無意識の引き寄せーモリッシー(ザ・スミス)の場合

大好きなデペッシュモードクイーンの記事にいくつかコメントをもらったことがきっかけで、しばらく忘れていたUKロック熱が近年、私の中で蘇っている。といっても最近の音楽シーンについてはまったく知らないので、あくまでも昔、好きだったバンドを今さらながらに思い出している状態。

その中で、どうしても避けて通れないのが、ザ・スミスだ。まだ大学生だった80年代に、LPレコードで聴いたのが最初だったが、そのまま東京で就職してからは、本当に没頭して聴き続けた。就職して親に頼らず自活を始めたものの、初任給では食費も切り詰めるぎりぎりの生活。仕事が終わると、狭いワンルームマンションの部屋で、毎日のようにスミスのアルバムを聴いて、モリッシーの歌詞の世界に浸り、深く深く共感していたのだ。

その後、生活に少しずつ余裕ができて、いつか留学するという夢のためにお金も貯めた。そして実際に2年ほどパリに留学して帰国した私が東京で再就職した頃、ザ・スミスが解散してソロになっていたモリッシーが初来日を果たしたのだ。昔、モリッシーは飛行機嫌いだから来日しないだろうと聞いていたので、「こんな極東の国まで来てくれるなんて!」と感激して、武道館公演のチケットを1枚買い求めた。その頃、私の周りにはスミスモリッシーの話ができる人もいなかったので、ひとりで行くしかなかったのだ。

そして、武道館公演を楽しみに待ちわびていたある日の夕方、私は昔の同僚と久しぶりに会うことになっていた。待ち合わせ場所は、六本木Waveという大型レコード店。普段は待ち合わせに遅れることのない元同僚が、その日はなぜか時間になっても現れず、私は入口の前でひとりぼ~っと待っていた。すると、まるで私に会いに来たかのように、入口のガラス扉を開けて私の目の前にモリッシーが現れたのだ。「あ、モリッシー!!!」と頭の中でつぶやきながら、「まさか!? ほんと!?」と信じられない気持ちに。思わず、そばにいたボディガードらしき外国人のおじさんに、「モリッシーですか?」と話しかけたら、「自分で訊いてみれば?」と言われ、勇気を出して訊いてみた。

モリッシーですか?」
「そうだよ」
「あ、あの、サインもらっていいですか?」
「いいよ」

私は急いで、バッグからきれいな便箋とボールペンを出した。
モリッシーがサインをしている間、「武道館のコンサート、見に行きます」と言うと、「楽しんでもらえたらいいけど」と優しい答え。それまで雑誌の記事などから、勝手に「モリッシーは、気難しいから、話しかけちゃいけない人」というイメージを自分の中で作り上げていたのだが、ごく自然に、普通に感じのよい人だった。

モリッシーにサインをもらって、入口に戻った頃、元同僚が「遅れてごめんね」とやって来た。「構わないよ。それよりも、それよりも…モリッシーが、、、モリッシーが、、、」と興奮して言葉にならない状態の私を見て、元同僚は冷静に言った。「モリッシーが誰なのか知らないけれど、厚子ちゃんがこんな状態になっているということは、ものすごい人なのね。」そして、私がモリッシーにサインをもらったことを話すと、「厚子ちゃん、せっかくだから写真も撮った方がいいよ」と言って、近くのお店で『写ルンです』を買って来た。そう、スマホもない当時、急に写真を撮るなら『写ルンです』だったのだ。

サインをもらった上に写真までお願いするなんて、モリッシーに嫌がられないかしらと心配する私をよそに、彼女は「厚子ちゃん、早く!」とモリッシーに近づいた。不思議だったのは、有名なレコード店だというのに、その日はお客もほとんどおらず、店員さんもモリッシーに気づいていなかったこと。私が再び、モリッシーに写真を撮っていいかと尋ねると、彼は嫌がることなく、でもシャイな感じで、私と一緒に写真に写ってくれた。もちろん、元同僚がシャッターを押してくれたのだ。

