Anchorのポッドキャストのアカウントにログインできない(;’∀’)

4月10日から始めた新しいポッドキャスト『鳩胸厚子の琵琶湖日記』、昨日、第30回をアップしたあと、アカウントにログインできなくなり、更新できなくなりました(泣)。

そもそもAnchor のアカウントを作って、『生きたい人生を生きる–厚子とリンのフェリシテカフェ』というポッドキャストを始めたのですが、毎回、録音した音声をパソコンでアップロードしています。先日、スマホにもAnchorのアプリを入れて、ログインしたところ、『生きたい人生を生きる–厚子とリンのフェリシテカフェ』が自分のポッドキャストとして出てきません。検索すると出てくるので、とりあえず「お気に入り」登録しましたが、私自身のポッドキャストとして認識されていないのです。

おかしいなと思いつつ、スマホのAnchorを開くたび、あなたのポッドキャストを作ってみようという画面が出てくるので、試しにやってみると、スマホだけで本当に簡単にできることがわかり、面白半分でそのまま始めたのが『鳩胸厚子の琵琶湖日記』でした。

ところがパソコンで『鳩胸厚子の琵琶湖日記』のアカウントをチェックすると、『生きたい人生を生きる--厚子とリンのフェリシテカフェ』のアカウントが出てくるのです。同じアカウントでふたつのポッドキャストができているみたいだけど、パソコン上で『鳩胸厚子の琵琶湖日記』のアカウント情報やデータを見ることはできないのです。どうなっているんだろう!?

Anchorのいいところは、Anchorで作ったポッドキャストがそのままApple Podcastなど、ほかのポッドキャストのプラットフォームにも配信されることだとか。確かに『生きたい人生を生きる--厚子とリンのフェリシテカフェ』は、そうなっているのですが、『鳩胸厚子の琵琶湖日記』はApple Podcastに配信されておらず、やっぱりなにかおかしいなと思い、調べてみました。

すると、Anchorでは現時点では、ひとつのアカウントで複数のポッドキャストを作ることはできないとのこと。複数、作りたい場合は、別のメールアドレスを使って、別アカウントを登録する必要があるようです。

では、どうやって私はふたつのポッドキャストを作ってしまったのか!? いまだに謎です。スマホにAnchorをインストールした際、パソコン上ですでに作っていたアカウントと同じメールアドレスとパスワードを入れてログインしたはずなのですが。もしかして、パソコンで『フェリシテカフェ』用に作ったアカウントの登録メールアドレスを変更すれば、スマホの『琵琶湖日記』のアカウントとは別アカウントと認識されるだろうか!?と思い、昨夜、登録アドレスを変更してみたのですが…すると、パソコンでもスマホでも、私のアカウントで作ったポッドキャストは『フェリシテカフェ』のみ表示され、『琵琶湖日記』は出てこなくなりました。『琵琶湖日記』のアカウントにログインしようとしても、失敗。これで、月~金は毎日、更新していたポッドキャストが、ストップしてしまいました。ああ~(😿)

どうしていいかわからず、Anchorに質問メールを出しましたが、新型コロナでスタッフも少ないらしく、返信には通常より時間がかかるみたいです。わけもわからず始めたポッドキャスト、早く解決方法がわかるといいのですが…。とほほ。

さそり座の満月

昨夜、2020年5月7日の午後7時45分に満月となりました。占星術的に言うと、今回は蠍座の満月だそうです。6時45分には、琵琶湖の上に大きなオレンジ色の満月が…。写真だと、肉眼で見たときよりも小さく白く写っていますが、美しい月としばらくの間、真正面から対面して、満月ビーム(!?)をたくさん浴びた気がします。月って、本当に神秘的ですね。

この満月にあわせて、リンさん、そしてヒロコさんと3人でお喋りしたポッドキャストフェリシテカフェ』もアップしました。リンさんの占星術に基づくアドバイス、毎回、参考にしています。宇宙の星や月の動きにあわせて、自分の心を整えるって新鮮です。

『生きたい人生を生きる-厚子とリンのフェリシテカフェ』*新月と満月の日に更新↓

『鳩胸厚子の琵琶湖日記』*月-金は毎日更新予定↓

ポッドキャスト『鳩胸厚子の琵琶湖日記』

新型コロナの外出自粛要請のおかげで、家にいる時間がさらに増えたので、なにか新しいことを始めようと、またポッドキャストを作ってみました。

『鳩胸厚子の琵琶湖日記』

5分程度の短い番組なので、とりあえず平日は毎日録音することを目標にしてみよう…かな!?

