母の旅立ち

昨日、病室を出るとき最後に私が母にかけた言葉は、「ぐっすり寝てね」。この間までしんどくて、夜もあまり眠れない日が続いていたと言うから。そして、私の言葉通り、母はぐっすり眠ってしまった。

病院から電話がかかったのは、金曜日の深夜近く。時計が零時を回ってから、母は永遠の眠りについた。一足先に病院に着いていた友人が、葬儀屋さんに電話をしてくれた。前々から母は下見をした上で、こじんまりした近所のホールで家族葬をしてほしいと彼女に伝えていたのだ。

うまい具合に母の希望のホールが空いていて、家族3人、母と一緒にそこで朝まで過ごした。これまた母の希望通り、夫が枕経をあげてくれた。不思議と涙はまったく出ない。今までの経過をずって見ていたら、これが自然の成り行きだと納得できたからだろうか。

朝になって、ホールの支配人さんがいらして、葬儀の相談が始まった。何から何まで準備されていて、こちらは殆ど何もしなくていいシステムだ。しかも、こちらの気持ちを考えて、本当に親切な対応をしてくださる。これは支配人さんの人柄に拠るところが大きいのかも。

映画『おくりびと』は見ていないけど、湯棺と化粧をしてもらって、母は生前より(!?)美人になった。若くてやさしい女性スタッフに、こんなにきれいにしていただいてありがたい…と思っていたら、あとで夫が「あの人の腕には根性焼きの痕があった!」と妙に感心していた。

病院の方々もそうだけど、ホールのスタッフの方々にも感謝してもしきれない気持ち。世の中には、こんなに大切な仕事があるのだなぁ…としみじみ思う。

*母は瀬戸内海沿岸で生涯を過ごしたのだった。
DSC01849

母との最後の時間 

昨日、帰ろうとしたときも、母は気がついたのか手をあげて、何か言いたそうにしているように見えた。やはり声はしっかり聞こえているのだろうか。

このところずっと、病院の近所に住む友人が朝一番に母の病室に行って、メールで様子を知らせてくれる。実家のある隣市から私たちが到着しても、しばらく彼女は一緒にいてくれる。彼女はこの20年近く、両親ともっとも長い時間を共に過ごしてくれた人だ。

何日も熟睡できず疲れているせいか、きょうのお昼はものすご~くお腹がすいて、肉をしっかり食べたくなり、近くのレストランに行ってしまった。息子もステーキを頼んでいる!

午後は、夫と息子には父の様子を見に行ってもらい、私は再び母の元へ。友人もパートの時刻まで病室に残り、しばらくお喋り。母はすでに喋ってはくれないが、彼女のグチをいつも通り、聞いてくれているのだろう。

彼女が去ったあとも、面会終了時刻まで病室で母とふたりきりで時間を過ごした。途中、先生が「ずっと病室にいると、精神的にも肉体的にも疲れるから、無理しないでいいですよ」と声をかけてくださった。

母はどんなに頑張っても、この夏いっぱいかな~という予感があったので、私自身はこの夏いっぱい母に付き合う覚悟はできていた。母も、夏休みいっぱい私たちと過ごしたくて、ギリギリまで頑張ってくれているのかも。こうやって最後の時間をたくさん過ごせて幸せだと思う。

DSC01810

小康状態の母

昨日は母方の祖母の月命日だったので、もしかしてそれに合わせて…と心配していたが、母は今も小康状態。様子を見に来てくれた従姉が、四年前に他界した彼女の母親の姿にどんどん重なってくると悲しそうな顔をした。亡き伯母と母は、姉妹の中でも年齢や住所が一番近く、仲がよかったのだ。性格と顔はさほど似ていなかったのに、同じような骨格をしているのか、やせ衰えた母の顔は、最後に見た伯母の顔にそっくりになってきた。

夕方、家に戻ると、ただひとりだけ残っている母の姉に電話で報告。遠方に暮らすこの伯母は、高齢のため、母に会いたくても会いに行けないと、毎度、電話口で泣いてくれる。ただでさえ、心細い一人暮らしで、自分の胸のうちを聞いてくれる人がそばにいないため、延々ととりとめのない話が続いていく…。困ったなぁと思いながらも、これもまた私の務めと思って傾聴する。伯母のグチだって、生きてるうちしか聞けないんだし。

夫と私は、風呂上りのビールも飲めず、眠いのになかなか眠れない。

DSC01619

母の復活(生き返った!)