その様子を見て、ようやく店員さんがモリッシーに気づいたようで、そのあと、モリッシーはまたサインをすることになったのではないかと思う。私はといえば、すっかり満足して、元同僚と一緒に夕飯に出かけた。本当に好きな人には、会えるものなのだなぁと思いながら。

モリッシーとの遭遇」――私にとっては大歓喜、大興奮の出来事だったが、その時の私の周りには、この喜びを共有してくれる人がいなかった。私にとってはあまりにも嬉しい出来事だったので、翌日、職場の仲良しの同僚に話してみたが、いまひとつこの出来事のすごさを理解できないようだった。実はこの時、私が勤務していたのはイギリス系の会社で、私のチーム内に2名のイギリス人がいたのだが、日本人スタッフはともかく、外国人スタッフとはまだそれほど打ち解けていなかった。仕事以外の話をすることは、めったになかったからだ。

だがこの日の私は、上司であるエリートのイギリス人ではない方のイギリス人に思わず話しかけていた。「昨日、モリッシーに会ったの」と。すると彼は、「モリッシーに!?」と大きな声でものすごいリアクションを返してきた。「嘘だろ!?」と言わんばかりに。「モリッシーに会ったのか?」と聞き返す彼に、私は前日もらったサインを見せた。すると彼はすごいなぁという顔で、本当に感心してくれたのだ。そこから彼と音楽の話が始まり、それ以降、彼と、私を含めた日本人スタッフの会話も増えて、チームの雰囲気もなごやかになったように思う。まだCDやカセットの時代だったので、彼が「ニューオーダーの新作、聞いた? まだなら録音してあげるよ」とテープを持ってきてくれたこともあった。
その後、同じ年の11月24日にクイーンフレディが亡くなるのだが、ロンドンからその第一報が入ったとき、隣のチームのイギリス人がフロア中に響き渡る大きな声で、そのニュースを伝え、『伝説のチャンピオン』を歌いだしたことを今でもはっきり覚えている。

それからしばらくして、私はある音楽雑誌の編集長と会う機会があった。モリッシーの来日時、唯一、その雑誌だけがインタビューできる予定だったのに、モリッシーの体調不良でドタキャンとなり、その編集長はずっと会いたかったモリッシーに会えなかったそうだ。「私、偶然、モリッシーに会って、サインもらって記念写真も撮りました」と思わず言ってしまった私。けれど、これ以降、このモリッシー話を自慢できる人が周りにいない状態が相変わらず続いている。去年、ザ・スミス以前のモリッシーの物語を映画化した『イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語』が公開された時も、ひとりで観に行ったくらいだし。

そういえば、80年代に、シェフィールド出身のABCというバンドのマーティン・フライから手紙の返事をもらったことがあった。最近読んだ本、見た映画やバンドなどのリストがあって、感想などが書いてあったのだが、当時はまだ知らなかったザ・スミスの名前があったことに、だいぶあとになって気づいたことがある。

ああ、久しぶりにカラオケに行って、ザ・スミスを歌いたい気分だ。


*モリッシーがライヴでポケットに入れていたのは、グラジオラスだったけど…

息子の引き寄せ力(会いたい人には会える!)

息子は6年間お世話になった学校を巣立ったあとも、何かあれば学校に足を運んでいる。学校で同級生と待ち合わせたり、たまたま出会った先生と2時間もお喋りしたり。そんなに学校が好きなんかい!と、思わず羨ましくなるほど。

つい先日、私があるホテルのパーティに出席したら、偶然にも向いの宴会場で息子の学校の先生方のパーティが開かれていた。夫にお迎えを頼んだ際にそのことを話したら、夫と一緒に息子もお迎えに現れ、うまい具合にロビーで先生に遭遇し、宴会場に入れてもらっていた。担任を始め、いろいろな先生と雑談してきたらしい。(よく聞いたら、その前日も学校に行ったけど、担任の先生には会えなかったのだとか。)

