インフルエンザではなかったけど

昨日の小児科で、「明朝もまだ39度くらいの熱があったら、もう一度来てください」と言われていたのだが、やはり今朝も熱は高い。息子は何が嫌って、インフルエンザの検査が大嫌いなのだが、さすがに今朝は観念して素直に小児科に来てくれた。

前回のインフルエンザ検査がトラウマとなっていたのだが、ここの先生は一瞬のうちに鼻の奥まで検査棒(?)をつっこんでくれたので、「あっ…くしゃみが出そう」、「はい、どうぞ、してください」で終わってしまった。

そして待合室で検査結果を待っていたら、なんとまた会ってしまったのだ。お向かいの奥さんと。娘さんがおたふく風邪らしい。なぜかご縁があるようで…。

ちなみに息子はインフルエンザではありませんでした。

*広島の田舎でみつけたレトロな牛乳屋さん。
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発熱

昨日は夕方、車(しかも軽)で広島を出発したため、自宅に着いたのは午後11時。明け方3時に大量の鼻血を出した息子は、朝になると体温が39度近い。先週から少し風邪っぽかったらしい。何度も広島を往復した夏の疲れもたまっているだろうし、二学期に転校してからも緊張が続いていただろうし、いきなりの片道20分通学や運動会などで体力も使っていたのだろう。私も疲れているのをいいことに、きょうは昼間からふたりでごろごろ。

しかし夕方になっても熱が下がるどころか、39度5分まで上がってしまい、夕方、近所の小児科に行ってみた。この家から歩いて数分の場所。山の家では考えられなかった便利さだ。初めてのクリニックなのでちょっと不安だったけれど、息子が納得できるよう、ちゃんと説明をしてくださる先生で信頼できそう。待合室にはたくさんの本が置いてあり、貸し出し自由と書いてある。なんと、横田ご夫妻の著書もあり、本棚を眺める限り、私と信条が似ていそう…と、勝手に親近感を覚えてしまった。

そういえば、忌明け法要の食事の席で、何がきっかけだったか、従姉たちが「テレビの報道は絶対おかしい」と言い出したのでビックリした。今まで政治の話などしない人たちだったから。大手メディアは都合の悪い情報は隠し、偏向報道をしていると、多かれ少なかれ一般国民は感じているのだとわかり、私だけじゃなかったんだとほっとした。「テレビを見なくなった」と言う人は、私の周りでも増えている。

きょうはテレビを消して、久しぶりに息子と寝ることにします!

*故郷の空はいつも青い!
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母の主治医へのお礼状

この間から少しずつお礼状を書いている。一気に書ければいいのだけど、慣れないことは時間がかかる。きょうはやっと、母がお世話になった歴代の(!?)主治医の先生方への礼状を書き終えた。18年前の急性心筋梗塞以降の主だった先生方だけで、6名。

1992年、バルセロナ・オリンピックの開会式を見て、「すごかったわ~」と電話で話してくれた母が、その翌日に病院に運ばれた。父からの「もうダメらしい」という留守電を聞いて、慌てて東京から広島に戻ったら、「血管も詰まっているし、心臓の真ん中の壁にも穴が開いているし、打つ手はない」と説明を受けた。けれどICUでいろんな機器につながれている母は、しっかり意識もあって、自分がそんな状況とも知らず、普通に喋っていた。だから、葬儀はどうしたらいいんだろう…などと相談していた私と父も、母の前では普通にオリンピックの話をしていたのだ。冷たくて黄色くなってきた母の足を触って、あと何日もつんだろうか…と思いながら。

ICUの横に畳の家族控え室があり、私たちの他にも二家族くらいが待機していらしただろうか。確か、火事で大やけどを負った患者さんがいらしたのだ。部屋では誰も喋る者はなく、たまに電話が鳴ると、みんなドキリとする。患者に異変があったときなどに呼び出されるのだ。

夕方に私と父は、「今すぐどうこうはないですから、きょうはお家に帰って休んでください。何かあれば、すぐにお家に電話しますから」と言われ帰宅した。自宅は病院の近所だったので、すぐに駆けつけられるという気持ちもあったし、何よりあの重苦しい控え室から抜け出せて、ほっとした。

