ごんぎつね(ベルギーの列車の中で)

昨晩はまたも愚行を冒してしまった。夫の帰宅後、3人でバレンタインのティータイムをしたのだが、夫もお土産を持ち帰っていた。それは、料亭で食べ切れなかったお寿司とステーキ。息子も私もお腹はいっぱいだったけど、明日の朝では食べられない…とばかりに一口食べると、これがまあ、美味しかったのだ。それでも息子は、「もうこれでいい」と一口で箸を置いたのに、私はもったいないからと寝る直前にまた食べてしまった。(ちなみに、私はケーキは食べていないのだけど。)

寄る年波には勝てないようで、案の定、明け方3時に気持ち悪くて、目が覚めた。強靭な私の胃腸も、さすがに大量の高級食材は消化しきれなかったようだ。そして、前回のうどん&搔き揚げ事件と同じく、最終的には嘔吐して、やっと気持ち悪さがおさまった。美味しいものを食べた幸福感も、これで台無し。以後、腹八分目に徹することを心に誓った。

さて、きょうは遅くに塾から帰った息子が、学校の音読の宿題が残っているとうんざり顔。普段は楽しい音読なのに、今回は長すぎて、嫌なのだと。何を読むのかと思えば、『ごんぎつね』。こりゃ、長い!

『ごんぎつね』は、私も子供の頃に読んで心に残った名作だ。息子が字が読めるようになった頃、一番最初に買った絵本のひとつでもある。さらに、思わぬところで出会った思い出の本でもある。

パリ留学時に、クリスマス休暇をオランダの友人と過ごすため、ひとり電車旅行をしていたときのこと。途中、ベルギーで乗車した男性が私の隣に座り、私が読んでいた本をちらちら覗きこもうとした。読んでいたのは、パリのルームメイト(日本人)から「ぜひ読んで」と渡されたシャーリー・マクレーンの『アウトオンアリム』だったのだけど、隣の男性が気になって、読書が進まない。逆に、その人を見てみると、彼も本を読んでいる。しかもその様子が、「見てくれ!」と言わんばかりの堂々たる態度。なんのつもりだろう?と思って、よく見ると、彼も私と同じく視線を上から下へと動かして本を読んでいる。あれ、縦書き!?

ちらりと彼の本を盗みみると、やはり日本語。しかも、「おっかあ」だとか古臭い言葉が見えたので、いったい何を読んでいるのか質問したら、待ってましたとばかりに彼は嬉しそうに答えてくれた。「ごんぎつね。知ってますか?」

いきなりヨーロッパの電車の中で、「ごんぎつね」と聞いて面食らう私に、その青年は自分はベルギーの大学で日本語を勉強していて、今からブリュッセルまで小津安二郎の映画を観に行くところなのだと、語ってくれた。

さすが、日本語を勉強しているだけあって、日本人らしき人をみつけてもすぐに話しかけられない、奥ゆかしい(?)タイプのベルギー人だった。話をするときの態度も、日本人より日本人的で、ブリュッセルに着くと、私に向かって何度もお辞儀をしながら下りていった。

そうそう、それから昨日の話の後日談。私が夫と出会って、「この人と一緒になるのかな~」と思っていた頃、パリで出会った元「理想の人」が京都にやって来たのだ。美しいフィアンセも一緒だったので、私はふたりを連日、京都案内したのだが、彼は正直、あんまり幸せそうには見えなかった。彼女がトイレに立ったときに、「実は婚約は解消した」と言っていたけど、詳しいことはわからなかった。そのふたりを連れて銀閣寺を観光していたら、なんとあの時、東京からパリに遊びに来てくれた友人とばったり出会った。「ほら、昔、パリで会った●●よ!」と彼の方を指差すと、彼女は「ええ~っ!?」と一瞬言葉を失い、「●●って、あの、かっこよかった●●? まるで別人じゃない!? 子沢山でやつれたおじさんかと思った」と驚いていた。京都観光につきあってもらった別の友人からも、私がその彼ではなく、夫と一緒になることになって良かったね…としみじみ言われてしまった。