それからちょうど一週間後、息子はまたも学校の行事に出向き、友達と一緒に後片付けまで手伝って、やっと帰ろうとしていたら、またも担任の先生と出会い、友達と一緒に夕飯をおごってもらって帰ってきた。男同士の絆が深まってる感じで、羨ましい。

最近では、小学校時代の同級生との再会も相次いでいる。息子は山奥の過疎地の小学校から、新興住宅地の大規模小学校に転校し、その後、中学受験をしたのち、またも市内の近隣地区に引っ越したため、いまの家の近所には友達がいない状態だ。小学校時代の仲良しとは、たまに連絡をとりあっていたが、彼らも東京だの大阪だので新生活を始めた。その中で、ひとりだけ近況がわからない友達がいて、共通の友達(複数)に訊いても、わからないまま。一応、家の場所もわかっているけど、いきなり訪ねる理由もなく、そのうちどこかで会えるかな~と思っていたら、数日前に会えたそうだ。電車に乗ったら、そこに彼がいたのだと!

しかし電車がけっこう混んでいたので、一駅過ぎた際にちゃんと顔を確かめて、そこでようやく話ができたそうだ。息子は連絡先を交換しようと思ったものの、カバンの中の携帯をすぐに取り出せず、とりあえず番号を口頭で伝え、「覚えてたら電話して」と言って、その次の駅で降りたらしい。私だったら一度で覚えるのは無理だと思うが、その夜、ちゃんと息子の携帯は鳴り、ふたりは久々にゆっくりと話せたようだ。

「会いたい人には会える!」ということを、改めて息子に教えられた。


*夏休みの思い出*

家族を現場に導いた呉署の晋川尚人さん

尚人さんたちが行方不明になった7月6日尚人さんの親御さんのお友達Iさんは、広島から矢野に帰る際、JR呉線が止まっていたので、バスに乗ったものの、自宅近くは通行できない状態になっていたため、その手前の地区に暮らす妹さん宅に泊めてもらったそうです。実は、その妹さん宅のお隣さんのお友達が尚人さんたちの避難誘導で助かった方たちだったので、尚人さんたちが行方不明になった場所を教えてくださったのだと。

現場は車で行ける状況ではなく、ご家族はお友達Iさんの妹さんのお宅に車を停めて、そこから1時間歩いて捜索に行かれたそうです。連日の捜索活動、酷暑の中でどんなに過酷だったことでしょうか。それでも、尚人さんがきっとこの近くにいると思うと、辛いというよりも、居ても立ってもいられないような気持ちだったでしょうか。考えるだけで、胸が締めつけられます。

それにしても、こうやって偶然にも、最後まで尚人さんと一緒にいた方々とすぐに出会えたのは、尚人さんの叫びが伝わったからでしょう。尚人さんがご家族を現場に引き寄せたとしか思えず、またも感動…。

広島県警・呉署の晋川尚人さん、昨日がお通夜で、きょうが葬儀だったと聞きました。辛すぎるけれど、りっぱな人生を生き切った尚人さん、心からご冥福をお祈りいたします。

*2018年7月13日の記事「呉署の晋川尚人さん(西日本豪雨で行方不明)

*2018年7月15日の記事「西日本豪雨で行方不明の晋川尚人さん(続報)

*2018年7月16日の記事「〔西日本豪雨〕呉署の晋川尚人さんに関する報道について

*2018年7月18日の記事「お帰りなさい。(晋川尚人さんへ)

*2018年7月22日の記事「晋川尚人さんのご両親の言葉

*2019年7月5日の記事「西日本豪雨で殉職された呉署の晋川尚人さんのお母様より

『おっさんずラブ』ってほんとに人気なのね

私の尊敬する友人がいる。芸術に造詣が深い人なのだが、幅広い教養があり、驚くべきは「なんだそれ?」というくだらない知識も豊富なのだ。漫画も詳しいようだけど、「いったいどこにそんな時間があるのだ?」と思うほど、数々の海外ドラマも見ている。海外ドラマ好きの私は、彼女のお薦め情報を参考にすることが多い。

