国際女性デー(アエロフロートの思い出)

日本では馴染みがないけれど、3月8日国際女性デー。今朝のニュースで、ロシアでは多くの男性がこの日、女性に花を送ると解説していた。そういえば、私がこの日を初めて知ったのもソ連がらみだった。それは、ソ連崩壊直前の80年代終わりにパリに留学していたときのこと。

東京の会社を辞めて正式に留学する前に、準備のためにパリに行った際、私は初めてアエロフロートを利用した。自分で貯めたお金で留学するので、少しでも渡航費を節約するためだ。アエロフロートは北回り(だから早く着く)の中では一番安かったのだ。けれど、実際に乗ってみて驚いた。椅子が壊れていたり、機内食はアルミの食器で見た目も味も昔の給食のようだったり。(アイスクリームだけは、とっても美味しかったけど!)一番びっくりしたのは、モスクワで一度、飛行機を下りて再搭乗したら、自由席になっていたこと!!(要は早い者勝ち!)

パリから東京に帰る便では、いかつい大柄なロシア人男性グループの中にぽつんと座るはめになった。幸い隣の男性は、そのグループの中でも小柄な方だったので、さほど窮屈ではなかったけれど、そこら中の空気がなんだか男臭いし、みんな見た目も怖くて、とんでもない席になってしまったなぁ~と思っていた。ところが隣の男性は、とてもフレンドリーで、片言の英語でいろいろと話しかけてきて、私を女王様のように扱うほど異常に親切だった。実はその一団は、ソビエトのナショナルラグビーチームで、フランスに遠征していたのだという。

当時はゴルバチョフ大統領の時代で、彼は「グラスノスチはいいが、ペレストロイカはダメだ」と言っていた。彼自身はグルジア人で(いまはジョージア人と言うのか?)、ジョージア旧グルジア)とモスクワに家があり、ロシア人は嫌いだと言っていた。そして日本のことをいろいろと聞いてきた。

飛行機がモスクワに近づくと、彼は私にモスクワの家に泊まっていけという(ちなみに彼は既婚者)。「ビザがないから無理」と答えると、「なんとかなる」と言い張っていたが、「とにかく無理」と言うとお別れにキャビアをくれた。飛行機を降りる際に、手荷物としてタバコ(マルボロだったと思う)をたくさん持っていて、「これは空港の職員のため」と言っていたから、それで何か便宜をはかってもらったのだろうか!?(もしかしたら、ビザも本当になんとかなったのかも知れない。)

その後、彼のことは忘れていたが、正式に留学してパリでの生活が落ち着いた頃、東京の元同僚から連絡があった。私宛てにモスクワから電話がかかってきたので、パリの連絡先を知らせたというのだ。電話の主は、あのグルジアのラグビー選手以外に考えられない。連絡先を教えてくれというから当時の名刺を渡したのだが、本当に東京に電話していたとは!!

それから一度、手紙が届いたような気がするが、その後、彼はパリの私に電話をしてきた。しかし片言の英語なので、会話も一苦労。事前の手紙にも書いてあったのだが、彼のおばさんがフランスに渡航できるよう、招待状を書いてほしいと言っているようだった。ソ連の人が海外に行く場合、相手国の受け入れ先からの招待状がないとビザを取得できないらしい。「私が日本にいる時であれば、日本への招待状を書くけれど、私はフランスに来たばかりで、ここでは外国人なので、申し訳ないけれど、あなたのおばさんの保証人にはなれない」と返事をしたのだが、彼にちゃんと伝わったかはわからない。電話をしてくるぐらいだから、けっこう焦っている気配だった。今思えば、崩壊前のソ連を脱出するルートを確保したかったのだろうと思う。彼自身はナショナルチームの選手として海外に出ることは可能だったろうけど、ほかの家族のために。

助けてあげられなくて心苦しかったけれど、私自身もフランスでの生活がおぼつかない状況だった。しかも電話の最中に、突然、オペレーターが出てきて途中で通話が途切れたり、なんだか怖くなったのだ。あとで日本人の友人から、「フランスに来たばかりなのに、モスクワから電話がかかってきたりして、スパイだと思われるよ!?」と怖い冗談を言われたくらいだ。