私も深く同意。だから反省はあっても悔いはない人生なのだ、今のところ。

*これを食べ過ぎたばっかりに…。
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*チョコレートケーキはこちらのお店で。
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天使(2)パリ編

DSC02362 きょうはバレンタインデーだが、夫は職場の会議を兼ねた会食で遅くなるので、息子が塾から帰ったらふたりで夕飯をとる。夫の帰宅後に、チョコケーキを披露する予定だ。

外は晴れていたのに、いつのまにか雪景色。天使でも舞い降りてきそうな気配だ。というわけで、天使話の第二弾。今度はパリ留学時の出来事。

留学の最後に、私はインターンシップとしてフランス企業に半年近く勤めた。早く帰国したい気持ちを抑えて、しぶしぶ会社に向かった初日、私はそこで自分が心に思い描いていた“理想の男性”(あくまで見た目が)と出会ってしまった。「一日も早く終わってほしい」という気持ちが一転、「一日でも長く続いてほしい」と願いながら、インターンシップはあっという間に終わりとなり、私も彼も外国人スタッフとして同じチームで仕事をする中で、親交を深め、友情を築いたものの、なんというか、まるで映画『日の名残り』のような結末を迎えてしまった。

その頃、東京から女友達が遊びに来たので、当時ロンドン在住の別の女友達も合流して、3人でパリの休日を過ごした。実はロンドンの友人がパリを発つのと同じ日に、彼もパリを離れ帰国することになっていた。そこで私は友人の見送りを口実に、彼のお見送りもしたいと思っていた。女友達2人には言わなかったけど。

ところが友人のフライトの方が少し遅い時間だったため、私の努力(?)も空しく、私たち3人が着いたとき、空港に彼の姿はなかった。私は間に合わなかったのだ。最後のお別れができなかったことが、内心ショックでたまらなかったけど、私はなんとか平静に友人を見送って、もうひとりの友人とパリの街に戻る電車に乗った。

本当は悲しくて悲しくて仕方なかったのだけど、友人はそんなこと知る由もない。彼女のせっかくのパリでの休暇を、私の失恋話でしめっぽくするのは申し訳ない。そう思った私は、自分の悲しさを紛らすためもあってか、車中のお喋りが普段よりさらにパワーアップしていた。

ふと気がつくと、四人座りの席で私の斜め前に座っている金髪の男性が、ちらちらと私を見ている。日本語の響きが珍しいのだろうかと思っていたが、あまりに私のことを凝視するので、気になり始めた。私もその人を見ると、その人は恥ずかしそうに目を伏せる。けれど、気がつくと、また私を見ている。

隣に座っていた友人も気づいていて、「前の人、○○ちゃんのこと見てるよ」と教えてくれた。「まさか、日本語はわからないよね? 私たちの話してることを、わかってないよね?」と話しながら、その男性の様子を見るのだが、相変わらず私を見ている。

「まさか…本当に日本語がわかってたりして…」と不安になり、思い切って下手なフランス語で質問した。「日本語、わかりますか?」 その男性は”Non”と答えたあと、こう言った。
“Vous etes tres jolie.” (あなたはとてもきれいです。)
そして、またすぐにうつむいたのだ。

あまのじゃくの私も、そのときは素直に”Merci”と言えた。私が必死で悲しいのをこらえていたのを知っていて、そう言ってくれたような気がして、心からありがとうと思えたのだ。

その後、その男性は車内の放送がよく理解できなかった私たちに、「ここで乗り換えですよ」と教えてくれて、次の電車を待つ間、他愛もない雑談をして、私たちが正しい電車に乗るのを見届けて、去って行った。「パリはきれいな街ですね」という私に、「そう、あなたのように」と言い残して。

この人も、きっと天使だったに違いない…と私は勝手に思い込んでいる。前回とは対照的に、あまりに気弱でシャイだったけど。

*雪がだんだん積もっていく…。
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天使(1)広島編

きょう夫は福岡出張、子供は放課後、友達の家に遊びに行く予定。おかげで、私は午前中、整体師さんに身体をほぐしてもらって、あとはのんびり休憩できる。(ホントは仕事もあるのだけど。)

このところ私は奇跡を起こすべく(?)、自分の潜在意識に願いを植え付けようとしている。(そういう本を読んで、試しにやっているのだ。)それには、リラックスした状態が一番!

