六四天安門事件の思い出(あれから30年)

30年前のきょう、私は東京・丸の内の英国系企業に勤務していた。香港に大きな拠点のある企業だったので、天安門事件後はチャイナリスクの影響をもろに被り、資金調達が容易にできなくなって大変だった。当時のボスは、カナダへの移住を目指していた香港人だった。彼にとって事件の衝撃は計り知れないほど大きかったと思う。その後、彼は毎日のように昼休みになると香港人の仲間と連れ立って、中国大使館前で抗議活動を行っていたようだ。

その年の秋、私は以前からの計画通り、その会社を辞めてパリに留学した。フランスのグランゼコールに新たに設置された英語で学べるMBAコースだったが、クラスには民主化運動をしていたらしい中国人の学生が2名いた。徐々に親しくなって話を聞くと、「詳しいことは言えないが、多くの人の助けにより、香港経由でここまで逃げ延びたのだ」という。あとでわかったのだが、クラスの大金持ちのエリートフランス人が、無償で住居を提供していたようだ。MBAコースの学費はかなり高額で、私はそれまで何年もかけて貯めたお金を使い果たしたのだが、彼らの学費は誰が払ったのか、私は知らない。しかし、こういう点に関して、フランスはとても懐が深い国だと思う。ラジオで中国民主化の特集番組を長時間やっているのを聞いたことがあるし、そもそもベトナム難民として渡ってきたと思われる人たちもパリではたくさん見かけたし、クラスには(国から逃げてきたと思われる)パーレビ王朝派のイラン人や、レバノン人、ラオス人もいた。特に政治難民には寛容な国なのだろう。

当時、カルチェラタンに「中国民主之家」という看板を掲げたアパルトマンがあり、そこが中国人クラスメイトたちの活動拠点だったらしい。その頃、パリのメトロで私は中国の民主化運動のリーダー的存在だったウーアルカイシ(ウルケシ)を見かけたことがあった。応援の言葉をかけたかったが、報道で見た姿よりもだいぶ太って、おしゃれなレザージャケットを着込んで、ガールフレンドらしき女の子といちゃついていたので、私はそのまま立ち去った。あとでクラスメートにその話をすると、「あいつは堕落した」と吐き捨てるように言ったのが忘れられない。

その彼が、卒業後、東京に出張でやって来た際に、再会を果たした。彼は、「フランス企業に就職し、アジア各地を廻っているが、まだパスポートがないので(おそらく政治亡命を申請中だったのだろう)、代わりの分厚い書類を持ち歩いている」と苦笑いしていた。そして、「シンガポール、台湾、香港、日本にはこうやって来れるのに、中国には二度と帰れないだろう」とも。「ウーアルカイシほどの有名人なら、帰国してもその動静を国際社会が注視するが、僕のような無名の活動家は帰国すれば、即逮捕され、処刑されて終わりだ」と。北京の大学で学んでいた彼だが、実は四川省の出身で、夏は暑く冬は寒いのに、エアコンもない家で母は暮らしていると話していた。その母に、二度と会うことはないだろうと。

その時の彼の、遠くを見つめるような、それでいて怖いほどに鋭い眼差しにドキリとしたことを思い出す。いったい彼は、それまでに何を見てきたのだろうかと。同世代の同じアジア人でありながら、こうも違う運命を生きているとは。中国人であることは、なんと過酷なことなのだろうかと、この時も、そしてその後、中国に太極拳留学した時も思ったものだ。

つくづく、日本は本当にいい国だ。

その後、音信不通になってしまったウーハイ。また会えることを願っている。

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