それからだいぶ時間が過ぎたある朝早く(6時前後だったか)電話が鳴った。「フランステレコムですが、あなた宛にモスクワから電報が届いていますので、とりあえず電文を読み上げます。ただし私はロシア語がわからないので、スペルアウトします」と言われ、びっくり。「いや、私だってロシア語、わからないよ…」と思いながら聞き流し、電話を切った。その2時間後くらいに、実際の電報が届いたが、何が書いてあるのかわからない。差出人はあのグルジア人のラグビー選手だ。

手紙ではなく電報ということは、何か重要なことに違いないと思い、私は近所のロシア語専門書店を訪ねてみた。(そう、パリにはそんなお店があるのだ!)下手なフランス語で、「こんにちは。ロシア語の電報が届いたのですが、ロシア語がわからないので、意味を教えてもらえませんか?」と尋ねると、店主はすぐに電報を見て説明してくれた。「女性の日、おめでとう」と書いてあると。「え、なんじゃ、それ!?」とびっくりする私に、店主は3月8日は女性の日なのだと教えてくれた。

ええ~、なんだか拍子抜け! それを言うためだけに電報を送ってきたとは!!(これでは公安に、何かの暗号と思われるではないか!!)
確かその後、バラ模様のカードも届いたので、もしかしたらカードが3月8日に間に合わないからと、電報を打ってくれたのだろうか!?
結局、彼とは音信不通になってしまったが、1991年末にソ連が崩壊してから、どうなったのだろうと、国際女性デーがくるたびに思い出す。

インフルエンザと四十九日の思い出


↑瀬戸内の倉橋島から届いた牡蠣

この冬はインフルエンザが大流行とのこと。先日、うちの子もインフルエンザになり、学校でも学級閉鎖が相次いだ。

私が最後にインフルエンザになったのは、4年前。しかも、1月と2月と2度もかかったのだ。といっても病院嫌いの私は、2回とも病院に行かなかったので、本当にインフルエンザだったかどうかはわからないが、インフルエンザとしか思えない高熱と身体の痛みだったのだ。(インフルエンザであっても、風邪であっても、おとなしく寝るのが最良の治療だと思っているので、よほど異常がない限り、私は病院には行かない。病院に行く方がしんどいもの。)なんで2回もインフルエンザになったかといえば、それだけ免疫力が落ちていたからだろう。そして、それには理由がある。

1月の初めに父が亡くなっていたのだ。百歳の大往生だったし、その前年の秋頃から「もう長くはないな」と感じていたし、年末に広島まで会いに行ったときも、「これが最後かも知れない」という気もしていたので、父の死に際しても特に悲しいとかショックとかいう気持ちはなかった。むしろ本当の自然死を迎えた姿に感動したし、回りの人たちにも感謝の気持ちでいっぱいだった。とはいえ、葬儀はもちろん、さまざまな手続きや、苦手な親戚との久々の再会など、疲れることもたくさんあったのだ。そして自分では気づいていなかったけど、父がいなくなったことで、ぽっかり心に穴があいたのだと思う。

だから、1月下旬に大学の同級生の結婚パーティに呼ばれたときも、寂しい気持ちを紛らわすかのように出かけて行った。久々の東京で、しかも夜のパーティなんていうのも久々で、お酒も入り、その晩は同級生夫婦の家で朝方近くまで語り明かした。そして翌日はそのまま、昔の職場の同僚と会ってランチをして、午後の遅い時間まで喋り倒して、帰りの新幹線で爆睡して帰宅したら、インフルエンザになったのだ。恐らく、新幹線で口を開けて爆睡している間に(恥ずかしい!)感染したのだろうと思う。久々の夜遊び&お酒が祟ったのか、本当に苦しかった。

そして翌2月下旬の週末、父の四十九日の法要を広島の実家で行うことになった。その前日、夫が仕事から帰宅したら車で広島に向かうことになっていたが、その日の午後から私はだんだんしんどくなり、出発時に体温を計ったら38.6度だった。助手席に座っているのもしんどくて、翌日の法要も大丈夫だろうかと不安だった。しかも、誰も住んでいない実家の仏間やリビングなどを翌日の法要までに掃除するつもりだったのに、こんな体調では明らかに無理。夫は「なんとかなるさ」と言うけれど、私はしんどくて返答もしていられなかった。

