偶然の繋がり(2)

ずっと昔の話になるが、息子が小学校に上がる一年前、親子で英語学校の子供向けイベントに参加した。そこで同い年の男の子と出会い、ご両親とお話をしてみると、音楽の趣味が同じだったりして、かなり盛り上がった。途中からうちの夫も合流して話していたら、なんと、そこのご主人が同じ高校の一年先輩だと判明し、びっくり。なにせ、ふたりの出身地はここから離れた他県の田舎なのだ。何かご縁があるのかも…と名刺交換して別れたが、そのまま月日は流れた。

さて、その後、我が家がそのご一家と再会を果たしたのは、息子の中学の入学式だった。息子にとっては、受験塾での何人かの友達を除いては知り合いがまったくいない状況。もちろん私たち夫婦に至っては、顔を見知った人さえいない状態で、入学式を終えて帰途につこうとしていたら、なんとなく見覚えのあるご夫婦がいたのだ。「あ、あの英語学校で会ったご一家だ!」と瞬時に記憶が蘇り、声をかけた。お互いに再会を喜びつつ、子供たちを見ると、なんのことはない、ふたりはすでに受験塾で顔見知りだったという。しかも、中学では同じクラスとなった。

やはりご縁がある人たちだったのだ。

天に帰る

このところ訃報が続いている。同級生のお父様、夫の職場の方、そして息子の学校の修道士様。皆さん、病気ではあったが、今すぐ命に関わる状態ではなかったのに突然、病状が急変して亡くなられた。気温の変化の激しいこの冬の気候も影響しているのだろうか。

夫にとっては、つい数日前まで一緒に働いていた方が亡くなったことはショックだったに違いない。長年、仏様に仕えてこられた方だ。

息子の学校のブラザーは、戦後まもない頃に異国から日本にやってきて、ずっと学校運営を支えてこられたようだ。私は直接お話したことはないが、昨年のバザーの準備会や報告会では、神父様のマジックとブラザーの歌を鑑賞した。先週末の高校の卒業式でも歌を披露されたあと、その日のうちに亡くなられたという。
日本の若者の教育のため長年、奉仕され、今年の卒業生を見送ったあとにご帰天されたと知り、涙がこぼれた。

自分の家族を持たず、神や仏に仕えて生涯を終えられた方々に、尊敬と感謝と哀悼の意を表します。

偶然の意味

きょうは結婚記念日。正確には入籍記念日。私たち夫婦は結婚式も披露宴もしていないのだ。私は昔から結婚したいと思いながらも、披露宴だけはしたくない・・・と思っていた。「披露宴はお嫁さんのためにあるのよ」というセリフをよく聞くが、私は「絶対お断り!」だった。自分が主役の宴会というシチュエーションに堪えられない、別にお披露目しなくていい・・・という気持ちだった。

当時、私はいわゆる晩婚だったし(その後、世間の晩婚化はさらに進んだけど)、いろいろと難しい状況の中で結婚にこぎつけたので、夫も私も入籍できればそれで満足だった。実をいうと、結婚生活はとうに始まっていたのだが、夫がある事情から跡継ぎのいない家の養子になっていたことが入籍を阻んでいたのだ。夫自身は望まない縁組だったので、いつか離縁できたらと思っていたようだ。とはいえ、籍を抜くのは大変なことで、相手方に了承してもらうまではすったもんだがあった。よく入籍できたなぁと、いまだに思うが、愛情のないつながりは切れてしまうということなのかも。

さて、私の親戚に算命学の大家がいるのだが、当時、やけに私の結婚を心配して、「結婚するなら、この頃よ」としきりに伝えてきた。あとで聞くと、その頃の2、3年の期間が私が結婚したいと思う星回りで、それを過ぎると、一生独身で過ごしそうだったので、何度もせっついてくれたらしい。そのため、私が夫と出会ったことをとても喜んでくれたのだが、入籍するなら天中殺の前にと釘をさされていた。夫と結婚を決めた翌々年が私の天中殺だったからだ。

しかし、養子先の問題がすったもんだしたことで、気がついたら天中殺の年を迎えていた。親戚によると、算命学の新年は1月1日ではなく、節分明けとのことだったので、ぞろ目の2月2日に入籍しようと決めたのだが、夫の手違いですべての書類が揃ったのがなんと節分の夕方。しかし、その年の旧正月が2月5日だったので、その前なら大丈夫と、翌2月4日に役所に向った。すると、入籍の手続きをしながら、自分の用意した書類をまじまじと見ていた夫が驚きの声をあげた。件の家の養子となったのも2月4日だったのだ。養子手続きは、その家の人が勝手に進めたので、自分がいつ養子になったのか正確なことはまったく知らなかったのだという。