無意識の引き寄せーモリッシー(ザ・スミス)の場合

大好きなデペッシュモードクイーンの記事にいくつかコメントをもらったことがきっかけで、しばらく忘れていたUKロック熱が近年、私の中で蘇っている。といっても最近の音楽シーンについてはまったく知らないので、あくまでも昔、好きだったバンドを今さらながらに思い出している状態。

その中で、どうしても避けて通れないのが、ザ・スミスだ。まだ大学生だった80年代に、LPレコードで聴いたのが最初だったが、そのまま東京で就職してからは、本当に没頭して聴き続けた。就職して親に頼らず自活を始めたものの、初任給では食費も切り詰めるぎりぎりの生活。仕事が終わると、狭いワンルームマンションの部屋で、毎日のようにスミスのアルバムを聴いて、モリッシーの歌詞の世界に浸り、深く深く共感していたのだ。

その後、生活に少しずつ余裕ができて、いつか留学するという夢のためにお金も貯めた。そして実際に2年ほどパリに留学して帰国した私が東京で再就職した頃、ザ・スミスが解散してソロになっていたモリッシーが初来日を果たしたのだ。昔、モリッシーは飛行機嫌いだから来日しないだろうと聞いていたので、「こんな極東の国まで来てくれるなんて!」と感激して、武道館公演のチケットを1枚買い求めた。その頃、私の周りにはスミスモリッシーの話ができる人もいなかったので、ひとりで行くしかなかったのだ。

そして、武道館公演を楽しみに待ちわびていたある日の夕方、私は昔の同僚と久しぶりに会うことになっていた。待ち合わせ場所は、六本木Waveという大型レコード店。普段は待ち合わせに遅れることのない元同僚が、その日はなぜか時間になっても現れず、私は入口の前でひとりぼ~っと待っていた。すると、まるで私に会いに来たかのように、入口のガラス扉を開けて私の目の前にモリッシーが現れたのだ。「あ、モリッシー!!!」と頭の中でつぶやきながら、「まさか!? ほんと!?」と信じられない気持ちに。思わず、そばにいたボディガードらしき外国人のおじさんに、「モリッシーですか?」と話しかけたら、「自分で訊いてみれば?」と言われ、勇気を出して訊いてみた。

モリッシーですか?」
「そうだよ」
「あ、あの、サインもらっていいですか?」
「いいよ」

私は急いで、バッグからきれいな便箋とボールペンを出した。
モリッシーがサインをしている間、「武道館のコンサート、見に行きます」と言うと、「楽しんでもらえたらいいけど」と優しい答え。それまで雑誌の記事などから、勝手に「モリッシーは、気難しいから、話しかけちゃいけない人」というイメージを自分の中で作り上げていたのだが、ごく自然に、普通に感じのよい人だった。

モリッシーにサインをもらって、入口に戻った頃、元同僚が「遅れてごめんね」とやって来た。「構わないよ。それよりも、それよりも…モリッシーが、、、モリッシーが、、、」と興奮して言葉にならない状態の私を見て、元同僚は冷静に言った。「モリッシーが誰なのか知らないけれど、厚子ちゃんがこんな状態になっているということは、ものすごい人なのね。」そして、私がモリッシーにサインをもらったことを話すと、「厚子ちゃん、せっかくだから写真も撮った方がいいよ」と言って、近くのお店で『写ルンです』を買って来た。そう、スマホもない当時、急に写真を撮るなら『写ルンです』だったのだ。