ところが、夜中近くに実家に到着すると、家の中がめちゃくちゃきれいだったのだ。床がぴかぴかなのはもちろんだけど、仏間の破れていた障子も張り替えてあるし、窓ガラスもぴかぴかで、しかもレースのカーテンも真っ白。まさに、「なんということでしょう!!」と叫びたい状況。お陰でその日はそのまま寝て、翌日の法要もなんとか倒れずにやり終えた。

翌日確かめたところ、実家の事務所を借りてくださっている会社の社長さんが、四十九日の法要の前にお掃除してくださっていたと判明。年末に帰ったときにも、実家の玄関廻りがぴかぴかになっていて驚いたことがあるのだが、掃除が苦手な私には信じられないほどのお掃除ぶりに尊敬&感動&感激の嵐だった。

翌日、社長さんにお礼を言うと、奥様が「うちの主人は掃除が趣味なんですよ。家でも私が帰宅すると窓ガラスがぴかぴかになってたり。だから気にしないで下さいね」と言ってくださった。なんというご夫婦だろう。

これもある意味、引き寄せだろうか。掃除を引き寄せるって、なかなかないと思うけど。
ちなみについ先日、この社長さんから大量の牡蠣が送られたきた。毎年、音戸ちりめん倉橋島お宝トマトも送ってくださる、ありがたい方なのだ。感謝感謝。

そうそう、今年も半月ほど前、インフルエンザ大流行の最中に日帰りで東京に行って来たのだが、体力も回復したのか、今回はインフルエンザにもならず元気そのもの。新幹線の中で行きも帰りも女3人で喋り続けていたのが良かったのかも。

リュクサンブール公園追記ー私の妄想

リュクサンブール公園で「走るダニエル・デイ=ルイス」に遭遇したとき、私と一緒にいたのはフランス企業に入社したばかりの若いイギリス人だった。といっても彼は東欧系移民2世で、出身国の言葉も堪能だったようだ。オックスフォード大学出身の長身のエリートで、アルマーニのスーツはこういう人が着てこそ、映えるのだなぁと感心したものだ。でも中味は新卒ほやほやで、まだまだ若いなぁ青いなぁと、すでに20代後半だった私は微笑ましく思っていた。職場のイギリス人チームのほかのメンバーからは「若いくせに生意気だ」と嫌われていたけど、「移民」目線のある彼は、ほかのイギリス人にはないシンパシーを東洋人である私に示してくれていたので、私はけっこう仲良くしていたのだ。親しくなって、いろいろ話をしてみると、理系のインテリのくせに実は予知夢など、けっこうスピリチュアルな体験をいくつもしていたのでビックリ。人って、わからないものだ。

オックスフォードでは、彼が在籍していたカレッジに秋篠宮様が留学されたので、当時はカレッジのパーティなどでご一緒したらしい。「Prince Ayaはとてもいい人だったよ」と話していた。同じくオックスフォード在学中に、MI6にスカウトされたこともあると話していた。東欧の言語ができるエリートだから、目をつけられたのだろう。

そんな彼とは、日本に帰国直後は連絡をとっていたのだが、いつのまにか互いに音信不通になった。彼に限らず、留学時代の多くの知り合いとはしばらくの間、疎遠になっていたのだが、SNSが普及するようになって昔の知り合いとネット上で再会することが多くなった。フランス企業のイギリス人チームのメンバーとも、滅多に連絡を取り合うわけではないが、お互いにどこにいて、何をしているかくらいはわかっているので、何かあれば連絡はとれる状態だ。ところが、この東欧系の彼だけは、ネットで検索しても、一切みつからない。どのSNSでも、みつからない。東欧系の珍しい名前なので、本名を名乗っていればすぐにみつかりそうなのだが、みつからない。

もしかして、名前を変えたのだろうか!? でも、両親の母国を誇りに思っていた彼が、わざわざ本名を変えるだろうか!? もし変えるとすれば、素性を隠して別人にならなくてはいけない、なんらかの任務を負っているのだろうか!? たとえば、MI6の諜報員として…!? 
と、私の妄想は広がるのでした。

でも本当に、どこに消えたんだろう・・・!?