と思ったら、夕飯後に病院から電話が入った。ドキドキしながら話を聞くと、今までとは違う医師が「今から緊急手術をすれば、まだ助かる可能性があると思います。すぐに準備を始めますが、輸血用にお母さんと同じAB型の人を、できたら10人ちょっと集めてください」とのこと。うちは父も私もAB型だが、とにかく大急ぎで親戚や仕事関係の人などに電話をかけて、夜中までに10人以上が集まった。ただし、父は高齢すぎて輸血メンバーから外された。私は血縁者で若かったため、一番たくさん採ってもらった。夜中にも関わらず、急いで集まってくださった皆さんには、なんとお礼を言っていいかわからなかった。もちろん、一睡もせず翌朝までかけて手術を敢行した医師や看護士の方々にも。

手術後の報告を執刀医がしてくださったのは、翌朝の7時か8時くらいだったろうか。その夜は私も手術室前の廊下の椅子で明かしたのだが、はて、誰が一緒にいてくれたのか…はっきり思い出せない。手術は無事に成功。心臓の壁の穴を塞ぎ、詰まった血管のバイパス手術もできたとのこと。心臓は筋肉の塊で、本来なら硬いのだが、母の心臓は豆腐のように柔らかくなっていたらしい。しかも2/3は壊死状態。そんな説明をしてくださる先生は、私に対して母のことを「おばあさん」と言う。父が母より20歳近く年上で、かなりの高齢のため、先生は私を「孫」と勘違いしていたのだ。最初の切羽詰っていたときに、「おばあさん」を訂正できなかったことを悔いたけど、すでに遅し。けれど、最初に対応してくださった心臓内科の先生から、手術を担当したこの心臓外科の先生に主治医が交代し、やがて先生にも私が「娘」であることが明らかとなった。

ところで、母が突然入院したとき、私は東京で転職したばかりだった。最初は助からないと聞いていたから、「葬儀が終わったら戻りますから」とお休みをもらったものの、一命をとりとめ、これから看病が必要な入院生活が続くこととなり、私は悩んだ末に職を失うことも覚悟して、社長にお伺いをたてた。「本当にずうずうしいお願いなんですが、しばらくの間、在宅勤務という形をとらせてもらえませんか?」

それまで勤務していた外資系証券会社であったら、おそらく有休を使い果たして、退職せざるを得なかったと思う。ところが、転職先はワンマン社長の中規模(?)出版社だったため、事情を聞いた社長の「いいよ」の一言で話は決まった。それで、まだ業界のこともわからない新入りスタッフの私が、広島の実家でFAXをやりとりしながら勤務することになった。お陰で2ヶ月近く、毎日病院に通って母の看病もすることができた。

退院のメドがついて東京に戻ったとき、社長にお礼を言いに行ったら、「俺は情深くて、OKしたわけじゃないよ。お前が単行本のセクションだからOKしただけ。雑誌のセクションだったら認めてないよ」と軽く言われた。恩着せがましくない社長の男前ぶりに、心の中で泣きながらお礼を言ったことは忘れられない。

思えば、本当にたくさんの人のお世話になったのだ。手術の決断をしてくださった主治医はもちろんのこと、ICUの看護士さんたちの仕事ぶりも感動モノだった。母が元気になったとき、せめてものお礼にとチョコの詰め合わせを持って行ったら、「病院の規則で受け取れません」と言われたのに、どうしても気持ちがおさまらず、「ほんとに感謝しているので、ほんとに小さなチョコなんで…」と泣きながら、無理やり受け取らせた記憶がある。

先生方への礼状を書きながら記憶を辿っていたら、名前も住所も知らない方を含め、感謝すべき方があまりにもたくさんいることに改めて気づかされた。人間、本当にひとりでは生きていけないのだ。

この感謝の気持ちを忘れないように…と言い聞かせる。(しょっちゅう忘れるんだけどね。)

*きょうの夕方は京都。
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夜の散歩

さすがに朝晩は涼しくなってきた。
デブは罪…と言っていた私に、夕飯後、夫が「学校まで歩いてこよう」と声をかけた。ええ~!?と思ったけど、これまでの自分の言動を振り返って断るわけにもいかず、しぶしぶ出かけることに。息子はさっさとお風呂に入って、自室で大好きな本を読んでいる。

外に出ると、風もそよいで、かなり気持ちいい。息子の登校ルートをたどりながら、周囲の住宅拝見。比較的新しくて、個性的な家が多く、見ていて飽きない。

この時間に犬の散歩やウォーキングをしている人も時折目につく。公園では高校生のカップルも! 