サインをもらった上に写真までお願いするなんて、モリッシーに嫌がられないかしらと心配する私をよそに、彼女は「厚子ちゃん、早く!」とモリッシーに近づいた。不思議だったのは、有名なレコード店だというのに、その日はお客もほとんどおらず、店員さんもモリッシーに気づいていなかったこと。私が再び、モリッシーに写真を撮っていいかと尋ねると、彼は嫌がることなく、でもシャイな感じで、私と一緒に写真に写ってくれた。もちろん、元同僚がシャッターを押してくれたのだ。

その様子を見て、ようやく店員さんがモリッシーに気づいたようで、そのあと、モリッシーはまたサインをすることになったのではないかと思う。私はといえば、すっかり満足して、元同僚と一緒に夕飯に出かけた。本当に好きな人には、会えるものなのだなぁと思いながら。

モリッシーとの遭遇」――私にとっては大歓喜、大興奮の出来事だったが、その時の私の周りには、この喜びを共有してくれる人がいなかった。私にとってはあまりにも嬉しい出来事だったので、翌日、職場の仲良しの同僚に話してみたが、いまひとつこの出来事のすごさを理解できないようだった。実はこの時、私が勤務していたのはイギリス系の会社で、私のチーム内に2名のイギリス人がいたのだが、日本人スタッフはともかく、外国人スタッフとはまだそれほど打ち解けていなかった。仕事以外の話をすることは、めったになかったからだ。

だがこの日の私は、上司であるエリートのイギリス人ではない方のイギリス人に思わず話しかけていた。「昨日、モリッシーに会ったの」と。すると彼は、「モリッシーに!?」と大きな声でものすごいリアクションを返してきた。「嘘だろ!?」と言わんばかりに。「モリッシーに会ったのか?」と聞き返す彼に、私は前日もらったサインを見せた。すると彼はすごいなぁという顔で、本当に感心してくれたのだ。そこから彼と音楽の話が始まり、それ以降、彼と、私を含めた日本人スタッフの会話も増えて、チームの雰囲気もなごやかになったように思う。まだCDやカセットの時代だったので、彼が「ニューオーダーの新作、聞いた? まだなら録音してあげるよ」とテープを持ってきてくれたこともあった。
その後、同じ年の11月24日にクイーンフレディが亡くなるのだが、ロンドンからその第一報が入ったとき、隣のチームのイギリス人がフロア中に響き渡る大きな声で、そのニュースを伝え、『伝説のチャンピオン』を歌いだしたことを今でもはっきり覚えている。

それからしばらくして、私はある音楽雑誌の編集長と会う機会があった。モリッシーの来日時、唯一、その雑誌だけがインタビューできる予定だったのに、モリッシーの体調不良でドタキャンとなり、その編集長はずっと会いたかったモリッシーに会えなかったそうだ。「私、偶然、モリッシーに会って、サインもらって記念写真も撮りました」と思わず言ってしまった私。けれど、これ以降、このモリッシー話を自慢できる人が周りにいない状態が相変わらず続いている。去年、ザ・スミス以前のモリッシーの物語を映画化した『イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語』が公開された時も、ひとりで観に行ったくらいだし。

そういえば、80年代に、シェフィールド出身のABCというバンドのマーティン・フライから手紙の返事をもらったことがあった。最近読んだ本、見た映画やバンドなどのリストがあって、感想などが書いてあったのだが、当時はまだ知らなかったザ・スミスの名前があったことに、だいぶあとになって気づいたことがある。

ああ、久しぶりにカラオケに行って、ザ・スミスを歌いたい気分だ。


*モリッシーがライヴでポケットに入れていたのは、グラジオラスだったけど…

『鈴木るみこさんを偲ぶ会』を終えて

photo by Rin Matsubara
比叡山坂本の「むあ文庫」

2019年11月4日(祝月)に開催された『鈴木るみこさんを偲ぶ会』の報告を投稿せねばと思いながら、なにもできないまま、時間が過ぎてしまいました。11月が終わる前に、あの日のことを少しだけ記しておきます。

秋の穏やかな日に、スタッフを入れると20数名が「むあ文庫」さんに集まって、午後の間中、るみこちゃんのことを語らいました。関西はもとより、富士宮、鎌倉、東京、そして遠く仙台からも、るみこちゃんの綴った文章が大好きという方々が参加してくださいました。