夫の手違いで2月2日に入籍できなかったことを私は責めてしまったのだが、それは2月4日に入籍するための天のはからいだったのかも知れない。2月4日は、私たちにとって意味のある日にちだったのだ。振り返ると、けっこう大変なこともいろいろあったような気がするが、我が家はいつも幸せな空気に満ちていると思う。夫に出会えたことに今も日々感謝しています。

*我が家の敷地に勝手に入りこむ近所の猫たち。黒猫と三毛猫が仲良くうずくまっている。
cats

孫パワー

私自身は大きな病気にかかったことはないけれど、このところ身体のあちこちに経年劣化現象がみられる。体重増加と運動不足のせいで、今まで普通にできていた動作ができなくなっていて、びっくり。いや、本当に焦る。ヤバイ!!!と思う。

それで数年前からジムに通っているのだが、平日の午後はほぼ私よりも年配の方ばかり。しかし、皆さん、頻繁に通っていらっしゃるだけあって、身体能力は私よりも優れている。そんな先輩方の話は、とても参考になる。

その中でもよく雑談をする方がいるのだが、近隣都市に暮らすお孫さんが中学受験されるというので、この間から経験者の私に話を聞いていらした。「詳しいことは聞いてないけれど、娘の年賀状の一言が不安な心を表わしているようで、心配なのだ」と。そう話しながら、目がうるうる。少し前までは娘さんの一家とわりと頻繁に会っていらしたのに、受験前の一年は塾の勉強で忙しく、ほとんど会えてないらしい。

そして先日、ジムに行くと、お孫さんが第一志望に合格したことをその方が報告してくださった。お祝の言葉を述べていると、すでにその方の目がうるうる・・・。孫のこととなると、こんなに感激するのだなぁとしみじみ。

そういえば亡き母も、息子の受験のことなどを気にしていたなぁと思い出す。母のお導きもあってか、いまこうやって毎日、楽しく学校に通っている息子を見て、母がいちばん喜んでいるのだろうと思う。どうしてなのか、息子はすごくまじめに学校の勉強や行事に打ち込んで、成績も優秀で、親の私がびっくりするくらいなのだ。私は弁当を作る以外はなにもしていないので、これも亡き母のお導きなのか。というか、私がなにもしないのがいいのかな。

息子を見て、亡き母や父を思うきょうこの頃。ほんとうに、子は宝ですね。

瞬間移動装置

前回、この家に暮らすことになった経緯を長々と書いてしまいましたが、この家について運命的と思えることは他にもあります。

今まで暮らしていた賃貸住宅に比べ、この家はずっと広いので、実家の家具等、使えそうなものはこの家に持ってくることにしました。母がいつも座っていたソファや、父が老人ホームに移った際に購入した椅子を始め、たくさんのものを運びました。中でも実家のダイニングの壁面の下半分を覆っていたキャビネットが、我が家のダイニングにぴったりと収まりました。我が家を訪ねた人たちが、この部屋にもともと取り付けられたものだと思うほど。

それから・・・今までは和室がなかったのですが、この家にはりっぱな和室があるので、実家の仏壇も持ってきました。すると、これまたぴったりと収まるではないですか。私の両親はお寺の熱心な檀徒で、母は元気な頃は朝晩、仏壇の前で読経していました。私も両親が病院や老人ホームに移ったあと、実家に帰るたび、母に代わって仏壇に手を合わせていましたが、今ではこの和室で毎朝、仏壇に手を合わせるようになりました。

すると、なんとも心が落ち着くのです。まるで、実家に帰ったのかと錯覚するほど。そして部屋を見回してよくよく考えてみると、この和室の造りや方角が実家の和室とまったく同じであることに気づきました。どちらも西側に窓があり、北側に床の間と仏壇、そして押入れが並んでいるのです。同じ造りの和室に、仏壇を始め実家にあったものを配置したのですから、実家にいるような気分になるのも当然です。

お陰で私は、故郷から遠く離れたこの家で、まるで両親が暮らしていた実家にいるかのように日々を過ごしています。懐かしくて、なんだか守られているような、本当に幸せな気分です。

この和室、私にとっては懐かしい実家への瞬間移動装置となっています。この家と出会えたのも両親のお陰かしら。感謝感謝。

国際宇宙ステーション

中学3年生に進級となった始業式の途中で腹痛を訴え、早退して病院に行ったら、急性虫垂炎ということで即入院・手術となった息子。あんなに病院(注射)嫌いの息子が、自分から病院に行くと言ったのだから、よっぽどの痛みだったのだろうが、術後はあっという間に快復。若いって、いいなぁ。