*スパイといえば、ケンブリッジ・ファイヴガイ・バージェスをモデルにした『アナザー・カントリー』を思い出すけど、AXNミステリーで見た『ケンブリッジ・スパイ』も面白かった! マギー・スミスの息子、トビー・スティーブンスキム・フィルビー役だ!

リュクサンブール公園にダニエル・デイ=ルイス

あのあとイポリット・ジラルドについて調べていたら、広島を拠点に活動している諏訪敦彦氏と『ユキとニナ』(2009年)という作品を共同監督していた。イッポ広島と繋がっていたなんて…。

で、昨日の続き。話は学生時代に遡る。英米のバンドの来日公演を見たい一心で広島から東京の大学に進学した私は、洋楽好きの広島時代の同級生と一緒によくコンサートを観に行った。そのうち同じく洋楽好きの彼女の友人とも知り合い、音楽の趣味が似ていたので、何度かコンサートに一緒に行った。私も彼女も、Depeche Modeが大好きだったのだ。

その後、私がパリ行きを準備していた頃、彼女もヨーロッパを一ヶ月ほど旅行する予定と聞いて、「パリで会えたらいいね」なんて話していた。それからしばらくして、ようやくパリに落ち着いた私は広島時代の同級生に新たな連絡先を知らせたが、Depeche Mode好きの友人はすでに旅立っていて、私の連絡先を渡せなかったと返信があり、パリでの再会は夢と消えた。

と思っていたのだが、ある日、日本人の友人とリュクサンブール公園を散歩していたら、後ろから「厚子ちゃん?」と声をかけられ、振り向いたらDepeche Mode好きの友人が立っていたのだ! 結局、うちに泊まってもらい、何日か楽しく過ごし、友情を深めることになった。

その後、私は留学先のカリキュラムの一環で、インターンシップとしてフランス企業にしばらく勤務した。フランス語が不自由なせいもあって、イギリス人チームの中で働いていたのだが、ある日、その同僚のひとりとリュクサンブール公園を散歩していたら、目の前を長髪のダニエル・デイ=ルイスが走って行った。それも猛スピードで。わりと寒い時期だったように記憶しているが、確かランニングシャツだったと思う。(一瞬のことで、自信はないけど。)

ダニエル・デイ=ルイス!?」と思わず声を出したら、私の性格をわかった上でか、「落ち着いて。彼に声をかけないように」と同僚は私を制した。実際にはあっという間に走り抜けていったので、声をかける間もなかったのだけど、しばらくすると再び猛スピードでダニエル・デイ=ルイスが現れ、長い髪をなびかせて走り去った。「なんなんだ、これは!?」と思いながら、散歩の間、何度も走るダニエル・デイ=ルイスを見た。当時はイザベル・アジャーニと付き合っていると聞いていたから、パリにいるのは不思議じゃないけど、なぜあんなに髪を伸ばし、しかも猛スピードで走り続けていたのか、不思議だった。

帰国後、ダニエル・デイ=ルイス主演の新作映画を観に行って、その謎は解けた。新作のタイトルは、『ラスト・オブ・モヒカン』。この中で長髪のダニエル・デイ=ルイスが猛スピードで走っていたのだ!! リュクサンブール公園でもモヒカン族になりきって(!?)走っていたとは!!! 噂通りの徹底した役作りに取り組んでいたんだなぁ。

*ちなみに日本では今年5月公開予定の『ファントム・スレッド』で、ダニエル・デイ=ルイスは俳優を引退するそうです。

ビアトリクス・ポターの引き寄せ

去年の秋から機会あるごとに集まる(私を入れて)3人グループがありまして、その都度、「これからどんな仕事をしていきたいか」、「どんな風に生きていきたいか」、「何を引き寄せたいか」等々、お喋りしています。それも単なる井戸端会議ではなく、楽しくも真剣なお喋りで、いつもあっという間に時間が過ぎてしまいます。毎回、刺激的&クリエイティブなアイデアをたくさん持ち帰るのですが、実行力のない私は、いまだいろいろと企画を温めている段階です。

