と同じく、私の心も晴れてきた。

by 鳩胸厚子

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年相応(NHKニュースに同級生が出てきてビックリ)

今朝のNHKのニュースに同級生が出た。ちょっとした解説コメントがVTRで流れたのだ。

彼と出会ったのは20代後半の留学先。なぜかその年は、彼や私を含め、同い年の日本人が何人もいた。しかし当時の彼は、私たちと同い年には見えなかった。見た目だけでなく、その話し方といい、振る舞いといい、やけに落ち着いて貫禄があり(太っていたわけではない)、百戦錬磨のビジネスマンの風格だった。なんとなくおどおどしたように見える日本人が多い中で、彼はいつも堂々としていた。

そういえば、私の先輩が初めて彼と会った際、てっきり彼の方が年上だと思って、ずっと敬語で喋っていたそうだ。「だって、どこかの議員さんみたいだったんだもん」というコメントに笑ったことがある。

そんな彼の姿を久々にテレビで見たわけだが、今となっては年相応。年齢がルックスに追いついたという感じ。ということは、逆に彼はあのときからあまり老けていないわけだ。

一方、私は20年前の写真をわが子に見せたら、ぎょえ~っと怖がられてしまった。20年前の姿が怖かったのか、20年間の変化があまりにも大きすぎて怖かったのか、不明である。

*これは穴太積みの石垣でござる。
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運命線-手相観さんの思い出

東京にいた頃は、健康診断のように定期的に(といっても2年に1度くらいか?)手相を観てもらっていた。雑誌の編集をしていた友人が、とても評判がいい手相観さんを紹介してくれたからだ。たまに占いの特集も組む雑誌だったので、彼女の情報は信頼できた。

手相観さんはスリムで小柄で、話し方も静かなのに、言葉はかなり前向きで、人生のちょっとした方向転換をしたいときに、うま~く背中を押してもらった。彼女は、「手相は変わっていくものなので、気をつけて見てみて。自分で手相をいい方に変えたいと、意識してみるのもいいわよ」とも言っていた。

手相ではないけれど、その後、指の内側にほくろができた。ちょうど職場で大きな変化が起きそうなときだったので、手相観さんに会いに行き、その大きな変化を受け入れることにした。

最後に会いに行ったのは、東京脱出を決めて、いよいよ東京を離れる直前。迷いも悩みもなかったけれど、最後にもう一度、お会いしたかったのだ。自分の決断についての最終確認の意味もあったのかも知れない。その日の彼女は、ちょっと疲れた感じに見えた。私の手を見るなり、「いいわねぇ、すごくいいわねぇ、いい感じだわ~」と喜んでくださった。「すべて、いい感じに流れてるわね~」と。私の決断も、「いいんじゃない、すごくいいわ~」と大絶賛。最後はドアの外まで出て、元気でがんばって~と見送って下さった。

ちょっと疲れがたまっていた手相観さんに、感謝の気持ちと、少しばかりのパワーをお返しできたのだろうか。彼女のお陰で、私は清々しい気持ちで旅立つことができた。その後、いろいろあって、結局いまはここでこんな生活をしている。

手相はあれ以来、一度も観てもらったことはないのだが、実は最近、気になることがある。左手の運命線が途中で切り替わり、そこから上の部分だけ、やけにくっきりと、とても目立つのだ。本屋で手相の本を立ち読みしたのだが、結婚を機に運命線が切り替わっているのかも!? これから、ちょっと気にして観察してみようと思う。

実を言うと、手相よりも、指が太くなって指輪が入らなくなったことの方が今の私にとっては大問題なのですが。

*故郷の町
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’11年11月11日11時11分11秒

きょうは2011年11月11日。デジタル時計が午前11時11分11秒を示す瞬間をカメラに納めようと思っていたが、用事をしていたら、その時刻を過ぎていた。が~ん!

学校から帰宅した息子から、「きょう11時11分にクラスで記念写真を撮った」と聞き、よ~し、午後11時11分に私も写真を撮るぞ~と再度、挑戦。

時計の前で待ち構えていたのに、フラッシュの関係でシャッターがすぐにおりなかった。写真を見てみたら、11時11分12秒。ああ~・・・が~ん!

ちなみに、きょうは夫と初めて出会った記念日でもありました~!