それできょうはイメージトレーニングよろしく、過去に起きた奇跡(?)を思い出している。つーか、しょーもないことを勝手に自分で奇跡認定しているだけなんだけど。

まず「エピソード1」は、20代独身時代の話。一見華やかな丸の内のOLだったが、実態は彼氏もおらず、わびしい日々。久々に広島に帰省した際、同級生2名と会い、デパートの喫茶店で愚痴ってしまった。「仕事も頑張って、こんなに真面目に生活しとるのに、もうずっとなんの出会いもないし、デートに誘ってくれる人もおらんのよ~。ひとりくらい、そんな人がおってもええと思わん?」と。さんざん喋り倒して、すっきりして、3人でデパートの正面玄関を出ようとしていたら、人ごみをかきわけて、長身の男性が私めがけてまっしぐらにやって来た。そして「突然こんなことを言うと、おかしいと思われるかも知れませんが、僕と付き合って下さい」と言ったのだ。

私は思わず、「話、聞いてました?」と爆笑。その男性は今、外からデパートに入って来たのだから、喫茶店で私たちの話を聞いていたはずはないのだ。好みのタイプでもなかったし、笑いながら「けっこうです」と答えると、なおも「ふざけてると思うかも知れませんが、本気なんです。電話番号を書きますから…」と話しかけるその人を、「広島に住んでないので~」と振り切って立ち去った。

「それにしても、すごいタイミングじゃねぇ。私らの話を聞いとったとしか、思えんような…」と話していたら、友人のひとりが、「さっきの人は天使かも知れんよ。あんたを励まそうと、神様か仏様が遣わしちゃったんかも知れん」と言うので、私もそんな気がしてきて、デパートの方角に向かって手を合わせ、心の中でお礼の言葉を唱えておいた。
天使って案外いかついんじゃね…と思いながら。

「エピソード2」は、また次の機会に。

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後輩のお母さん

実家に帰ると、母が亡くなったことを最近知った方からのお便りがいくつか届いていた。うちまで訪ねてくださったのに、留守だったのでメモが残してあったり、改めて郵便を送ってくださったり。私はずっと実家を離れていたので、名前は聞いたことがあっても、その方のことや、母との関係など、殆どわからない。とりあえず電話をしたのだが、その中のお一方によると、うちの両親が縁談のお世話をしたらしい。そんなこともあったのか…とビックリ。

きょうはメモを残してくださっていた別の方が、母のお参りに来てくださった。小中高と同じ学校に通った私の一年後輩のお母さんだ。私と彼女は、高校卒業後は東京に出て、似たような生活を送っていたはずだが交流はなく、故郷の町で母親同士がお付き合いをしていたようだ。うちの母が外出できなくなっても、その方が時々遊びに来てくださっていたようだが、その方も高齢のお母さんと同居されているために、足が遠のいていたという。

私がその方と再会するのは、何十年ぶりのことだろうか。後輩は今でも東京の外資系金融機関でバリバリと働いて、高給を稼いでいるそうだ。彼女の大学入試の際には、どうも私が彼女の世話をしたらしい。そういわれてみると、東京の受験校まで同行してあげたような気もするのだが、私の記憶力ってなんていい加減なのだろう!??