この日、特別にお店を開けてくださった「むあ文庫」さんの玄関先には、「鈴木るみこさんを偲ぶ会」の案内板が立てられ、カフェの先の絵本の館(!?)には、「むあ文庫」さんが特別にるみこちゃんのこれまでの記事/エッセイに関連した絵本を選びだしてディスプレイしてくださっていました。

photo by Rin Matsubara
「偲ぶ会の案内板」

会が始まる前に、その入口の写真を撮っていたら、きらきらと光る風が何度か吹き渡り、「るみこちゃんがやって来たのかしら?」と私たちは囁きあっていたのですが、会のあと、窓際に座っていた参加者の方から、「窓の外で、風が何度もきらめいていて、るみこさんかと思いました」と言われ、確信しました。永遠の光の塔のことも。

photo by Rin Matsubara
永遠の光の塔から!?

ほとんど初対面の方ばかりなのに、「るみこちゃんの言葉で綴られた世界が好き」という共通点だけで、昔からのお友達のようにお話ができたのは不思議でした。皆さん、それぞれの想いを語ってくださり、参加者のおひとりがおっしゃったように「宝物のような時間」を過ごしました。るみこちゃんの文章が、こんなに素敵な方々を引き寄せて、結びつけてくれたなんて、感謝してもしきれません。忘れられない日となりました。

これは当日とは別メニューのアップルクランブル@むあ文庫

あの日のことを、いまだにうまくまとめられないので、いちはやく「偲ぶ会」のことを書いてくださった参加者のブログ等を以下、紹介します。ほかにもあれば、お知らせください。

【花と空】57歳から始めた雑記ノート。by yuki-bee-62

picchipucchiさんのインスタグラム

台湾手帖 田中六花さんのインスタグラム

Hopinほぴん さんのnote

Rinのオフィシャルブログ

*12月2日に追加→ mai_nogamiさんのnote

ベルローズさんの波動バラ

*当日は、るみこちゃんが大好きなバラを飾りました。愛媛のベルローズさん波動バラ。終了後、参加者の皆さんに持ち帰っていただきました。

追記:この日の参加者の中に、同じ小学校の同級生(しかも同じクラス)だったおふたりがいたことが帰宅後に判明。会の間は、お互いに気づいていなかったとか。これも不思議なご縁でした。

【鈴木るみこさんを偲ぶ会】を開きます

2018年5月に編集・文筆家の鈴木るみこさんが永眠されました。『Olive』、『anan』、『クウネル』、『つるとはな』等の雑誌を中心に活躍されたるみこさんを追悼する会を、遅ればせながら開きたいと思います。彼女の文章が好きだった読者の方、あるいは彼女と仕事やプライベートで交流のあった方、どなたでもご参加ください。比叡山の麓で、鈴木るみこさんの文章や彼女にまつわる思い出など、語り合いましょう。

日時:2019年11月4日(月・祝) :午後1時~4時30分
    *事前申込制(11月1日現在、午後3時前後の来場のみ受け付けております。)

                 
場所:むあ文庫 muabunko.com 

最寄駅:(京阪石山坂本線)坂本比叡山口駅/(JR湖西線)比叡山坂本駅

参加費:1,500円(飲み物・お菓子付)

お申込、お問合せは、hatomuneatsuko.comのお問合せページにお願いします。

NHKの不可解な漢字表記

先日の参議院選挙以来、世の中では「NHKをぶっ壊す!(笑顔)」のNHKから国民を守る党が話題になっているが、我が家では相変わらずNHKニュースのテロップの漢字表記について疑問が噴出している。

既に2018年2月18日の記事『NHKは一億総白痴化を狙っているのか!?』で、「腹腔鏡手術(ふくくうきょうしゅじゅつ)」をNHKが「腹くう鏡手術」と表示したことに触れた。ネットで検索しても、「腹くう鏡手術」という表記は、NHK以外にはほとんど見当たらないはずだ。