3人の中でも一番、行動力のある友人は、昨年、ピーター・ラビット関連のイベント企画を実現しました。私も参加したおかげで、ピーター・ラビットの作者、ビアトリクス・ポターの人生について、初めて知ることとなりました。19世紀のイギリスの裕福な家庭に生まれながら、自らの興味の赴くままにキノコの観察・研究や、絵本制作に取り組んだビアトリクス・ポターは、その時代としては革新的な自立した職業婦人(絵本作家)として活躍し、また湖水地方の農場経営をしながら環境保全に尽力し、その広大な土地は遺言によりナショナルトラストに寄贈され、そのお陰で湖水地方は今も美しい自然溢れる観光地となっているのです。彼女の人生の物語も、ドラマチックで学ぶところが多く、これもまさに友人のおかげと感謝しました。

実は友人からこの企画の話を聞いて、古い友人からピーター・ラビットピルケースをもらったことを思い出していました。中高時代、親しくしていて、大学でも仲良くしていたのに途中で絶交されて音信不通になり、7年後にパリで偶然再会したという友人です。(詳しくは過去の日記を参照→2011年2月19日2006年3月9日
再会の後、東京で時々会うようになり、よく海外に行っていた彼女から、イギリス土産としてもらったのがピーター・ラビットピルケースでした。彼女は持病のせいで、一生、薬が手放せないと言っていたので、ピルケースは必需品だったのかも知れませんが、当時の私は病気知らずで、そもそもこんな「ピルケース」なるものがあること自体、知りませんでした。しかもピーター・ラビットが好きだったわけでもないし、どうしてこんな(高級そうな)ものを…と不思議に思っていました。そして、ピルケースを使うことのない私は、そのままそのお土産をどこかにしまいこんで、結局、それがどこにいったのかわからないままになっていたのです。

そうしたら、なんと! 昨年の大晦日に大掃除をしていたら、このピルケースが出てきたのです! これもある種の引き寄せでしょうか!?
しかも、私がもらっていたのは「あひるのジマイマ」のピルケースでした。実は、これをプレゼントしてくれた友人とは、お互い、何度も引っ越したり、あちこち移動していたせいで、その後、また音信不通になり、いまどこでどうしているのかまったくわかりません。

それにしても、彼女はどうしてこれを私にくれたのでしょう? 彼女はビアトリクス・ポターのファンだったのか? もしかしたら、自分とお揃いのピルケースをくれたのか? さて今度は、ピルケースの友人を引き寄せなければなりません。

私の東京脱出の理由(阪神淡路大震災の日に)

阪神淡路大震災があった1995年1月17日からきょうで23年である。

あんなに憧れて東京に出た私が、東京脱出を決意したのはその前年の1994年だった。本当は自分自身の問題だったのかも知れないが、当時の東京に閉塞感を感じて、とにかく東京、いや日本を出なければと思っていた。バブル崩壊後の世の中に、なんともいえない厭世観というか、ネガティブな空気が満ちている気がして、どうせなら優雅に楽しく下り坂を転がっていかねば…と思い、そのお手本として一足先に下り坂のヨーロッパを見てきたいなぁと考えていたところ、ひょんなことで中国に行くことになった。本当のところ、私はただあの当時の東京、日本を出たかっただけで、行き先はどこでもよかったのかも知れない。とにかく、あの空気に耐えられなかったのだ。

春に中国に行こうと準備していた矢先に、阪神淡路大震災が起こり、私の東京脱出の決意はますます揺るぎないものとなった。幸いなことに私は震度4以上の地震を経験したことはないのだが、それでもひとりで暮らす東京のマンションの部屋で夜中に震度4の揺れを感じたときは恐怖だった。丸の内や大手町のオフィス街で働いていた頃はさほど気にならなかったのだが、その後、渋谷に通勤するようになってから、渋谷駅前の大きな歩道橋を渡るたび、「いま大地震がきたらどうなるんだろう」と漠然とした不安を抱くようになった。トラックが通過するだけで歩道橋が揺れるので、これで地震がきたら…と思うと、自然と小走りになった。そう思いながら地下鉄に乗ると、またも不安になる。真っ暗なトンネルの中にいるこの瞬間に、地震がきたらどうなるんだろうと。