昨日の午後9時半頃、お風呂から上がったと思ったら、夫が私の携帯で喋っていた。病院から母の容態が急変したとの連絡だ。急いで夫とふたりで病院へ向かっていたら、またも病院から、「状態が落ち着きましたが、一応、来てください」との電話。

行ってみると、当直の先生から母の心臓と呼吸が3分間、止まったと言われた。ところが、ペースメーカーが心臓マッサージの役目を果たし(?)、再び心臓が動き始めたらしい。こうなると、もう長くないのはわかっているけど、予測がつかないようだ。

病室に行くと、昼間と同じ状態で母が眠っている。一足先に到着していた近所の友人と3人で、母のベッドを囲んで、しばらく様子を見ることにした。「去年、入院したばかりの頃はこうだったね、ああだったね」などと、ついつい思い出話に盛り上がったのだが、その話に時々、母が反応している(?)様子が見受けられ、「ちゃんと聞こえとるんかね」と話し合っていた。特に、食べ物や父の話題になると、顔が動くのだ。

深夜、病室を離れ、今朝、再び病院に行くと、母は相変わらずの様子。主治医からは、「昨晩は奇跡が起きたんですね」と言われた。とは言え、意識はほぼない状態。…と言われていたのだが、看護士さんが痛みの検査として乳首をつまむ(つねる?)と、「痛い痛い!!」と声がした。いや、これは本当に、よっぽど痛かったのだろう。

おかげで、きょうも一日、母と一緒に過ごすことができた。あまりしんどいなら無理しないで欲しいけど、さすが頑張り屋だけあるなぁと感心している。私も今のうちにと、ときどき、おでこにチュッとしたり、耳元で愛の言葉(?)を囁いたりしている。ありがとう、お母さん!

*完成を心待ちにしているのだが、なかなかできない新しい道路。
DSC01804

父と母の夫婦愛!?

昨日、主治医と話していて、コミュニケーションの難しさを実感。この間、しっかり話を聞いたつもりだったが、どうも私は正確に理解していなかったようだ。それは、おそらく医療従事者と一般人との常識のズレからくるのだろう。(というより、私に常識がなかったせい?)

母には積極的治療や延命治療はしないことは了解の上、もういつどうなっても仕方がないけど、できれば息子の得度式の報告ができれば…ということは伝えていた。先生も、母が得度式を楽しみにしていることはご存知だったので、それまでは意識のある状態で待っていられるように治療を考えるとのことだった。

母があまり辛そうだったら、痛みを緩和する治療をすることもお願いしていたが、私の頭の中ではそれが鎮静剤(麻酔?)によって意識をなくすことであるということが、はっきりわかっていなかった。(本当に辛い状態になると、自然に昏睡状態に陥るのだと思っていた。)私が帰ってくるまで母の意識を保つため、先生はあえてそういう薬を使わなかったのだが、母があまりに辛そうだったので看護士さんからは「どうして薬を使ってあげないのか」という意見まで出たらしい。辛そうにする母を看護する側も大変だったそうだ。それを聞かされて、「あなたのせいでお母さんに長いこと苦痛を与えることになったのよ」と非難されているような気分になり、落ち込んでしまったが、でも母自身に選択させても、きっと同じ道を選んでいたと思う。根が頑張り屋さんだから。

今朝は夫と息子と三人で病室に行き、母に話しかけると、しっかり反応してくれた。ただし、息子が「ばあちゃん、がんばって!」と言っても、もう首を横に振ってたけど。鎮静剤もそんなにすぐに効くわけではなく、朝はけっこう辛そうだったけど、午後にはようやく落ち着いて寝始めたので、やっと老人ホームの父にも会いに行けた。父は熱も下がり、回復したことを電話で聞いていたので、安心はしていたが、実際に会いに行くと、やはり寂しかったのだろう。次から次へと喋っていた。その大半は頭の中の妄想(?)なのだが、いきなり「○○さんはどうか?」と母の様子を聞いてきたので驚いた。スタッフの方も、「今朝から奥さんのことを心配しておられますよ」とおっしゃる。さすが夫婦、母の異変を一番に察知するのは父なのかも知れない。

DSC01802

一秒でも早く母のもとへ

2学期から転校予定の小学校に初めて足を踏み入れた。子どもの数が増えたために校舎も増築され、4年生の教室のひとつは図工室を急遽、教室に替えてあった。教頭先生から、「2学期からの転校生は6人。ここは新興住宅地で、みんな転校生みたいなもんだから、すぐ慣れますよ」と説明された。息子は迷子になりそうな広い校舎を見学して、わくわくしているようだ。

家に帰ると、私はすぐに帰省の準備。新幹線を予約して、お昼のパンを買って電車に乗り込んだ。広島駅に着いたところで病院にいる友人から電話があり、母の具合がどんどん悪くなってるから、とにかく急いで来てほしいとのこと。意識があるうちに、帰っておいでと。

ところが私が病室に入ると、母は顔をあげて、つまった鼻をいじろうとしているではないか。この間は顔を上げることさえ、できなかったのに。私を見ると、「鼻をとって」と声を出した。この間は、単語を発するのがやっとだったのに!