その後、気になったのは、「妊よう性の温存治療」という表記。そもそも「妊よう性」という言葉を聞いたことがなかったので、「なんなのこれは!?」と思い、調べてみたら「妊孕性=妊娠すること、身ごもること」とのこと。この単語を検索してみると、「妊よう性」という表記を採用しているのは、「国立がん研究センター」の「がん情報サービス」くらいだ。がん治療の際に出てくる重要な言葉のようだが、医療系のサイトには「妊孕性(にんようせい)」とふりがなをつけた表記が多く、これが一番親切だと思う。NHKといい、国立がん研究センターといい、その分野では国の中心的存在と思われる組織が、「妊よう性」などという奇怪な表記をするのは止めてほしい。

それから、最近、よく発射される北朝鮮の「飛しょう体」。「」が常用漢字じゃないから。ただし、「櫻井翔」は漢字でオッケー。人名だから。でも民放のニュースでは、「飛翔体」と表記しているはずだ。それを言うなら、宮中「晩餐会」も、NHKは「晩さん会」と表記した。「膠着」は「こう着」。でも、「語彙」は「語い」ではなく「語彙」のまま。「」が2010年に常用漢字入りしたらしい。しかしタンカーの「拿捕」は、なぜか「拿捕」の漢字表記に「だほ」とルビがついていた。何故なのか、よくわからない。

それから混乱するのが「抽せん」。先日、「東京オリンピック観戦チケットの抽せん申込」を報じた際に、背景に映る東京オリンピックの公式ホームページには「抽選」と書いてあるのに、NHKのテロップは「抽せん」となっていたのだ。民放は「抽選」と報じていた。「ちゅうせん」という言葉は、本当は「抽籤」と書くのだが、「」が常用漢字でないため、「抽選」と代用漢字を用いることが多いが、国会の議事録全国自治宝くじ事務協議会は、NHKと同じく「抽せん」という平仮名との交ぜ書き表記にしているそうだ。(ちなみに、私が「抽籤」が本当の表記だと知ったのは、林修先生の本を読んだとき。さすが林先生だ!!) そこは理解したとして、不思議なのが、「抽せん」の結果が「当選」、「落選」と表記されていたこと。なぜ「当せん」「落せん」ではないのだろう!?
しかも、今朝のNHKのローカルニュースでは「抽選」というテロップが。これは単なるチェックミスか!?

その後、この問題について話していたら、子供が「こんなのがあるよ」とネットでみつけてきたのが、『放送研究と調査』という資料だ。NHK放送用語委員会の会議録やアンケート調査などが、ネットで見られるのだ。少し昔のものだが、委員会でもメンバーによって意見がかなり違うし、アンケート調査では、現場のアナウンサーが実は平仮名との交ぜ書きではなく、漢字表記を好む傾向にあるらしいことがわかったり、なかなか興味深かった。

これによると、「放送における漢字使用」については、常用漢字とNHKが独自に使用を決めた漢字を使うとある。しかも、常用漢字表にあってもNHKの判断で使わないものもあるし、表外字であっても特例として使うものもあるとのこと。つまり、常用漢字以外は絶対ダメというわけではないのだ。そもそも、この時の委員会の会議は、表外字も使って放送表現の幅を広げていくため、これまでの漢字の使用制限を見直すことがテーマだったのだ。

しかし、こういう問題にその場で即、答えが出るわけではない。結局、(もしかしたら)現場のアナウンサーの意見を無視して、奇妙なテロップを決めているのは誰なのだろう!? 委員会の中で、「放送は、年少者も含む多くの国民を対象にしている」から、「新聞界は表外字を認めて使用範囲を広げても、放送がそれより狭い範囲で表記することに非難されるところはない」といった意見を目にしたが、まさに公教育の論理と同じで、最低レベルに合わせようということだろうか!? 放送を視聴している年少者は、いつまでも年少者ではない。学習して成長していくはずだ。それなら、日本国民として恥ずかしくないレベルの国語を理解できることを前提として、ニュース番組を制作していいのではないだろうか。(だからこそ、子供ニュースみたいな番組を別に作っているんじゃないの!?)前述の意見を述べたのが、(たぶん)有名な日本語学者だということに、私はいたく失望した。日本語学者なら、正しい、美しい、そして格調高い日本語を、多くの国民に聞いてほしい、話してほしいと思わないのだろうか!? ま、いろんな人がいて、いいんだけどね。いやはや、いろいろ勉強になりました。ふぅ。