ひとり暮らしであったことが、一番の不安の原因だったと思う。何かあっても、家族がいれば探しに来てくれるだろうが、ひとり暮らしではどうにもならない。だから「万一のとき、こんなところで死ぬわけにはいかない! 早くここを出なくては!」と思ったのだが、そんなとき地下鉄サリン事件が起こり、私は決意を固くした。

その後、日本に帰国して、京都に暮らすことになったときも、郊外の山に囲まれた物件を借りた。裏に小川と畑があったので、たとえ地震がきても、なんとかなりそう…と思えたのだ。その後、山奥の過疎地で茅葺屋根の古い家(平屋)に暮らし、いまは湖のそばに住んでいる。いつどこで何があるかはわからないけれど、少なくとも東京にいた頃と違い、自然の景観に恵まれた場所で、家族と共に心穏やかに暮らしていることは確かだ。

クリスマスタブロー(というかBCR)の思い出

子供が通うミッション系の学校では、毎年、クリスマスタブローが行われる。とても大がかりな行事で、キリスト教の信者でない私も神聖な空気と、真摯な生徒たちの姿と、すばらしい音楽に毎年、感動してしまう。私の母校もミッション系で、毎年、クリスマスタブローがあったのだが、これほど大規模でもなかったし、私自身、積極的に参加したことがなかったので、ぼんやりとしか覚えていない。いや、それどころかクリスマスタブローというと、悲しい思い出が蘇るのだ。

中学2年の頃、スコットランド出身のBCRベイシティローラーズ)というバンドに夢中になった私は、同じくBCRファンの同級生と仲良くなった。その年の12月、彼らが初来日することになり、私たちは大阪公演のチケットをなんとか手に入れた。公演日は2学期の終業式で、しかもそのあとにクリスマスタブローがある。夕方までに大阪に行くためには、終業式のあとすぐに出発するしかない。そこで私たちは、それぞれに理由をつけて早退するつもりだったのだが、あまりにはしゃぎすぎていたのだろうか。その計画がどこからか先生に漏れて、コンサート行きを阻止されてしまったのだ。

そのときのショックと言ったら…。まさに「クリスマスタブロー、うらめしや~」である。入手したチケットは無駄になったけど、私はそのまま自分のBCRアルバムに記念として貼り付けた。結局、BCRは次の来日公演で見ることができたし、私はあの日、早退しなかったお陰で、中高6年間の皆勤賞をもらったので、めでたしめでたしなのだが、一緒にコンサートに行く予定だった友人とは、その後、高校の途中からBCR熱が冷めるのにあわせて疎遠となった。そして社会人になってからの同窓会で、彼女の訃報を聞いた。確か3人のお子さんを残しての、突然の事故死。

彼女が好きだったレスリーには、日本人の奥様がいて、今年もそして来年も来日公演があるらしいのだが、私にはいまBCRについて語り合える人がいないと思うと寂しい限りだ。

ステーキハウスで上沼恵美子

さらにバブル期の思い出をもうひとつ。

当時、東京の外資系企業もバブルに浮かれていたけれど、本国から来ている外国人スタッフに比べたら、私たち日本人スタッフは地味なものだった。といっても、たまに女子グループでお昼休みにタクシーでイタリアンを食べに行ったり、今思うとバブルだなぁと思うことをしていた。日本人上司も高級外車を乗り回していたり、外国人上司たちは金曜のお昼になると、アメリカンクラブ(*会員制の社交クラブ!)にランチに出かけて、午後の遅い時刻に赤ら顔で帰ってくる…なんてことも。会社の年末のパーティは東京湾クルーズで、イブニングドレスで現れた女子もいてビックリ。

私自身はある目的のためにそれまで貯めたお金をほぼ使ってしまったので、かなり地味な生活をしていたと思うが、さすがに新入社員の頃に比べると余裕はあった。それでも、普通に電車で通勤して、高級レストランに行くことも滅多になかった(誰かに誘われない限り)。

なぜか学生時代からの友人は、マスコミ関係、特に出版社に就職した人がたくさんいて、彼女たちに会うと、いつも華やかな空気を感じた。もともと華やかな人たちがマスコミの世界に入るのかも知れないけれど、当時は今と違って(失礼!)本当に華やかだった。お給料の額は知らないけれど、とにかく「経費は使い放題」という感じだった。(実際、どうだったかわからないけれど、少なくとも傍から見ていて。)だから、近所に住んでいた編集者の友達と出かけると、いつも帰りは一緒にタクシーに乗せてもらえた!