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ふたたび同窓会

もう参加することはないと思っていた中高の同窓会(@関西支部)。なぜか今年も行くことに・・・。

今年は講演会&同窓会という特別企画のせいで、出席者が例年の倍以上となったが、幹事の学年が人数が少なくてお手伝いが必要だと声がかかったのだ。そこで、同期の友人とふたりでちょっと早めに会場に向かい、受付係りを務めた。

お陰でしばらくお会いしていなかった先輩方のお話を聞き、どなたも、原稿なしですらすらと上手にお話になるな~と改めて感心しきり。

ところで、広島から駆けつけてくださった来賓の先生方のおひとりが、私が大の苦手だった体育の先生だった。当時はまだ若かった先生のことを、生徒たちは影でバカにしたり、からかったりしていたけれど、決して毛嫌いしていたわけではなく、実はみんな結構慕っていたらしい。きょうも同窓生が次々とこの先生の元に挨拶に行き、長い行列ができていた。

中高時代、特に体育が苦手だった私だが、悪いことに整列すると先生のまん前に位置していたせいか、準備体操の際にしょっちゅう見本にされていた。それが毎回、苦痛だった。マット運動のときは、放課後に熱血な指導を受け、ますます体育が嫌いになったほど。それでも担任してもらったときは、グループごとの日記に先生が丁寧にコメントをつけてくれたのを覚えている。

その先生に、いつか機会があったら、「中国の体育大学まで太極拳を習いに行った」ことを知らせて、びっくりさせたいと思っていた。けれど結局、何も言わずに帰って来た。先生の回りにたくさん人がいたので、その中に入ってまで話す気力がなかったのと、先生が私の名札を見て、なんだか私を避けたような気がしたからだ。私の思いすごしかも知れないけれど。

勝手な推測としては、①私のことを思い出せなかった。②私の名札に「旧姓(旧姓)」が書かれていたので、「独身? 離婚?」と声をかけられなかった!?

たぶん②のような気がするなぁ・・・。結婚時に夫婦で私の苗字を名乗ることを選んだだけなのだけど、事情を知らない広島時代の知人には誤解されることもあるのだ。

*大阪・中ノ島に行って来ました!
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広報誌でみつけた思い出

先日の行事の様子が、夫の職場の広報誌(?)に掲載された。よく見ると、写真の中に息子の姿が。それから、その様子をおさめたDVDを、ほかの参加者からいただいた。子供たち用にきちんと編集され、メニューやタイトルまできちんとつけて下さっている! 

これはいい記念になりそうだ。

*8人の中でも、特に気が合っていた息子と通称・ライオンキングくん。
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ジャックはまめ~。

先日、我が家ではルパン3世の替え歌で、「ジュバン、ジュバーン!」と歌っている話をしたが、これについては夫から以前、注意を受けた。「あれは、ルパンルパーンではなく、ルパン・ザ・サードと歌っているのだ」と。

そこから話が広がって、ほかにも私が間違って歌っているCMソングがあると指摘を受けた。時たま鼻歌で「エスエスエスエスエスカップ、エスエスエスエスエスカップ」と歌っているが、あれは「勝ちたいときにはエスカップ、エスエスエスエスエスカップ」だと。それから、「ブルブルブルブルブルベリアイアイブルベリアイ」は普通に「ブルーベリーアイ」と歌えばいいのだと。

ええ~、そんなことないよ~とCM論争になり、最終的にYouTubeで検索してみんなで確認した。確かにエスカップは夫の指摘通り。でもブルーベリーアイは、「ブルブルブルブル」と確かに早口で歌っていた。(でも私のも間違い。)

で、つい懐かしくなって、昔、大好きだった豆スナック菓子「ジャック」のCM映像を探したら、みつかった。このCMシリーズ、私は大好きだったのだが、中でもこの映像の一番最後のバージョンが大好きで、当時の職場で、「ジャックは豆、まめ~! 豆はえんどう豆、まめ~!」と振りをつけて歌っていた。

当時、私は外資系の証券会社に勤務していたのだが、その頃、出張で大阪にしばらく滞在した。大阪証券取引所に上場されている先物の取引をするためで、東京のオフィスと直通回線を結び、必要であればマイクとスピーカーで東京と話ができるようになっていた。大引け後は東京の同僚と楽しく雑談をしていたのだが、ある日、東京の同僚がいきなり、「ジャックは豆」と歌いかけた。すかさず私が、「まめ~~!」と返すと、東京の同僚が焦っている。なんとスピーカーが全開のままで、場が引けてしーんとしていた東京のオフィス中に、私の「まめ~~」の声が響き渡ったらしい。

そんな思い出もあって、今見ても、このCM、笑えるのだ。

God Save the Queen

子供にうるさいと言われながら、きょうもYouTubeでQueenを検索していたら、こんなのをみつけてしまった。
2002年にエリザベス女王戴冠50周年で、クイーンのブライアン・メイがGod Save the Queenをバッキンガム宮殿で演奏した映像だ。すご~い、こんなことやってたのね。