あとで話をきくと、母は日に日に悪くなり、本当につらそうだったらしい。私が帰るのを待って、がんばっていたようで、私には精一杯元気な姿を見せたのだろう。そして安心したのか、その後はだんだんと弱ってきた。

主治医の話を聞いて、急遽、夫と息子も今夜中にこちらに戻ってくることとなった。その時間まで、母のそばで得度式の様子など、いろいろ話すことができたので、私も悔いはなし。あとは少しでも母が楽になるよう祈るだけ。

*新しい学校
DSC01801

母の死に目にあえるだろうか

午後、息子は楽しかった合宿から帰ってきた。
母の調子が悪そうなので不安は募るが、明日の朝、転校手続きをすませてから広島に帰るつもりだ。
高校卒業時に故郷を離れてから、親の死に目にあえない覚悟はしていたけれど、できれば息子の得度の様子を母にきちんと報告できればと思う。

*得度式に来てくれた友人からプレゼントされた
 手作りのリース。
DSC01791

得度式終了

今朝は近県からわざわざ来て下さった友人一家と一緒に、得度式を見るためお山へ向った。場所は昨日と同じ釈迦堂。若い順に並んでいるので、息子の姿はよく見える。足をくずしたり、着物がはだけたり…けっこうメチャクチャ。それでも神妙な面持ちで大きな粗相もなく無事に式は終了。

その後、得度者たちは宿坊までの山道を歩き、大広間での昼食会となった。偉いお坊さんの挨拶の途中で、突然、「もう食べてもいいの?」と大きな声が聞こえた。うっ、あれはうちの息子だ! 食事が始まってからも、「めんつゆ、うめ~!」などと息子の声がしょっちゅう聞こえる。うう、普段の学校給食と変わらない…。

それでもお堂でしっかりとばあちゃんのためにお祈りもしてくれたというので、一安心。これでちょっと肩の荷が下りた。しかし、あの荘厳さをかき消す息子のあっけらかんとした声。感動を笑いに変えてくれたのは、よかったのか悪かったのか。

DSC01753

DSC01783

釈迦堂

昨日の帰りの新幹線は立っている人も大勢いるほどの混雑だった。「混んでますねぇ」と話しかけてきた隣の年配女性が、娘さんの結婚式場の下見に行ってきたことを嬉しそうに報告してくださった。それを聞きながら、私も結婚して孫の顔を両親に見せることができて、本当によかったとしみじみ。あんまり親孝行な娘ではなかったけれど、孫がすべてを帳消しにしてくれたかも。

そして、その「孫」がきょう得度のためにお山に行った。息子が夫に連れられて宿泊所で準備をしている間、私は釈迦堂の前で時間を過ごした。お釈迦様の大きな絵物語を読んでいたら、悟りを求めて苦行をするお釈迦様の姿に母の姿が重なって、涙が出てきた。母はいま仏様になるための道を辿っているのだ。

まもなく白衣姿の得度者たちがお堂に入った。先頭を歩く息子の姿に、母もきっと病床で喜んでいるだろうと思う。この場所で、いまこの時間を過ごしていることを心からありがたいと思う。山を渡る風の清らかなこと!

*行ってらっしゃ~い!
DSC01728

*釈迦堂
DSC01731

DSC01739

孫の得度を待つ母は…

息子は得度式のため、明日から泊り込みなので、きょうの夕方3人で自宅に戻る予定だが、両親の具合によっては私がこちらに残るべきだろうか…と考えていた。今朝一番で父の様子を見に行くと、微熱程度となり、おかゆもしっかり食べ、夜も自分でトイレに立っていたという。ベッドのそばで話していたら、目を開けて起きようとしたので、「ゆっくり休んで」というと、「な~に、一日中、寝とったのに!」と言うほど回復していた。これなら大丈夫そう…!

息子は塾に行き、その間、私と夫は母のもとへ。お昼まで一緒に過ごし、主治医の先生とお話してから、予定通り自宅に帰ることにした。何かあれば、すぐに先生が連絡してくださるはずだ。

「命のともしびが少しずつ小さくなっていく感じですね」と先生に話したら、「本当にそうですね。今は気力でがんばってらっしゃるように思います。先週を乗り越えられたのが不思議なくらい。『20日が大切な日なんですよね?』と言うと、うなづいていらっしゃいましたし」とのこと。やはり孫の得度を見届けたいという気持ちが強いのだ。

塾帰りの息子が「得度して、合宿に行って、転校手続きして帰ってくるから、それまで待っててね」と母に声をかけた。もしかしてこれが最後になったらどうしよう…と思うと離れ難いのだが、いよいよ立ち去る私たちに母が最後の力を振り絞るように顔を上げて手を振ってくれた。

*駅前の消防署で訓練中。命を守る仕事は、どれも大変!
DSC01719