きょうは夕方、術後の検査に行き、もう何も心配はありませんとお墨付きをもらったら、珍しいことに息子が「タイ料理を食べに行こう」と言う。和食大好きで、辛いものは苦手なくせに、いったいどうしたということか。ま、私にタイ料理に付き合わされると、辛くない「おかゆ」を頼むのが常なのだが、今夜はなんと自らトムヤムクンを頼もうと言い出した。なんだか、成長しているなぁ。

家の前でふと夜空を見上げると、星がけっこうよく見える。昨年末に今までで一番、街中に引っ越したのだが、実は近くに神社などの広い緑地があるために、夜空がきれいに見えるのだ。思わず星空に見とれていたら、飛行機の赤いランプの横で動いている星のようなものを発見。かなりスピードが速い。そして、しばらくすると消えていった。あれ、もしかして国際宇宙ステーション? 息子と時刻を確認して、帰宅後、調べてみたら、本当にそうだった。

山の集落に住んでいた頃、小学校の屋上での天文教室で偶然、ソユーズとドッキング直前の国際宇宙ステーションを目撃したことがあるが、今回はあのときよりもはっきり見えた気がする。息子とふたり、なんだかとってもラッキーな気分になった。

*きょうは比叡山延暦寺で上宮太子講式という法要を見てきました。天気に恵まれ、これまたラッキーな気分!
taishiko

今のところ大正解

ミッション系の学校に入った息子は、その後、どうなったか!?

キリスト教は嫌だと言ってたくせに、入学式での神父様の儀式などを見て、キリスト教に興味津々。宗教の授業や宗教研究会の活動にも熱心で、去年のクリスマスの行事では自ら手を挙げて大役を務めました。なんちゅー手のひら返しや!

学校のことが大好きみたいで、先生方を尊敬していて、どの授業も、どんなくだらない(?)雑談にも熱心に耳を傾けている様子。どうしてこんなにマジメな子になったんだろう!?と親の私が不思議なくらい。今のところ、先生の言うこともすべて真に受けて、素直に従っているようです。親の言うことはきかないくせに。

最初は知っている子もほとんどいないため、通学仲間もいませんでした。いまだに仲良くつるむグループがあるわけでもなさそうなのに、6年間の皆勤賞を目指して、息子は毎朝、元気に登校していきます。入学後、2ヶ月くらい経った頃でしょうか。息子が学校について、こんなことを言いました。

「特に何があったわけでもないのに、毎日、『ああ、きょうも楽しかったな~』と思える」と。

それを聞いて、私は本当に安心するとともに、嬉しくなりました。息子にはこの学校が本当に合っていたのでしょう。

小学校の最終学年は、そりの合わない担任に当ったことで辛い一年だったようなので、その反動で余計に居心地がよかったのかも知れません。尊敬できる先生方に出会ったことが、一番、大きかったのだと思います。滅多に学校のことを話してくれない息子ですが、「先生がこんな話をしてくれた」という報告は時々してくれるのです。それを聞くたび、私も感銘を受け、「ああ、この学校に入れて、よかった!」とつくづく思うのでした。

それは保護者会に参加しても、いつも感じます。先生方のお話を聞いていると、生徒への愛情が感じられるのです。先生方もこの学校のこと、大好きなのだな~と。だから私もあっという間に息子の学校の大ファンになっていました。保護者会で知り合った何人かのお母さん方も、私と同じくこの学校が大好きみたいで、嬉しくなります。第一志望ではなかった方もけっこう多いのですが、みんなこの学校の大ファン。この学校とのご縁は、私にとっても新しい世界を広げてくれるものかも知れません。神に感謝!

by 鳩胸厚子

後日談(母のお導き?)

息子は小3のとき、友人一家に某学校の文化祭に連れて行ってもらったことがきっかけで、その学校に行きたいと言い出した。当時、山の集落の小さな小学校に通っていた息子にとって、都会の中高一貫校は衝撃の世界だったのだと思う。大勢の若者に、多様な部活、きれいな校舎。中でも、以前、テレビで見たぜんじろう先生の理科実験を実際に体験させてもらえたことが息子にとっては感動的だったようだ。

その学校に入りたい一心で、小5から塾に通い始めたのだが、親としては主に塾情報をもとに我が子の学力を見極めながら、複数の受験校を決めることになる。私としては、別の学校の方が息子向きに思えたが、息子はその学校には見向きもしない。受験日も重なっているので併願は無理。息子は本当に自分が行きたい学校のことしか考えておらず、ほかの学校にはまったく興味を示さず、学校見学にすら行こうとしない。