その彼女と先週、話した際に、「おっさんずラブ、今期、地上波でイチオシよ」と言われたので、早速録画してみた。テロ朝、あ、失礼、テレ朝の土曜ナイトドラマらしい。先週の土曜はすでに第6回。「こんな途中から見ても、面白いかなぁ…!?」と一抹の不安を覚え、なんとなく後回しにしていて、昨夜ようやく見てみたのだが…。

面白かった、ほんとに。笑えた、笑えた。「気持ち悪い!」とか言いながら。しかも、おホモ系は嫌いなはずの夫も、パソコンに向かっていたはずなのに、笑っていた。さすが、友人のお薦めだ。日本のドラマでこんなに楽しめたのは、久しぶりだわ。

で、今朝、車を定期点検に持っていき、代車で帰宅したのだが、FMがセットしてあったので、普段は聞かないFMをそのまま流していたら、「おっさんずラブ」が話題にのぼっていた。「へぇ~、やっぱり人気なんだ~」と感心。

そして午後、代車で再びカーディーラーに向かったら、またもFMで「おっさんずラブ」の話をしていた。「いやぁ、ほんとうに人気なんだ」と納得。もちろん、私も毎週録画にしておりますよ。ふふふ。

*ちなみに牧稜太役の林遣都君は比叡山高校出身だ!

今森光彦『オーレリアンの庭』のシンクロニシティ

いつもは5時半起きだけど、きょうはお休みなので朝寝坊した。朝食の用意をしてテレビをつけたら、NHK今森光彦氏の『オーレリアンの庭』という番組が始まり、その心癒される映像に魅せられ、ずっと見入ってしまった。

今森光彦氏は、琵琶湖を臨む里山にアトリエを構える写真家として有名だ。そのアトリエは、たぶん私の大好きなドライブコースのあの辺りにあるんだろうな~と前から思っていたのだが、この番組ではそのアトリエを囲むお庭の四季をあますことなく見せてくれた。『オーレリアン』とは『蝶を愛する人』という意味だとか。今森氏は大好きな(やその他のいきもの)が集まるよう、庭にいろんな工夫を施している。番組の中では特に黒いアゲハチョウが舞っているシーンが印象的だった。

今森氏があちこちに手を入れて作った里山の環境…自然の色彩があまりに美しくて、心が癒されたのだが、その後、ふと外を見たら、我が家の庭にも黒いアゲハチョウが舞っているではないか!! 今年、黒アゲハを見るのは初めてだったので、思わず外に出て写真を撮っていたら、もう一羽、黒アゲハが飛んできた。それから白い蝶も! なんだか嬉しいシンクロニシティ!!

草ぼうぼうになってしまった我が家の庭も、自然のままだからこそ(!?)いろんな生き物が来てくれるのか!? 私も心癒すお庭を作りたいものだわ。

ブログ移行のシンクロニシティ

といっても何のことかわからないタイトルですが、私は『鳩胸厚子の日記』以外にもいくつか無料ブログを(一時的に)やっておりました。そのうちのひとつが、広島の母のために作った『しんちゃん日記』。私が関西に引っ越した際には手伝いに来てくれた母ですが、その後、私が結婚した頃には旅行は無理な体になっていたので、孫の姿もお盆やお正月の帰省の時しか見せることができませんでした。赤ん坊の頃はビデオを送っていたのですが、母はパソコンはいじれたので、保育園に入った孫の様子がわかるようにとブログを作ったのです。けれど、その後、母が入退院を繰り返してパソコンどころではなくなり、ブログは休止となりました。

実はそのブログもこのサイトに移そうと思い立ち、昨晩、最初の記事を移行させてみたのです。その作業をしたのが、2018年4月16日の22時30分頃。そしてオリジナルの投稿日時を見ると、2005年4月16日22時24分。なんと、同じ日の同じ時間帯ではないですか!!! しかも、あとで気づいたのですが、この記事は本当は最初の記事ではありませんでした。私が最初の記事と勘違いしていただけ。

なんなんでしょうね、この偶然!? 
私の経験則では、シンクロニシティいい流れに乗っている時に起こるような気がするのですが…。今後何かあったら、報告します!