N国の立花さんほどじゃないけど、NHKに対して不満が募るきょうこの頃です。

映画『ボヘミアンラプソディ』で蘇る1979年クイーン山口公演の思い出

昨秋の公開以来(日本では2018年11月9日封切)、異例の大ヒットとなっている映画『ボヘミアン・ラプソディ』!
年がバレてしまうけど、まさにクイーン世代の私は公開前からとっても楽しみにしていたこの映画が、予想を上回る出来栄えで大感激した上に、クイーンを知らない世代にも大ヒットというニュースを聞いて、さらに感激。改めてクイーン、そしてフレディ・マーキュリーの偉大さを実感している。

私が広島の田舎町から「どうしても東京の大学に行きたい!」と思ったのは、数々の来日バンドのライヴを見たいという一心からだったのだが、その始まりは中学の夏休みに友達から借りたLP『オペラ座の夜』を聴いた時の衝撃だったと思う。中学入学後にぼちぼち英米のポップスを聴き始めていたものの、衝撃&感動の大きさはクイーンの『オペラ座の夜』(1975年発売の4枚目のアルバム)が一番だった。BCRKISSや、はたまたカーペンターズビートルズの曲は、歌詞カードを見ながら一緒に口ずさめるのに、クイーンの曲は音域的にも英語的にもとてもじゃないけど口ずさめなくて、いつかフレディみたいに歌えるようになりたい…と思ったものだ。

1970年代当時、広島で公演する海外のロックバンドなんて滅多になくて(例外として特筆すべきは1971年に自らの希望で来広したレッドツェッペリン!私はまだ小学生で知る由もなかったけれど)、クイーンも何度も来日したのに広島公演は一度もなし。お隣の岡山、そして山口でも公演があったというのに、中国地方最大の都市である広島で公演ができなかったのはどういう理由なのか、いまだに謎だ。

そして…1979年クイーンの3度目の来日時、まだ高校生だった私は遂に山口で憧れのライヴを体験した。正確な日にちは、1979年5月2日(木)、場所は山口県立体育館。この日は学校の遠足で、私たちの学年は宮島に行き現地解散だったので、クイーン好きの友達数人でそのまま電車で山口まで行ったのだ。友達がとってくれたチケットは、前から3列目だったと思う。しかも私が一番好きなブライアンの前あたり。

バンドのコンサート自体、私にとっては初体験だったが、それまで雑誌で見ていた武道館でのライヴ写真と違い、山口県立体育館のステージは客席からかなり近くて、しかも低い!! クイーンのメンバーがすぐそばに見えそうな勢いで、開演前から私たちは「フレディの唾や汗が飛んできそう!」と盛り上がっていたのだが、そんな私たちよりもさらに大盛り上がりの一団が私たちのすぐ前に座っていた。明らかに岩国の米軍基地から来たと思われる米兵たちが、持ち込み禁止のはずの缶ビールを飲んで、すでにパーティ気分になっていたのだ。

ちょっと嫌な予感がしていたのだが、その予感は的中。ライヴが始まり、私の目の前に立っていたブライアンが、ビール片手に騒ぐ米兵たちを嫌そうな顔で見ると、ツツツツ…とステージの反対側、ジョン・ディーコンの近くに行ってしまい、その後、ほとんど戻ってこなかった。ああ~(涙)。

ところがフレディは、彼らに嫌な顔をするどころか、むしろ喜んでイジってくれた。いま思うと、ああいうマッチョな兵隊さん、好みだったんだろうな~と納得するのだが、フレディはわざわざ彼らに向かって、「Are you IN THE NAVY?」と尋ねたのだ。実はこの頃、アメリカではビレッジ・ピープルというグループが人気で、「In The Navy」という曲がヒットしていた。その前年にも「Y.M.C.A.」という曲を大ヒットさせ、日本でも後に西城秀樹が「ヤングマン」のタイトルで大ヒットさせたのは周知の通り。けれど、これ、実はゲイの歌なのだ。ビレッジ・ピープルは、そもそもニューヨークのグリニッジビレッジのゲイディスコから生まれたグループで、今と違って当時はゲイを前面に出して話題を集めていた。

