73回目の原爆の日、大久野島の毒ガス工場で働いていた母を思う

昭和20年、広島の田舎の女学校の生徒だった母は、学徒動員で大久野島の毒ガス工場で働いていた。広島市に原爆が投下された後は、救援隊として派遣され、焼け野原となった広島市内を歩いて郊外の学校にたどり着き、そこで被曝した人たちの看病を手伝った。といっても当時14歳の母たちがお手伝いできたのは、食事を運んだり、患者さんの身体の傷にわくウジ虫を取り除いたり…といったことだったらしい。グラウンドには遺体の山ができて、それを燃やす臭いがたまらなかったと話してくれたことを覚えているが、あまり事細かに当時のことを聞いたわけではない。折に触れて話してくれたとは思うが、私が30代の頃だったろうか、「全部は話していない。とても話せない」という母の言葉に衝撃を受けた。

原爆と違い、大久野島の毒ガス工場のことは、まだ多くの人には知られていないと思う。毎年、秋に大久野島慰霊祭が行われていて、母が亡くなってからは私に招待状が届くのだが、平日の午前中の式典のため、いまだ出席したことがない。今年こそは…と毎年思いながらも。

けれど、今年は先月の豪雨JR呉線が不通となっており、慰霊祭前の復旧はないらしい。
我が家のお墓は呉線沿いの山の霊園にあるのだが、霊園に被害はなかったものの、山に登る道路がすべて通行不能となっていて、お盆のお参りも無理。

行けないとなると余計に思いが募る。今年は大久野島や山の霊園からの瀬戸内海の景色を思い浮かべ、ここでお盆を過ごそうと思う。

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