大久野島の毒ガス工場

今朝もまた「きょうは長崎原爆記念日です」という町内放送が聞こえた。思えば、父も母も含め、あの戦争を生き延びてきた人たちというのは幸運に恵まれて、何かの力で生かされているのかも知れない。

何気なくテレビをつけたら、NHKのETV特集で『カルテだけが遺された~毒ガス被害と向き合った医師の闘い~』という番組をやっていた。戦争中、大久野島の毒ガス工場に勤務して、その後、呼吸器に障害を負った人たちの治療をひとりで続けた故・行武医師のドキュメンタリーだ。根本的な治療法もない中で、行武医師は患者の治療だけでなく、患者への医療手当を政府に訴え、イランの毒ガス患者治療の支援も行っていた。長年のカルテに書き込んだ患者の心の叫びをまとめる作業にも着手したが、それが完成しないまま、この春、肺がんで世を去った。番組では、ベッドの上で娘さんに口頭で作業を指示している医師の姿も映された。残りの作業は、家族の方が引き継いでおられるようだ。

実は私の母も学徒動員で大久野島の毒ガス工場に通ったひとり。長年、行武先生にお世話になった。母にとって忠海病院に定期健診で通う日は、懐かしい同級生にも会える日だったが、そのうち母の体調が思わしくなくなり、行武先生が健診に来なくても大丈夫なように(手当の申請のためにも健診が必要だったようだが)配慮して手続きをしてくださった。

なのに、その先生の方が先に亡くなってしまったのだ、母は訃報に驚いていた。先生は母とほぼ同年代だったのだ。

今回、テレビで私は初めて先生の姿を拝見した。昔は、なんでわざわざ忠海まで母は通わなくちゃいけないんだろう、もっと近くの病院で治療してくれたらいいのに、と思っていたけど、この番組を見て初めて知った。毒ガス患者を専門に診てくれたのは、行武先生だけだったのだ。毒ガス患者の話を真摯に聞いて、彼らのために動いてくれたのは行武先生だけだったのだ。

私が子供の頃から、母は気管が悪くて、日常的に鼻をつまらせ、痰を出していた。見ていて嫌になるくらい、ひどかった。不思議なことに、17年前の心筋梗塞で大手術をしたら、なぜか気管の症状がおさまった。今も理由はわからないけど、ふつうに呼吸ができるようになり、母もだいぶ楽になったはずだ。

母にたくさんの病気があるのは生活習慣のせいもあるだろうし、母自身も毒ガスや放射能のせいだと言ったことはない。昔話はたくさん聞いたけど、毒ガス工場に関しては当時、一学生に過ぎなかった母が知っていたことはほんのわずか。今夜の番組を見て、初めて知ることがたくさんあった。

行武先生の孤軍奮闘ぶりに感動しながら、こういったさまざまな人たちに助けられて、母は生かされているのだなぁと改めて思った。それは私も同じ。

大久野島にもいつか行ってみなくちゃ。行武先生のご冥福をお祈りします。

9aug09

“大久野島の毒ガス工場” への3件の返信

  1. 大変ご無沙汰していました。
    実は私の母も、戦争中に同じく学徒動員で大久野島に行っていました。
    今年79歳ですが、ひょっとしたら厚子さんのお母様と一緒に働いていたかもしれませんね。
    昨年の夏に、大久野島をたずねました。母は飄々としていましたが、いろいろと考えることがあったようです。

  2. ほんとですかぁ?
    うちの母は今年の1月で78歳になったので、ひよりなぎさんのお母様(昭和5年生まれ?)と同じ学年かしら?
    もしかして忠海女学校?
    だとすれば、同級生。とすれば、絶対知り合いですよね。本名をきいたら、すぐにわかったりして・・・!??

  3. ひよりなぎさん、
    もしお母様がうちの母と同級生で、さしつかえないようなら、下記に連絡してくださいね。
    (a_hatomune☆livedoor.com)

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