本屋閉店…どうすりゃいいの!?

かつて山奥の過疎地に暮らしていた頃、街の書店に行くことが我が家の楽しみでした。本屋に行くことが、ほとんど休日のイベントと化していました。夫も私も息子も本屋が大好きで、街に出かけるときは、出来る限り本屋に立ち寄ったものです。本好きの息子は、近くの町の図書館に連れて行ってもあまり喜ばず、理由を聞くと、「人の触った古い本は嫌だ…」と贅沢なことを言っておりました。(そのくせ、中学以降は学校の図書館に入り浸っているのですが。同じ学校の人たちが触ったものはOKなのでしょうか。)でも、その気持ちはわかります。本屋に入った時に感じる「新しい本の匂い」が好きなんでしょうね。夫にいたっては、新しい本の匂い(インクの匂いらしいですが)を嗅ぐともよおすらしいです。(どっちを!?)なので、本屋に行くと、夫はよくトイレに消えていくのです。

その後、我が家は町の住宅地に引っ越しましたが、相変わらず家族で本屋に出かけるのは大きな楽しみでした。しょっちゅうアマゾンで本を買っていても、やはり書店で本を手にとってみるのは楽しい時間です。書店で偶然みかけた本が、自分にとって大切な本になることも多々あるのです。以前、面白そうだなと思ったのに、「また次の機会に買おう」と思って買わずに帰った本が、次の機会にはもうなくなっていた…ということがありました。それ以来、そのとき出合った面白そうな本は、なるべくその場で買うようにしています。

私が「引き寄せの法則」に興味を持つきっかけとなったのは、2014年に『こうして、思考は現実になる』(パム・グラウト著)を読んだことでした。この本の新聞広告を何度も見て興味をそそられ、アマゾンで購入して読んだあとに、自分でも思考現実化実験をしてみたら、ぴったり一ヶ月後に「理想の家」をゲット! 以来、この実験にはまっているのですが、それはこの本を読んだ直後に、『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』を読んで、妙に納得してしまったからなのです。『こうして、思考は現実になる』は、軽い気持ちで、騙されたと思ってゲーム感覚で実践してみたのですが、エイブラハムの本はそのゲームの仕組みを解き明かしてくれたのです。といっても、一度ですんなり理解できず、ことあるごとに読み返しては理解の度合いが深まっていく感じです。

実はこの本、車で移動中にたまに立ち寄る書店でみつけました。シリーズ本が3冊、棚に並んでいたのですが、最初はちらっと立ち読みしただけで購入しませんでした。あやしさ全開のスピリチュアル系の本に思えたので、レジまで持っていく勇気がなかったのです。しかもわりと分厚くて値段も高めだったので躊躇した・・・というのもあります。

その後、その書店に立ち寄るたびに、「エイブラハム」の本があるかどうかをチェックしては、買わずに帰る…ということを何度か繰り返していたのですが、ある日、とうとう最初の1冊を買って帰ったのです。「きょう、あの本屋にまだエイブラハムの本があったら、買って帰ろう!」と心に決めていたからです。そして、その1冊に納得してしまった私は、その次に2冊目、その次に3冊目と、その書店に並んでいたシリーズ本3冊すべてを購入していました。その後、エイブラハムの本が補充されることはなく、今に至ります。

今ではこの本屋、我が家が一番よく通う本屋さんとなったのですが、先月、お店で衝撃の貼紙を目にしました。なんと、今月でこの本屋さん、閉店するのだそうです。が~ん!!! 