昔、クイーンの人気が出始めた頃、「Queen, England」の宛名のファンレターがバッキンガム宮殿に配達され、後日それがクイーンの元に届けられたという記事を読んだことがある。最初は日本でしか人気がないとか言われていたけど、その後、イギリスでも国民的人気のバンドとなった。フレディの訃報を聞いたときのことは今でも覚えている。当時、イギリス系の会社に勤務していたのだが、ロンドンと電話をしていたイギリス人スタッフが一報を聞き、大声でみんなに知らせたのだ。そのあと、そのイギリス人が立ち上がって、”We Are the Champions”を歌い始めると、ほかのイギリス人もそれに加わった。

それから、これは何年のことだったか・・・。ヨーロッパで皆既日食があったとき、イギリスに留学中だった友人が、ブライアン・メイがBBCで皆既日食の説明をしていたと教えてくれた。クイーンって、本当にイギリスを象徴する存在なのだ。

で、God Save the Queenときたら、やっぱりどうしてもこれを見たくなっちゃうよね~。
当時は若すぎて社会的な意味合いもわかってなかったけど、あのパンクのむちゃくちゃなパワーはなんだかすっごいものに思えたのだ。

イングランドの思い出(2)

私がイギリスに出発する際、父からホストファミリーのお母さんに渡すようにと手紙を託されていた。家に到着してすぐに、その手紙を渡すと、お母さんから「日本語なので、英語に訳してほしい」と頼まれた。「いったい父は何を書いたのだろう?」と読んでみると、「娘がお世話になります。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」といった内容。とりあえずわからない言葉を和英辞典で引いて、そのまま伝えていたら、お母さんが不安そうな顔をして、こう訊いた。「あなたは家で親に迷惑をかけているの?」 私もビックリして、これは本当にそういう意味ではなく、日本では挨拶として、こういう言い方をする習慣があるのだと説明したら、お母さんも安心してくれた。

それから、この家での生活ルールのようなものを説明され、「お風呂は週何日入りたい?」と訊かれたので、「え? 毎日入らないの?」と驚きながらも、イギリスでは何日が妥当なのかわからず、とりあえず「何日でも構いません」と曖昧に答えた。その後、子供たちにこっそり「お風呂は週に何日入るの?」と質問したら「一日」と言うので、ビックリしながらも、それに合わせた。(浴室はバスタブだけで、シャワーがなかったからだろうか。この年は急遽、コートを買い求めるほどの冷夏だったので、週一のお風呂でも結果的に支障はなかった。)

私だけでなく、グループのほかのメンバーも、みんな声高に主張することなく、控えめにイギリスの習慣に黙々と従って、やっぱり日本人だなぁと思わされた。ホストファミリーに言われて洗濯物を出すたびに、「これはまだ汚れてない」とハンカチを突っ返されると嘆いている人もいた。ハンカチは手を拭くものではなく、鼻をかむものだからだ。

私はあまり食べ物の好き嫌いはない。正直、初めてのイギリス滞在で美味しい食事には殆どありつけなかったけど、イギリスのサンドイッチやかりかりのトーストはかなり気に入っていた。ただし、日によっては、トーストの上にベイクドビーンズがたっぷりかかっていて、これが苦手でどうしても完食できなかった。トーストとビーンズが別々のお皿に入っていれば、まだ完食できたかも知れない。せっかくのトーストのカリカリが、ビーンズによってどろどろになり、その触感がたまらなく嫌だったのだ。それからビーンズの匂いも。(チリビーンズは大好きなんだけどね。) 残しては悪いと思い、誰にも見られないように犬に食べさせたこともある。(今思うとひどいことしたかな? 犬は喜んで食べていたけど。さすがイギリスの犬だ。)

日々のちょっとした出来事で、価値観の違いに気づいて驚くことは多々あった。英語の授業で「天皇とはどういう人か?」と質問され、語彙の少ない私は思いつく言葉を使い、「国民がrespectする人である」と答えたら、「respectとは、その人のポジションに拠るものではない」と先生に注意された。確かにそうだけど、今だったら、「日々、日本国民のために祈りを捧げてくださっている天皇陛下を、私は一国民としてrespectしています」と答えるだろうか。

それから、日本人グループでロンドンに行き、パブで昼食を食べたときのこと。お店がとっても忙しそうだったので、カウンター席の私たちが食べ終わったお皿を片付けていたら、ウェイトレスがきっとした顔をして「やめてちょうだい。それは私の仕事なんだから」と言いに来た。私たちの行為は親切ではなく、業務侵害だったのだ。

いろいろあっても、イギリスは私にとっては別世界で(延々と緑が続く田園風景に心癒された!)、居心地がよくて、3週間では満足できず、帰りの飛行機が離陸したときには思わず涙が溢れたほど。感受性豊かな時期だったからこその、感動だったかも知れない。私が両親を説得するために、「いま15歳のこの夏に一ヶ月、英語の生活を体験することは必ず私の人生に大きな影響をもたらす」と言った言葉は、まんざら嘘ではなかったのだ。あ、でも英語は今でもあんまり上手じゃないけどね。

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