このお正月、娘たちは帰省できないのだと、おばさんはちょっと寂しそうに話していた。年をとっても、こういう中途半端な田舎には帰りたくないとも言われているそうだ。

確かに中途半端な田舎だし、空気も臭いし、ガラも悪いけど、自分が育った場所を私は嫌いになることはできない。きっとその後輩も、心から嫌っているわけではないと思う。この町があったからこそ、東京の華やかな生活を目指せたに違いないのだから。

*私が小学生の頃は公害がひどく、この河口でお化けハゼ釣り大会をやっていた。
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輪ゴムの思い出

一週間ダイエット最終日の明日は玄米を食べる日なので、きょうのうちにスーパーまで買いに行った。その道すがら、ふと輪ゴムが落ちていることに気づいた。そのままスーパーに到着するまで、ほかに落ちた輪ゴムはないか、路上を見ながら歩いたけれど、古びた輪ゴム1本と切れた輪ゴム1本しかみつからなかった。

なんでこんなことをしたかと言えば、小学校時代に拾った輪ゴムを集めて「ゴム飛び」を作ったことがあるからだ。当時、学校でゴム飛びが流行っていて、女子の大半が自分専用の「ゴム飛び」を持っていたのだ。私もゴム飛びに熱中し、自分用のゴム飛びを作ろうと思ったが、そのために輪ゴムを1箱買うことがどうしてももったいないような気がして躊躇していた。そんなある日の下校途中、路上に輪ゴムをみつけたのをきっかけに、気にして歩いてみると、輪ゴムがけっこう落ちていたのだ。「よし、拾った輪ゴムを集めよう!」と決心し、それから毎日、登下校の間、ずっと路上をみつめながら歩いていた。確か1ヶ月くらいで、ゴム飛びが完成したと思う。

今考えると、輪ゴム1箱なんてお小遣いで簡単に買える値段だったと思うのだが、なぜか新品の輪ゴムを買うことが許せなかった私。その頃は、家がビンボーだという意識が強くあったせいだろうか。

それにしても、今は意外と輪ゴムは落ちていないものなのかしら? 当時の私の通学路には高校が二つあったことが大きかったはずだけど、この近くにも高校があるし、小学生もたくさん歩いているんだけどな。最近は輪ゴムの使用量も減ってるのかな~!?

*落ちていた輪ゴム
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*きょうの豆知識。クリスマスの靴入りお菓子は日本特有のものらしい。しかも発祥の地は滋賀県。
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たこやき(子供時代の思い出)

つい最近、最寄の駅前にたこ焼き屋ができた。開店直後の週末は大盛況で、2時間待ちと言われて諦めたのだが、きょうの夕方、予防接種をすませた息子と行ってみた。夫には申し訳ないが、ふたりで夕食前の軽食としてペロリとたいらげた。味は合格点!

関西では家にたこやき器があるのは普通だそうだが、うちは夫婦ともに関西人ではないので、あいにく家でたこやきを作ることはない。けれど、子供時代の一時期、私はたこ焼き屋さんの隣に住んでいたので、たこ焼きはけっこう食べていた。

たこ焼き屋のおばちゃんは、母の昔からの知り合いで、私もそこの子供さんたちと小さい頃からの幼馴染だった。おばちゃんは、「いつか自分の家を建てたい」と、駅前通りの借家でたこ焼き屋を始めた。高校や小学校の通学路で、企業の独身寮なども並ぶ通りだったので、おばちゃんは安くておいしいたこ焼きを日曜以外は毎日毎日焼いていた。

やがて、うちの父が独立して自営となったとき、おばちゃんのたこ焼き屋の隣の借家に我が家も引越して、事務所を構えた。それ以来、私のたこやき消費量は格段に増えたのだ。

おばちゃんのたこ焼き屋は繁盛し、やがておじちゃんも今までの仕事を辞めて、おばちゃんと一緒にうどん屋を始めた。おじちゃんは無愛想な人だったけど、いつも元気で明るいおばちゃんのお店は相変わらず繁盛していた。

