今年のバレンタインデーにKindleで『12 Rules for Life: An Antidote to Chaos』という本を購入した。アメリカのベストセラーとして紹介されていて、面白そうだなと何気なく買ったのだが、同じ日に買った『Crushing It!』を先に読んでしまい、そのまま忘れて未読のまま。著者のジョーダン・ピーターソン氏がどういう人かも知らないままだった。
ところがその後、YouTubeでピーターソン教授とBBCのCathy Newmanという女性キャスターの議論(!?)の映像を見て、この著者が現在、英語圏で大きな論争を呼んでいる話題の人だと知った。カナダ、トロント大学の心理学の教授で、自分の講義をYouTubeで流したり、ネット上で質疑応答などをしているうちに特に若者の間で評判となり、今年1月に発売となった冒頭の著書が大ベストセラーとなっているらしい。
ミレニアル世代の白人男性、特にオルトライト(オルタナ右翼)に強烈に(!?)支持されていることから、彼を危険視する人たちも多いようだ。
ピーターソン教授はそもそも「ポリティカル・コレクトネス」に異を唱えたことで有名になり、Cultural Marxism(文化的マルクス主義というのか?)を忌み嫌っているそうだ。Cultural Marxismは、伝統的な道徳観や家父長制、愛国心、人種・ジェンダー差別などが抑圧を作り出していると考えているらしい。それがゆえに現在では、アファーマティブ・アクションなどに代表される「アイデンティティ・ポリティクス」が行われているが、ピーターソン教授はこのアイデンティティ政治なるものが教育システムの中に入りこんでおり、これが全体主義に繋がりかねないと警鐘を鳴らしているのだ。
確かに90年代から特にアメリカでは「ポリティカル・コレクトネス」として、女性はMissやMrs.ではなくMS.と呼ぶとか、ChairmanはChairpersonと呼ぶとか、「使っていい言葉、いけない言葉」がいくつも出てきたが、最近ではジェンダー・アイデンティティによる新たな人称代名詞がいくつも生まれているらしい。主語の場合は、「Zie, sie, ey, ve, tey, e」など何種類も! しかも、それぞれに活用形もあるわけで…。カナダでは、こういった正しい人称代名詞を使うことが要求されているとかで、ピーターソン教授は「自分はこういった代名詞は使わない!」と断言して物議をかもしたようだ。ジェンダーは主観的なものではないし、これらの人称代名詞の使用を法律で強要することは、思想・言論の自由を封殺することになる–というのがピーターソン教授の意見らしい。
私には難しいことはよくわからないが(そもそも英語だし)、ピーターソン教授の動画にはなぜか引き込まれてしまう。どんな議論をふっかけられても、カッとすることなく冷静に淡々と切り返し、それでいて情熱も感じられる話し方だからなのだろうか。そもそも、彼の主張の大まかなところは共感できるからだろうか。私自身も「ポリティカル・コレクトネス」は行き過ぎだと昔から感じていたし、言葉狩りが行き過ぎて、Zie, sie, ey, ve, tey, e…なんて新語を作り出すなんて、滑稽にすら思えるのだ。
ピーターソン教授が言う「アイデンティティ政治が教育システムの中に入りこんでいる」という現象のひとつに、国の政策として人種差別やフェミニズムなどの教育や研究に多額の予算が組まれるということがあるらしい。そういえば、最近、日本の国会でも、反日的な研究をする大学教授などに文科省から多額の研究費が下りていることが指摘されたが、逆にその指摘が「学問の自由への攻撃だ」という反論が…。なんとも難しい問題。
日本の学校教育でも、伝統的な家庭のあり方を否定(軽視)したり、変なフェミニズムが浸透しているように思う。私が小学生の頃は、学級名簿は男女別々にアイウエオ順になっていたが、我が子の時代には男女の別なくアイウエオ順になっていた。昔は男子は「○○君」、女子は「○○さん」と呼ばれていたのが、どちらも「○○さん」となったり。個人的には男女別の方がわかりやすくて便利だと思うのだけど。特に昨今は男子か女子か判別しがたい名前も多いから…って、そういう問題じゃない!?
もちろん、いろんな意見があっていいのだが、90年代に「ポリティカル・コレクトネス」が盛り上がっていた頃から私自身が感じていたのは、「これが正論だ!」と言わんばかりにドヤ顔で主張する人たちの圧力の不快感。うまく反論できないけれど、どこか違和感が拭いきれない。あなたたちが言ってることは正しいかも知れないけれど、でもちょっと違うんじゃない!?というモヤモヤ感。
ピーターソン教授は、このモヤモヤをクリアにして、しかも左翼の論客たちに堂々と反論してくれたからこそ、こんなに人気が出ているのかも知れない。(ピーターソン教授は自身を、英国古典的自由主義者?とみなしているらしい。)私自身は、かつて、中野剛志氏の議論をYouTubeで見た時と同じような高揚感を久々に覚えてしまった。
アイデンティティ・ポリティクスを信奉する英米のメディアや言論界からは、ピーターソン教授への反論や抗議、また教授を危険視する論調が多いようだが、それもいわば彼の人気&影響力の大きさの裏返しということだろう。反発が大きいほどさらに人気を呼ぶという悪循環、じゃなく好循環!?
カナダの大学では、ピーターソン教授の映像を授業で学生に見せた教師が懲戒処分を受けた際、上司がピーターソン教授のスピーチをヒトラーの演説となぞらえたことが問題となり、後にその上司は謝罪したのだとか。ピーターソン教授は、結果的にこれが本の宣伝になったと冷静に受け止めていたようだけど。日本では、左翼の人たちが安倍首相をヒトラーになぞらえることがあるけれど(そんなポスターも作っていたよね)、それはまったく問題にならないのは、どういうわけなのか?(逆に自分たちがヒトラーに例えられたら、怒るんじゃないかなぁ!?)
ピーターソン教授にせよ、安倍首相にせよ、ヒトラーに例えられるというのは、それだけ一部の人から恐れられているということなのだろう。それくらい手ごわい存在なのだ。しかも、安倍首相に関しては、政策批判ではなく単なる個人(人格)攻撃、悪口としか思えない批判が多すぎて驚いてしまう。日ごろ、人権擁護に熱心な政治家や大学教授など、知識人と思われる方々がそのような低レベルの批判しかできないとは…。しかも、その人の品性を疑うような下品な言葉の数々に、憐れみさえ感じてしまう。どうしたら、個人的な関係があるわけでもない人のことを、そこまで憎めるのだろう?と逆に不思議。そんなにマスコミや左翼知識人に恐れられるというだけで、大物の証拠なのだろう。
それよりも、私はKindleの『12 Rules for Life』を早く読まなければ!!!
↓なお、これがピーターソン教授とキャシー・ニューマンの議論。(視聴回数が1千万回を越えている!)