母の原爆の記憶

母の日の花束をネットで注文していたせいで、今年もいかがですか?とメールがくる。「そうか~、また母の日か~」と思いつつ、今年は母がいないのだなぁと気づく。ちょっと寂しい。

被災地の悲惨な状況を報道などで聞くたびに、母がちょこっと話してくれた原爆の話を思い出す。田舎の女学生だった母は、広島に原爆が落とされたあと、救援隊として送られた。広島駅から焼け野原の市内を延々と歩き、郊外の学校にたどりつくと、大勢の負傷者が寝かされていて、女学生は食事を運んだり、傷に湧くウジを取ったりしていたそうだ。市内の様子、負傷者の様子は、あまりに悲惨すぎて言葉では表せないと言っていた。毎日、毎日、人が死んでいき、校庭には燃やされた遺体の山ができていたそうだ。その臭いが嫌で嫌で、夜はなんだか怖いので、友達と誘いあわせてトイレに行っていたとか。よく考えたら、母はそのとき14歳だったのだ。

そんな大変なことがあっても、広島の街はちゃんと復興したし、生存者たちも健康に問題はあったかも知れないけれど、意味のある人生を送られたのではないだろうか。うちの母も、病気はいろいろあったし、若い頃には苦労もあったようだけど、晩年は心穏やかな落ち着いた暮らしができて、幸せだったと思う。14歳の母は、まさか現代の豊かで便利な生活を想像だにしなかったろう。

とはいえ、何もなくて必死に生きていた14歳も、最新の医療に助けられて長生きできた晩年も、本人は同じように幸せだったと思う。心配性だったけど、何事にも一生懸命で、いつも希望を持っていたから。

ところで、うちの息子は「母の日」なんて、すっかり忘れている気配。あ~あ。

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