そんな編集者の友達にステーキハウスに連れて行ってもらったことがある。おしゃれなホテルのお店でもなく、高級感漂うレストランでもなく、老舗の小さな、地味だけど本当の意味で高級なお店だったのだと思う。なにせ友達は有名作家さん方の接待のために、このようなお店に出入りしていたのだから。

出かけたのは、土曜日の遅めのランチタイム。カウンターだけの小さなお店で、目の前の鉄板でシェフが黙々とステーキを焼いてくれる。こんなお店、私は初めってだったし、どういう理由だったのか、その日は友人とその先輩編集者の方と3人だったので、いつもより緊張していた。一応、私は接待されている方なのに、こちらも接待しなきゃ…となぜか一生懸命、お喋りを始め、いつのまにか、家を出る前に見たばかりのNHKバラティ生活笑百科』での上沼恵美子のトークを再現していたのだ。残念ながら上沼恵美子氏は2013年に番組を降板してしまったが、それまでは毎週、「実家が大阪城」だとか、「フランス生まれ」だとか、荒唐無稽の大ホラ話で視聴者を楽しませてくれていたのだ。その日のネタも、もう覚えていないけど、かなりの爆笑ものだったはずだ。ネタ自体は作家さんが書いているのだが、上沼恵美子が喋るから、あれほど面白いのであって、私では100%再現はできないのだが、それでも友人たちは楽しんでくれた。

さて、トークが終わった頃に出て来たステーキは絶品だった。「生まれて初めて、こんなに美味しいお肉を食べた~」と感激して食べ終えた! すると、ずっと無口だったシェフが最後に、「お客さん、絶対テレビに出た方がいいよ」と私に言うのだ。「え!?」と呆気にとられていると、「さっきの話、ものすごく面白かった!」とおっしゃるので、「いえいえ、だから、さっきの話は本当にテレビでやってた話なんです。それを真似して喋っただけなんです!」と説明したのだが、「いや、それでも出た方がいいよ!」と。

トークの神様、上沼恵美子氏の真似をした私としては、恐れ多くて、そそくさと退散したのを覚えている。そのせいか、いまだにあのお店がどこにあったか、思い出せない。ほんとに美味しかったんだけどなぁ。

「ブルジン」ってなに?(「ブルゾンちえみ」ではない!)

昨日の続きで、東京でバリバリ働いていた20代の頃の話をもうひとつ。

当時、私は英国系企業の東京支社に勤務していて、社内にはイギリス人が何人もいた。その中に、ハゲ・チビ・デブの3拍子が揃った愛らしいスコットランド人のおじさまがいて、社内で人気だった。スコットランド好きの私も、もちろん彼のものすご~いスコットランド訛りを聞くのが楽しみだった。他のイギリス人は、たいていエリート面して、ツンとしたタイプが多いのに、彼はとっても気さくな田舎のおじさんそのもので、相手が部長だろうが平社員だろうが清掃員だろうが、みんなに同じように「おはよう!元気?」と声をかけていた。しかも、ほかのイギリス人よりも早く出社してきて、社内を隈なく見て回る、気配りの人であった。彼はいわゆるエリートではなく(エリートなら、あれほど強い訛りはないだろう)、叩き上げでここまで出世した人だと聞いて納得。この会社に入って以降、旧大英帝国の植民地を転々としてきたらしい。しかし、海外生活がこうも長くても、きついスコットランド訛りはそのままというのは、彼にとってスコットランド訛りは、「訛り」ではなく「誇り」だったのだろう。

彼の訛りはほんとにすごくて、普段はイギリス人上司と問題なく会話している同僚たちが、戸惑うこともしばしば。たとえば、「purpose」が「パルポス」としか聞こえない。一度、会社のパーティにキルト姿で登場した際に、「どういう時にキルトを着るのですか?」と訊かれ、いくつか祝日や記念日を挙げてくれたのだが、最後に「ロベルト・ブルンズの誕生日」と言った際には、吹き出しそうになった。カタカナではイントネーションが表わせないのが残念だが、彼が言っていたのは、スコットランドの国民的詩人、「ロバート・バーンズ」。