その頃、両親の仕事も軌道にのってきて、激務のあまり帰りが遅くなる日が続いた。そんなときは、たこ焼きでは間に合わず、私はおじちゃんのうどんを食べていた。あの頃の私は、週に何回、おじちゃんの焼きうどんを食べていただろうか。おじちゃんは私の好みをわかっていて、いつも「ソース、ちょっと多めにしといたよ」と家までうどんを運んでくれた。ひとり両親を待つ時間も、隣のお店の気配が感じられて、寂しくはなかった。

やがておばちゃんは念願の家を建てた。お店からちょっと離れた住宅地に、3階建てのりっぱな家ができた。なのに、おじちゃんは「お店で寝泊りする方が楽」と、結局、新しい家には殆ど帰らなかった。もちろん、おばちゃんも昼間はずっとお店で過ごした。

そんなある朝、おばちゃんがお店に来てみたら、おじちゃんが倒れていた。発見されたときには手遅れで、そのまま帰らぬ人となった。おじちゃんが殆ど暮らすことのなかった新築の家で、葬儀が営まれた。そしてその後、うどん屋はなくなったけれど、おばちゃんはずっとたこ焼きを焼き続けた。

我が家もその間に駅前通りから引っ越してしまい、私がおばちゃんのたこ焼きを食べることもなくなった。おばちゃんのたこ焼き屋は、今ではおばちゃんの娘さんが引き継いでいる。彼女も今では明るく元気なおばちゃんとなっているに違いない。

今でも私はたこ焼きを食べるたび、あの働き者のおばちゃん(&おじちゃん)を思い出す。「自分の家を建てる!」ため、いったいいくつのたこ焼きを焼いたのだろうか。おばちゃんの汗と涙のつまったたこ焼きが、私の血肉になっていればいいのだが。

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日本のマスコミ、終わってる?

昨日の朝のテレビで、ジャパン・パッシングの問題に絡めて、外国特派員協会長に取材していた。「あ、この人、知ってる!」と思わず、言ってしまった。もう何年前になるだろうか。東京で勤めていた頃、ある夜、日比谷駅から地下鉄に乗り、英語の手紙か何かを読んでいたら、その人に話しかけられたのだ。電車はかなり空いていて、他愛もない雑談をして、偶然に同じ駅で下りたことがきっかけで、何度か職場に呼んでもらい、ランチを食べたり、映画のLDを見に行った記憶がある。

私はカレーが大好きで、その頃は週に最低一度はカレーを食べに出かけていた。実は、特派員協会のレストランで食べたカレーがとっても美味しくて、そのカレー食べたさに何度も足を運んでいた。(会員制なので、勝手に入れない!)

ところで外国メディアといえば、昨日、東京で2,500人以上が集まった尖閣問題への抗議デモを報じたのは、CNN、APF、ロイター、WSJなどの外国メディアだけだったそう。日本のメディアはテレビはもちろん、産経新聞すら伝えてないのはどういうこと!? 報道規制!? 中国での反日デモは、少人数でも大々的に報じるのに? しかも、デモの出発地点は渋谷のNHK前だったというのに。

私も近くにいたら参加したかった…と思っていたので、昨日はこのデモの様子をニコニコ動画でリアルタイムで見ていた。組織化されないデモとしては大規模なもので、私が見た限りではごく普通の国民がマナーよく行進していた。

これまでもNHK偏向番組への抗議や、外国人参政権反対などの集会やデモが行われたことは知っているが(動画もたくさんアップされてるし)、その模様がテレビで報じられることは一切ない。米軍基地反対の集会は少人数でも報じられるのに、外国人参政権反対の武道館1万人集会は無視。

そして、この期に及んで今回のデモも完全スルー。日本のマスコミは、終わってる…。

*秋の味覚、栗おこわ。
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母校の制服

まだ書類が整わないので、事務処理はまた後日することにして、父の顔を見てから故郷を離れることにした。が、昨日と打ってかわって、父は超不機嫌。私のことも、本当に私かどうか疑って、もろに警戒心を出している。こんなことは初めてだったのでビックリ。(たとえ私が誰かわからない状態でも、常にやさしい対応をしてくれる人だったから。)ホームのスタッフの方によると、入浴日は不機嫌になるらしく、きょうは朝からずっとこんな感じだという。せっかくお風呂に入って、気持ちよくなったのだろうに。そういえば、昔からお風呂、好きじゃなかったしなぁと、スタッフの方と苦笑して、ホームを後にした。(きっと、父の心の中にも処理しきれない思いがいろいろあるに違いない!)