結局、私が塾で開催された併願可能な近隣の学校の説明会に行き、塾の先生の指導もあって、息子もその学校を併願することを了承した。しかし、そのための対策はいっさいしない。彼の頭にあるのは、第一志望の学校だけ。

もちろん、私も息子の願いが実現するよう、精一杯応援していた。息子なりに頑張っている姿を見ていたら、その思いが叶うよう、私も毎日祈るような気持ちだった。私も息子が受かることしか、考えていなかった。

ところが結果は不合格。実は合格発表を見に行く前になって、息子がぽつりと言ったのだ。

算数の試験中に鼻血が出た。

ええ~、なんで今頃言うの~!? 一番大事な算数、ただでさえ時間が足りない算数で鼻血が出たら、たぶんダメなんじゃない・・・!?」と私の頭の中でいろんな思いがよぎり、ドキドキしながら校門を入ると、やはり息子の番号はなかったのだ。

息子があれほど熱望した学校に入れなかったことは、私にとっても悲しいことだった。なんというか、息子がずっと恋焦がれていた女性への思いが通じず、ふられてしまった様子をつぶさに見てしまったような、なんともいえない切ない気持ちになった。

しかし、今だから言えるのだけど、私は息子の第一志望の学校には一抹の不安を覚えていたように思う。だから別の学校を薦めたりしたのだ。(塾の先生も息子はこっち向きだと、別の学校を薦めていたくらいだ。)

結局、息子は躊躇しながら、近隣の併願校に進学した。お寺の世界しか知らなかった息子にとって、ミッション系の学校というのは想定外で、そういう学校には行きたくないと当初は漏らしていたが、塾の先生の話などを聞いて観念(?)したようだ。しかし、私はというと、実は少し喜んでいた。私はミッション系の学校が好きなのだ。キリスト教のことなど、よく知りもしないくせに、私自身、中学からミッション系に通ったから。熱心なお寺の檀徒だった両親に育てられながら、なぜミッション系だったのか。それは私の母が私が通ったミッション系の学校を高く評価していたから。思えば小学生時代の私も息子と同じうように仏教の世界が当たり前だったため、ミッション系の学校には行きたくなかった。それを母が、わざわざ私を説得してミッション系の学校に入れたのだ。そして今になって、私はそのことを感謝している。

その後、息子が入学を決めたミッション系の学校の校舎に初めて足を踏み入れたとき、私はなぜか懐かしい気持ちになった。ミッション系の学校の雰囲気というのは、どこも似ているのかも知れない。男子校であるにも関わらず、懐かしい場所に帰ってきたような気がして、そのとき確信した。母がここに導いてくれたのだと。

息子は第一志望の受験日に相当、テンパっていたのだろうが、私はいま彼にこう言っている。

ばあちゃんがお前に鼻血を出させたのかも知れないね。こっちの学校に行きなさいって。

by 鳩胸厚子

共感ー亡き父を偲んで

年明けに父が亡くなったあと、いろいろな手続きをした。3年半前に母が亡くなったときの経験があるので、特に戸惑うこともなく、わりとスムーズにことは進んだ。(といっても、すべて終えたわけではないのだけど。)

中でも、かんぽ保険は、広島に行かず、こちらの郵便局で手続きできるので助かった。近所の郵便局に2回、足を運んだが、たいして時間はとられなかった。最初に行ったときは、私より少し若そうな男性職員が対応してくれた。てきぱきしていたが、わずかに慇懃無礼な態度と口臭が感じられて、不快だった。

二回目に訪れたら、今度は私より年上と思われる女性職員が対応してくれた。最近はけっこう年配でも勤められるのだな~と思いつつ、彼女の動きや口調から、「これは、かなり時間がかかりそう・・・」と不安になった。「まだ、あのちょっと嫌な感じの男性職員の方がよかったな~」と、心の中でため息をつきながら待つことに。

やがて、他の職員さんに確認しながら手続きを進めていたその年配女性に、名前を呼ばれた。思ったほど、時間は経っていなかった。彼女はまず、「お父様ですか?」と、お悔やみの言葉を述べてくれた。そして、「大正2年生まれとは、私の父と同じです。長生きされましたね」と言ってくれた。
「そうなんです、100歳の大往生で・・・。そちらのお父様は?」
「うちは数年前に亡くなったんですよ。」
「それでも長生きされましたね。」
などと、しばし雑談。父は入院や手術を一度も経験することなく、自然に亡くなったことも話してしまった。その方も、「うちの父も老人ホームに入って、元気だったんですけど、認知症で暴れたりして、大変なこともありました」と言いながら、「それでも、長生きしてくれてよかったですけどね」と微笑んでいた。なんだか、お互い、気持ちを分かり合えたようで、一瞬、心が温かくなった。