ただでさえ、この辺りは本屋が少なくて、せっかくできた大型書店もいつのまにか規模を縮小したり、撤退したり…。そんな状況でも、この本屋さんは独自路線で頑張っているなぁと思っていたのに。それだけ本は売れなくなっているということでしょうか。

私をエイブラハムに引き合わせてくれた書店がなくなってしまうとは…寂しい限り。こうやって時代は移り変っていくのですね。
さてさて、私もそろそろ本気でなにかを引き寄せなければ。

ananの星占い

先日の日記に書いた通り、私は1980年代後半にパリに留学したのだが、本当はその1、2年後にアメリカに留学するつもりだった。それまでに資金も十分に貯めて、試験など諸々の準備もしようと思っていた。そのとっかかりとして、どこかの留学センターのようなところに資料請求をしたところ、ある日、突然、職場に電話がかかってきた。私が目指していたのと同じようなプログラムが、パリの学校に新設されることになり、現在、学生を募集していると言うのだ。私はそもそもアメリカ留学を考えていて、フランスに興味もなければ、フランス語もできないと答えると、電話口の女性は「アメリカと同じようなプログラムをフランスに作るので、授業はすべて英語ですから問題ないですよ」と言う。しかも、「学校はパリサンジェルマンデプレ地区にあり、日本で言えば表参道みたいな感じかしら」と言われ、パリに憧れたことのない私も心をくすぐられてしまった。

まだ具体的な留学準備をしていない私に、彼女はとりあえず必要書類を提出して、面接にいらっしゃいと畳みかける。その年の10月に開講だから、今から準備すれば大丈夫!と。あまりの急展開に自分でもビックリしたが、事は動き出したら速いのかも…と思い、この流れに身を任すことにした。といっても書類選考&面接を突破しなければいけないのだが。

それでつい、面接に行く直前に私はananの星占いをチェックした。この占い、けっこう当たるとマガジンハウスの友人から聞いていたのだ。その占いによると、その時期の私のラッキーアイテムは「ピカソのプリント」、そしてラッキーカラーは「ウグイス色」。これを見て、私は「やった~!!」と叫びそうになった。

なぜなら、私はその少し前に広島の友人からピカソプリントハンカチをプレゼントされていたのだ。別に誕生日とかの祝い事があるわけでもないのに、あとで聞いてみると、「なぜか、これは厚子ちゃんにプレゼントしなきゃ!」と思って、わざわざ注文して取り寄せた品だという。普通にお店で買えるものではなかったのだ。確かに、私もこれを一目見て、とても気に入っていた。

それから、同じくその頃、私はイヴ・サンローランウグイス色のスーツを購入していた。私はおしゃれに無頓着でお金もあまりかけないタイプなので、ブランドものにあまり興味がなく、ほとんど持っていなかった。ましてサンローランなんて、とんでもない!という状況だったが、当時の職場の近くにサンローランの直営店があり、たまたまセールをやっていたので初めて覗いてみたら、ウグイス色のスーツに「5000円」の値札がついていたのだ! 日本人には好まれない色だったのだろうか。普通のスーツだって5000円ではなかなか買えないと思い、私はサイズをチェックして、即購入! レジでお店のスタッフも、「え? 5000円?」と驚愕していた。(まさか値札を書き間違えたわけじゃないよね!?)

かくして私はサンローランのスーツに、ピカソのプリントハンカチをしのばせて、パリ留学のための面接に挑んだのである。面接官として出てきたのは、私に電話をしてきた女性だったのでびっくりしたが(さらに面接場所も青山だった!)、「私も彼女とパリに行きたい!」と思わせる素敵な方だった。(実際、この方、後にどんどん出世していかれるのだが・・・)

そうして、私はその年の秋に渡仏し、パリサンジェルマンデプレ界隈で暮らし始めた。2年弱のパリ生活は、本当にめくるめく夢のような日々だったのだが、これについてはまたいつか!! 