山の家ではなかなかできなかったお散歩。(この夏は熊が出たため、夜間に出歩かないようビラが配布されていた!) これから習慣となるでしょうか…!?

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でぶっちょは罪

日曜の朝を家族3人でのんびり過ごした。のどかで平和だ。
明日一日でおおまかな事務手続きを終えるため、私は今夜中に広島に行くことを決め、午後から3人で買い物を兼ねて京都駅へ。

ちょっと早めの夕食をとろうとカジュアルな雰囲気に見えたレストランに入ったのだが、さすが京都駅だけあって、お勘定をしてみるとけっこう高かった。ま、たまにはいいか。

明日の朝食用に大好きなアンデルセンのパンを買って、夫と息子と別れ、ひとりで新幹線に乗り込んだ。私の隣の席にはすでに先客あり。私よりデブな中年男性が、靴を脱いで携帯をいじってる。

もしや足が臭かったら…と心配したけど、これはセーフ。でも、でかい体がはみ出してるので、私は反対側に寄って小さくなる。(つーても、私もデブだから多少無理がある。)おっさんの太い腕の肉が私の領域まで、せりだしてるんだよね~。しかも悪いことに、おっさんがその場で携帯電話で小声で話す内容からして、私と同じ広島まで行くらしい。

京都から広島まで、無理して小さくなっていたもんだから、体が痛くなってしまった。デブって迷惑…。(と自分にも言い聞かせる。)

*京都駅のレストランで。息子は「ぬらりひょんの孫」を貪り読む。
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小康状態の母

昨日は母方の祖母の月命日だったので、もしかしてそれに合わせて…と心配していたが、母は今も小康状態。様子を見に来てくれた従姉が、四年前に他界した彼女の母親の姿にどんどん重なってくると悲しそうな顔をした。亡き伯母と母は、姉妹の中でも年齢や住所が一番近く、仲がよかったのだ。性格と顔はさほど似ていなかったのに、同じような骨格をしているのか、やせ衰えた母の顔は、最後に見た伯母の顔にそっくりになってきた。

夕方、家に戻ると、ただひとりだけ残っている母の姉に電話で報告。遠方に暮らすこの伯母は、高齢のため、母に会いたくても会いに行けないと、毎度、電話口で泣いてくれる。ただでさえ、心細い一人暮らしで、自分の胸のうちを聞いてくれる人がそばにいないため、延々ととりとめのない話が続いていく…。困ったなぁと思いながらも、これもまた私の務めと思って傾聴する。伯母のグチだって、生きてるうちしか聞けないんだし。

夫と私は、風呂上りのビールも飲めず、眠いのになかなか眠れない。

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母の復活(生き返った!)

昨日の午後9時半頃、お風呂から上がったと思ったら、夫が私の携帯で喋っていた。病院から母の容態が急変したとの連絡だ。急いで夫とふたりで病院へ向かっていたら、またも病院から、「状態が落ち着きましたが、一応、来てください」との電話。

行ってみると、当直の先生から母の心臓と呼吸が3分間、止まったと言われた。ところが、ペースメーカーが心臓マッサージの役目を果たし(?)、再び心臓が動き始めたらしい。こうなると、もう長くないのはわかっているけど、予測がつかないようだ。

病室に行くと、昼間と同じ状態で母が眠っている。一足先に到着していた近所の友人と3人で、母のベッドを囲んで、しばらく様子を見ることにした。「去年、入院したばかりの頃はこうだったね、ああだったね」などと、ついつい思い出話に盛り上がったのだが、その話に時々、母が反応している(?)様子が見受けられ、「ちゃんと聞こえとるんかね」と話し合っていた。特に、食べ物や父の話題になると、顔が動くのだ。

深夜、病室を離れ、今朝、再び病院に行くと、母は相変わらずの様子。主治医からは、「昨晩は奇跡が起きたんですね」と言われた。とは言え、意識はほぼない状態。…と言われていたのだが、看護士さんが痛みの検査として乳首をつまむ(つねる?)と、「痛い痛い!!」と声がした。いや、これは本当に、よっぽど痛かったのだろう。

おかげで、きょうも一日、母と一緒に過ごすことができた。あまりしんどいなら無理しないで欲しいけど、さすが頑張り屋だけあるなぁと感心している。私も今のうちにと、ときどき、おでこにチュッとしたり、耳元で愛の言葉(?)を囁いたりしている。ありがとう、お母さん!