その後、書類を見ながら、その方がまた声をあげた。「お父さんの誕生日、私と一緒です!」
ちょっとした偶然が、さらに共感を高めてくれたようで、ちょっと嬉しかった。

自然な老衰、100歳の大往生ということで、「めでたし、めでたし」と言いながら、実は心の中にぽっかり穴が空いていたのだな~と、そのとき気づいた。何歳だろうが、父がいなくなって寂しい・・・という気持ちを、一瞬でもこの方と共有できて、なんだかほっとしたのだ。

手続きを終えた私は、「きょうはいい日だわ!」と思いながら、郵便局を出た。もう顔も覚えていないけど、彼女のことは一生忘れないと思う。

by 鳩胸厚子

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日常会話で死はタブー?

早いもので、今年もすでに1/3が過ぎてしまいました。
今さらですが、実は年明け早々に父が亡くなりました。100歳の大往生だったので、「こんな風に人生を終えられて羨ましいな~」と感動をもって見送ることができました。このことは別の機会にまた詳しく話すとして、きょうは「死はタブーなのか!?」という話です。

年末に、友人に紹介されたとある方と会う約束をしました。その時点で年明けのスケジュールがお互いにはっきりしなかったので、お正月休みが明けたら連絡しましょうということに。ところが、父が亡くなったことで私からの連絡が遅れてしまい、落ち着いた頃にメールでその旨を書いて詫びたところ、その方から返信があり、結局2月に会うことになりました。それはそれでよかったのですが、その方の返信メールには私の父の訃報について一切、触れてありませんでした。まだ直接会ったことがない方に、父が亡くなったと書いて気まずい思いをさせてしまっただろうか・・・と反省しましたが、その方は霊界に詳しいスピリチュアルな方と聞いていたので、逆に不思議な気もしたのです。もしかしたら、日常的に魂の話をしている人にとって、あの世に旅立つことはたいしたことではないのかも・・・などと考えたりしました。

それから、昔、暮らしていた山の集落の友達に久々にメールをしたときのこと。街に引っ越してからも、彼女とは時々会って、お喋りをして、互いの近況報告などをしていました。私が遠距離介護をしていたことはもちろん、母が亡くなるまでの経緯や、老人ホームの父の様子なども、会うたびに話していました。彼女も周りにお年寄りが多い環境で暮らしている上、いまは医療機関に勤務しているので、そういう話題をよく語り合ってきました。今回は久々に連絡事項があってメールをしたのですが、そこに「年明けに父が亡くなってバタバタしていました」という一文も入れておきました。すぐに返信メールが届きましたが、父については一言も触れてありませんでした。

前述のスピリチュアルな方は、2月にお会いしましたが、とてもすてきな方でした。山の友達も、近所の高齢者のことも心配してあげるような優しい人です。だからこそ、どうして父が亡くなったことについて一言も触れないのか、解せないでいます。単に見落としたのか!? 私の書き方が変だったのか!? なんと言葉をかけていいか、わからなかったのか!?

3月になって、ご近所のママ友たちと久しぶりに集まる機会がありました。私がここに越してきてすぐにお話をするようになった同じ町内の同級生のお母さん方です。以前は定期的に集まってお喋りしていましたが、子供たちが中学生になってからはそういうこともなくなっていたので、本当に久々にみんなで顔を合わせました。帰り際にその中のひとりとふたりきりで話す時間があったので、父が亡くなったことを伝えました。私が毎月のように広島に帰っていたのをご存知の方だったので、報告の意味でさらっと伝えたつもりです。けれど、彼女から言葉はありませんでした。その場で固まっていたのかも知れません!?

その後、別の近所のママ友とメールのやりとりをしたときも、一切、なんの反応もありませんでした。今までお互いの個人的な事情はけっこう話して、知っていたはずなのに。

もちろん、温かい言葉をかけてくれたり、お花を持ってきてくれたママ友たちもいます。反応の違いは単に親密度の違いなのかも知れません。とはいえ、親密度に関わらず、ご身内にご不幸があったと聞いた際には、お悔やみの言葉を述べるなり、何らかの反応をするのではないかな~とも思うのです。常識も教養も思いやりもある方々だと思っていただけに、いまだに解せない。日常生活の中で予期しないときに、「死」に反応する心の準備ができていないだけなのでしょうか。

日常会話で「死」の話題はタブーなのね・・・と改めて感じています。