そしてある時、会社主催の打ち上げパーティが開催されることになった。女の子大好きのそのおじさまは、当日の昼間、私たちのところにやってきて、「ハウ・メニ・ゲロズ・アー・カミン?」と訊いた。つまり、「How many girls are coming?」 思わず、「ワシらはゲロか!?」と突っ込みたくなった。で、その夜のパーティで、私はおじさまと同じテーブルだったのだが、別のテーブルでは普段は上品で神経質な若いイギリス人が、お酒のせいで顔を紅潮させて、ウェイトレスの女の子に絡んでいた。彼が何か変なことを言ったらしく、回りの人たちがたしなめていたので、私の隣にいた同僚が、「なんて言ったんでしょうね?」と訊くと、スコットランド人のおじさまが「彼女にブルジンかどうか訊いたんだよ」と答えた。同僚が「え?」と聞き返すと、おじさまは「ブルジンかどうか」と繰り返した。それでも同僚がぽか~んとしていると、おじさまが「彼はブルジンも知らないのか。なんと純粋な青年だ!」と笑ったので、同僚は私に真顔で尋ねた。

鳩胸さん、ブルジンってなに?

「だから~、バージンかどうかって訊いたんですよ!」と、私まで赤面するはめに。それくらいすごいスコットランド訛り、懐かしく思い出す。ちなみに、このあと、おじさまは帝国ホテルのレインボーラウンジ(今もあるのかな?)に連れて行ってくれたり、実はロバート・バーンズと同じくフリーメイソンだったり、ただの田舎のおじさんではなかったのだ。真冬の六本木も、全然寒くないと言って、コートなしのスーツ姿で闊歩していたし。

まさに80年代バブリーな私の「ブルゾンちえみ時代」の思い出だ。

ブログ移転の理由

家族で山奥の過疎地に暮らしていた13年前に、このブログ『鳩胸厚子の日記』を始めました。
そもそものきっかけは、当時、夫にデジカメをプレゼントされて、嬉しくて、毎日のように回りの景色を撮っていたので、それを遠くの街々に暮らす友人たちに見せたいという思いから。いきなり田舎に引っ越した私たちが、どんな場所でどんな生活をしているか、知ってほしいという気持ちでしたが、そもそも日記なんていつも三日坊主だった私が、「ブログならもっと長く続けられるか!?」というチャレンジ精神もありました。毎日、文章を書くという訓練を自分に課すという意味もありました。

結果は、自分でも驚くほど長く『鳩胸厚子の日記』は続きました。その間に両親ともに他界し、我が家は二度も引越し、保育園に通っていた子供は高校生となりました。近年はしばらく日記をさぼっていたのですが、今、昔の日記を読み返してみると、自分にとっては貴重な記録となっていることに気づきました。(特に両親の遠距離介護から看取りまでの頃!)しかし、それが無料ブログに書き溜めてあることに一抹の不安を抱き、夫のアドバイスを参考に、自分のページを作って、そちらに移転することにしました。(かなり夫に助けてもらってます!)

誰のためでもない、自分のために書いてきたものなので、他人様に読んでもらいたいというものではないのですが、それでも一応、「他人に読まれても恥ずかしくないものを書く」ことをモットーとしてきたので、過去の日記もまとめてここに置くことにしました。私がパソコンに強くないため、いまだに試行錯誤の繰り返し。しかも寄る年波のせいで、今までにない眼精疲労。作業もなかなか進みません。それでも、今はまた時間ができたので、『鳩胸厚子の日記』を本格的に再始動するつもりです。

最後に、前にも書いたことがあるけど、『鳩胸厚子』というのは私が高校生の頃にできたペンネーム。私の体型を表わした名前です。あれからすでに40年!? でも、中高時代って、いろんな意味で自分の人生の原点って気がします。わが子が今、まさにそんな時期なので、私は羨望の気持ちを抱きつつ、(生)温かく見守っているきょうこの頃。これから、このページがどんどん進化していくよう、頑張ります!

by 鳩胸厚子

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