そして電車に乗って、懐かしい瀬戸内海の風景を見ていたら、昔のいろんな思い出がよみがえってきて、泣きそうになった。中学高校の6年間、朝5時半起きで電車に乗り、この景色を見ながら通学した。私を起こし、朝ごはんを食べさせて、遅れそうなときには自転車に乗せて駅まで走ってくれた母の姿を思い出し、さぞ大変だったろうな~と思う。自分が母親になった今だから、余計にそう思う。

広島駅に到着し、新幹線のりばに向かっていたら、母校の制服を着た女子とすれ違った。一瞬、当時の自分の姿と重なり合って、母はこんな私を見ていたんだなと思ったら、今まで殆ど出なかった涙がどっと出てきた。

8月の同期会や、その後のプチ同期会、それから土曜日に同級生に会ったときにも感じたけれど、10代の多感な時期の思い出は本当に人生の宝だ。がんばって私を支えてくれた両親、ともに学んで悩んで時間を過ごした同級生たちの存在がいかに大きなものだったか、今になって実感する。

さて、我が家の息子もそろそろ多感な(?)10歳。新しい学校生活が始まったばかりなのに、きょうは私も夫もいない自宅にひとりで帰って留守番しているはず。今度は私が息子をしっかり支えてやらなければ。(「うざい」と言われるけど。)

*さようなら~、広島! またすぐ帰ります。
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同級生から聞いた母の思い出

母が転院した頃に再会し、その後、いろいろお世話になった同級生と会った。隣町から一緒に6年間通学した彼女と、懐かしい駅の前のデパートで待ち合わせ、午後のひとときをおしゃべりに費やした。

中学の入学式の帰り、この駅のホームで乗り換え電車を待つ間、私の母が売店でコーラを買ってくれて、一緒に飲んだ景色が断片的に彼女の脳裏に焼きついているそうだ。私の記憶にはまったく残っていなかったが、そんなこともあったのかな~と、しばし遠い過去に思いを馳せた。

母が十分に生きて逝ったことは悲しくはないのだけど、なんでだろう…こうやって同級生と話していると、あの頃に連れ戻されて、幼かった自分自身と、若々しくはつらつとがんばっていた母の姿がよみがえり、なんとも言えない気持ちになる。

そして、その時間を共有した同級生の存在が本当にありがたい。この駅も、あの頃とは様変わりで、大きくきれいになったけど、私たちの記憶の中では、あの頃の鈍行列車がまだ走っている。

*駅の裏のミュージアムと桟橋。
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亡母の原戸籍

息子を送り出してから、私は事務処理のため、広島へと向かった。長年お世話になっている友人と待ち合わせて、病院や支所めぐり。ランチをして、実家で書類を探したり、母にお供えをしたり。老人ホームに父を訪ね、最後は彼女のお宅でコーヒーをよばれて、丸一日、一緒に過ごした。

彼女といると、母の思い出話がたくさん出てくる。ここ20年近く、両親ともっとも長い時間を過ごした人なので、私が知らないエピソードも山盛り。両親にまつわる人間模様も冷静に見てきた人なので、彼女の人物評価は参考になる。

きょうは母が生まれてから死ぬまでのすべてが記載された戸籍謄本(原戸籍というらしい)を取り寄せた。10ページにもわたるもので、私の知らなかった祖父母などの情報も入っていて、思わずコピーをとってしまった。

今この時期に、自分の過去をさかのぼる作業をするのも意味があるような気がしている。

*息子の登校路。
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