先ほどのフレディの問いかけに、米兵たちが「NO~!!」などと声をあげて騒ぐと、フレディはすかさず「Do you like YMCA?」とさらにけしかけた。客席の日本人にもわかるような易しい英語で、ゆっくりと。これで米兵も少し静かになり、さすがフレディ…と感心したのを覚えている。

ところで2019年の年明け早々、ブライアン・メイが自身のインスタグラムで、「米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設の埋立工事を県民投票が行われるまで中止することを求めるホワイトハウスの請願」への署名を呼びかけたことがニュースとなった。動物愛護や環境保護に熱心なブライアンらしい行為だとは思うけど、おそらくは工事に至るまでの複雑な歴史や詳しい事情は知らないのでは…とちょっと残念な気持ちに。でも、あの山口公演ブライアンが米兵に向けた視線を思い出すと、仕方ないかも…と思ったり。

ともかくも、あの山口公演は私の人生の中でもいまだに最高の思い出のひとつ。クイーンと同時代に生きて、クイーンの音楽と出会えて、そして生のライヴをあんな小さな(失礼!)会場で見ることができて、私は本当にラッキーだと思う。フレディ、ブライアン、ジョン、ロジャー、ありがとう!!!

*昨秋、紅葉狩に行った柳谷観音楊谷寺。フレディにも見せてあげたかった!!

「上海親子戦争」を見て考える「教育勅語」

反日的なドキュメンタリーや偏向番組が多くて、けっこう嫌になるNHKだけど、海外の良質ドキュメンタリーを放送したり、興味深いテーマの番組もたくさん作っている。「上海〝親子戦争”~急増する財産トラブル」という番組もそのひとつ。上海ではこのところ、「子供が面倒を見てくれない」とか、「子供に家をとられて追い出された」などと途方に暮れる高齢者が増えているのだそう。番組では、そういった高齢者をボランティアで支援している女性弁護士に密着しているのだが、上海の不動産の急騰がこの背景にあるという。親が購入した時に比べて、下手すると約10倍に値上がりした家の権利を巡って、親子が争うケースが多々あるらしい。女性弁護士がいくら話し合って解決しようとしても、聞く耳を持たない息子のケースを見ていると、最終的に和解する家族はどれほどいるのだろうかと寂しい気持ちになった。

そもそも中国は儒教の国だし、中国の憲法には「親孝行」の義務が明記されているらしいが、文化大革命時には孔子儒教は否定され、伝統的価値観は破壊されたという。さらには社会主義のくせに改革開放と称して市場経済を取り入れた結果、経済格差拝金主義が横行という、もうなんだか矛盾だらけではないか。

この番組を見ながら、私はふと教育勅語について考えてしまった。先日、NHKの記者が柴山文科相から教育勅語の肯定発言を引き出し、野党や一部大手マスコミなどが問題視して批判していたけれど、まさに大臣の発言の通り、教育勅語精神には「普遍性を持っている部分がみてとれる」と思ったからだ。

ちなみに下記は、国民道徳協会訳文による口語訳の抜粋↓

「国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。」

この後、「この教えは昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく外国で行っても間違いのない道」だと書かれている。そして実際に、その証ともいえる逸話がある。第二次世界大戦の同じ敗戦国でありながら、日本よりも早く復興を果たした西ドイツを訪れた日本の訪問団が、当時のアデナウアー首相ドイツ復興の原動力は何かと尋ねたところ、執務室の壁にかけられたドイツ語訳の教育勅語を指差したという。これはロンドンのドイツ大使館から要請を受けた日本大使館が、明治41年に渡した教育勅語のドイツ語訳だったらしい。

国の基本、そして人間の根本はやはり精神にあるのだと、つくづく感じたドキュメンタリーでした。