*完成を心待ちにしているのだが、なかなかできない新しい道路。
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父と母の夫婦愛!?

昨日、主治医と話していて、コミュニケーションの難しさを実感。この間、しっかり話を聞いたつもりだったが、どうも私は正確に理解していなかったようだ。それは、おそらく医療従事者と一般人との常識のズレからくるのだろう。(というより、私に常識がなかったせい?)

母には積極的治療や延命治療はしないことは了解の上、もういつどうなっても仕方がないけど、できれば息子の得度式の報告ができれば…ということは伝えていた。先生も、母が得度式を楽しみにしていることはご存知だったので、それまでは意識のある状態で待っていられるように治療を考えるとのことだった。

母があまり辛そうだったら、痛みを緩和する治療をすることもお願いしていたが、私の頭の中ではそれが鎮静剤(麻酔?)によって意識をなくすことであるということが、はっきりわかっていなかった。(本当に辛い状態になると、自然に昏睡状態に陥るのだと思っていた。)私が帰ってくるまで母の意識を保つため、先生はあえてそういう薬を使わなかったのだが、母があまりに辛そうだったので看護士さんからは「どうして薬を使ってあげないのか」という意見まで出たらしい。辛そうにする母を看護する側も大変だったそうだ。それを聞かされて、「あなたのせいでお母さんに長いこと苦痛を与えることになったのよ」と非難されているような気分になり、落ち込んでしまったが、でも母自身に選択させても、きっと同じ道を選んでいたと思う。根が頑張り屋さんだから。

今朝は夫と息子と三人で病室に行き、母に話しかけると、しっかり反応してくれた。ただし、息子が「ばあちゃん、がんばって!」と言っても、もう首を横に振ってたけど。鎮静剤もそんなにすぐに効くわけではなく、朝はけっこう辛そうだったけど、午後にはようやく落ち着いて寝始めたので、やっと老人ホームの父にも会いに行けた。父は熱も下がり、回復したことを電話で聞いていたので、安心はしていたが、実際に会いに行くと、やはり寂しかったのだろう。次から次へと喋っていた。その大半は頭の中の妄想(?)なのだが、いきなり「○○さんはどうか?」と母の様子を聞いてきたので驚いた。スタッフの方も、「今朝から奥さんのことを心配しておられますよ」とおっしゃる。さすが夫婦、母の異変を一番に察知するのは父なのかも知れない。

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一秒でも早く母のもとへ

2学期から転校予定の小学校に初めて足を踏み入れた。子どもの数が増えたために校舎も増築され、4年生の教室のひとつは図工室を急遽、教室に替えてあった。教頭先生から、「2学期からの転校生は6人。ここは新興住宅地で、みんな転校生みたいなもんだから、すぐ慣れますよ」と説明された。息子は迷子になりそうな広い校舎を見学して、わくわくしているようだ。

家に帰ると、私はすぐに帰省の準備。新幹線を予約して、お昼のパンを買って電車に乗り込んだ。広島駅に着いたところで病院にいる友人から電話があり、母の具合がどんどん悪くなってるから、とにかく急いで来てほしいとのこと。意識があるうちに、帰っておいでと。

ところが私が病室に入ると、母は顔をあげて、つまった鼻をいじろうとしているではないか。この間は顔を上げることさえ、できなかったのに。私を見ると、「鼻をとって」と声を出した。この間は、単語を発するのがやっとだったのに!

あとで話をきくと、母は日に日に悪くなり、本当につらそうだったらしい。私が帰るのを待って、がんばっていたようで、私には精一杯元気な姿を見せたのだろう。そして安心したのか、その後はだんだんと弱ってきた。

主治医の話を聞いて、急遽、夫と息子も今夜中にこちらに戻ってくることとなった。その時間まで、母のそばで得度式の様子など、いろいろ話すことができたので、私も悔いはなし。あとは少しでも母が楽になるよう祈るだけ。

*新しい学校
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母の死に目にあえるだろうか

午後、息子は楽しかった合宿から帰ってきた。
母の調子が悪そうなので不安は募るが、明日の朝、転校手続きをすませてから広島に帰るつもりだ。
高校卒業時に故郷を離れてから、親の死に目にあえない覚悟はしていたけれど、できれば息子の得度の様子を母にきちんと報告できればと思う。

*得度式に来てくれた友人からプレゼントされた
 手作りのリース。
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