大杉漣さん急逝とベイブルース河本くん

2月21日に俳優の大杉漣さん急逝のニュースが報じられたあと、ネットでこんなことが話題になっていると子供が教えてくれた。大杉漣さんが亡くなる前に、Yahoo知恵袋に大杉さんの死亡日は?という質問が投稿され、その回答締め切り日が亡くなられた日だったというのだ。質問者は、ほかの質問は投稿しておらず、この質問をするためだけにID登録したのだろうかという憶測まで飛んだという。この質問はすでに削除されているが、検索するとキャプチャーした画像が出てくるらしい。

なんとも不思議な話だが、これを聞いて思い出したことがある。吉本の漫才コンビ「ベイブルース」をご存知だろうか? 私も詳しくないのだが、90年代にほぼ関西ローカルで活躍されていたので、全国的にはあまり知られていないかも知れない。私も当時、東京にいたので、東京のテレビで彼らを見たことはないのだが、関西在住の友人がビデオ録画して送ってくれていた神戸サンテレビ上沼恵美子の番組などに出演していたのだ。悩み相談番組だったと思うが、「ベイブルースの河本くんって面白い。この人は売れるな!」と思って見ていた。

ある時、先輩に誘われて珍しく飲み会に行き、初対面の男性(先輩の友人)と話していたら、関西出身のその方とお笑いの話になり、「ベイブルース、知ってる? 面白いよね。」と言われて盛り上がった。その時、私は「ベイブルースの河本くん、面白かったですよね~」と話しながら、ふと思ったのだ。「私、なんで過去形で喋ってるんだろう?」と。

そして翌日、飲み会明けで寝坊して、テレビをつけたら芸能ニュースで「ベイブルース、河本栄得さん急死」と報じていたのだ。びっくりして目が覚めた。もしかしたら河本くんの魂がこの世を去るとき、日本中の河本ファンにメッセージを送ったのだろうか!? だから私たちはあの日の夜、河本くんのことを思い出して、話していたのだろうか!? (それも過去形で!)

大杉漣さん、ベイブルース河本さん、才能あふれるおふたりのご冥福をお祈りいたします。
(*河本栄得さん、誕生日の前日の1994年10月31日、劇症肝炎による脳出血のため25歳と364日で死去。)

小さな引き寄せ(デコポンとお宝トマト)

私はデコポンが大好きで、毎年、故郷の広島から取り寄せていたのに、今年は申し込みをするのを忘れて、どうしようと思っていたのだが、昨日、スーパーに行ったら、デコポンの箱売りをしていた。それもけっこう安く! (残念ながら広島産ではないけれど)

このお店に時々寄るのは、私が通うジムから近いこともあるのだが、たまにほかのスーパーでは見かけない広島産の商品が置いてあるのだ。それも私の実家の近所の会社の製品だったり、私が生まれた町の製品だったり。地名を見るだけで思わず懐かしくて買ってしまう。

で、昨日は「デコポン、買おうかな」と思いつつ、広島産でなかったことから一度は売り場を通り過ぎたのだが、レジに行く直前に「やはり買おう。箱売りであの値段はかなり安い!」と思い直し、売り場に戻った。その途端、店のおじさんが「は~い、今からデコポン、半額にするよ~!」と声を上げたので、私は既にかなりお安いデコポンをさらにその半値で手に入れたのであった。ラッキー!! 見た目はB級だけど、味はA級で大満足。

ところが、昨日、そのスーパー、休日前の叩き売り状態で、トマトは売り切れていた。私はなるべく毎日、トマトを食べることにしていて、このスーパーに来ると必ずトマトを買うのだが、売り切れなんて滅多にないこと。「ああ、明日のトマトがないなぁ」と思いながら帰宅したのだが、そしたらきょう! 広島の実家の事務所を借りてくださっている会社の社長さんから、倉橋島お宝トマトが届いたのだ。毎年のことだけど、いつ届くかはその年によってまちまちなので、びっくり。

なお倉橋島お宝トマトは、県外には出荷されておらず、広島県内のスーパーでも手に入りにくいという人気のトマト。ほんとに、普段食べるトマトと味が違うんです。嬉しい!!

 
これが倉橋島のお宝トマト!