寂しそうな父

ショートステイ施設(老健)から老人ホームに移って一年以上が過ぎ、父もここでの生活に慣れているかのように思える。しかし、これまでは私たちが訪ねると、時計を見ずともきっちり30分ほどで言われていた「はよう帰りんさい」という言葉が、母が亡くなって以来、一切出なくなった。こちらが帰ると言うと引き止めはしないが、自分から帰りを促すことはなくなったのだ。

離れていても母が生きているということが、父の心の支えになっていたのだろう。ボケたことを言うようになっても、母に関する発言だけはずっとまともな父。もしかしたら、母が入院してしまい、離れ離れの生活を余儀なくされた現実から逃避するために、ボケてしまったのではないか…とすら思ってしまう。

昨日も友人と息子と三人で訪ねると、私たちの名前が出てこないため、何度も何度も名前を聞く父。そして、「こがーに何度聞いても覚えられんのんじゃけぇ、わしゃあ、はぁ役に立たんのんよ」とつぶやくのだが、友人にはしっかりと、「あんたは、○子さん(母の名前)の世話をようしてくれた人じゃのぅ。○子さんの世話で駆け回ってくれたのぅ」と言う。わかっているのだ、母に関することだけは。

きょうは息子とふたりで父を訪ね、「きょうの午後、新幹線で帰らないといけないから」と告げると、そわそわして「わしも家に帰らんといけん」と言い出した。これは今までになかったこと。「また土曜日に来るから、ここで待っといてよ」とお願いして、納得してもらった。

夜になると、今度は奈良にひとりで暮らす母の姉から電話があった。こちらもひとり寂しい夜を迎え、聞いてほしい話がいろいろあったようだ。

母の存在を心の支えにしていた父や伯母にとって、自分より若い母が先立ったことはとても辛いことなのだろう。まだ私には本当にはわからないけど。

*友人宅に完成したサンルーム! 憧れだわ~!
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葬儀担当者との再会

母のお世話をしてくれた友人を朝、家まで迎えに行き、きょうは一日つきあってもらった。一緒に父を訪ね、実家の掃除をして、最後は葬儀をお願いしたホールに行き、法要のお花や食事を注文して、位牌を受け取った。

うちの葬儀を担当してくださったホールの支配人さんには、葬儀後もわからないことがあれば電話をして、相談にのってもらっている。親切だけど、決して押し付けがましくなく、こちらの気持ちを慮ってくださるので、なぜか安心して頼れてしまうのだ。きょうもホールの事務室でしばし雑談をして帰ってきた。

電話では何度もお話していたけど、葬儀以来の再会に、懐かしさがこみあげてくる。一ヶ月余り前に初めて会った人なのに! 心強い親族がひとり増えた気分なのだ。これもまた、母が与えてくれたご縁なのだわ。

*息子は友人宅でワンちゃんと再会!
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初ゴキブリ

世の中は三連休だが、夫は休みなし。きょうは泊まりで、明日も午後から別の場所で仕事。あさっては職場の運動会。9月以降、連休はもちろん普通の週末も行事や用事が詰まって、まともな休日が殆どない。私はひとりで広島を往復しているが、夫も息子もこれまでまとまった時間がとれないでいた。

ようやく今週末は、夫を残して私と息子のふたりで帰郷することになった。来週末の忌明け法要の前に、実家の掃除もしなければ、父の顔も見に行かなければ…。そんなことを考えて、なぜか気持ちばかり焦る私は、ついつい夫に八つ当たりして、ぷんぷん怒ってしまった。一番忙しいのは夫なのに…。

ゲンキンなもので、昨日に続き、きょうも息子とふたりで楽しい(?)電車の旅をして、実家に到着して母の遺影を見たら、ほっと安心したのか、私のイライラは消えてしまった。うぅ、夫にはすまないことをした。

ところで自宅の台所では、シンクでゴキブリがひっくり返っていた。ホウ酸団子が効いたのだろう。息子を呼ぶと、「うわっ、初めてゴキブリを見た!」と言う。「今朝、合唱の練習でもゴキブリがいたらしいんだけど、女の子が足で踏み潰したから見られなかったんだ~。だから、見るの初めて!」だと。そうか~、山の家にはいろんな虫がいたけれど、ゴキブリだけは寒すぎていなかったからなぁ。

広島は暖かいのだ。

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日帰り出張

一泊するべきかとも思ったが、今週は夫の泊まりが二回あるし、日帰りで実家に行ってきた。第一の目的は母の銀行口座の手続き。本当は先週中に終わるはずが、あちらの都合で今週に延びてしまった。

母が主に使っていたのは地元の地銀と信金。地銀の支店には事前に電話をして、一度足を運んだだけで、あとは郵送ですべて終了。支店に赴いた際にも、「40分くらいお時間かかりますが、大丈夫でしょうか?」と最初に確認され、予定通りスムーズに説明&手続きはすんだ。ところが、信金の方は説明もわかりにくいし、時間がかかるし、面倒な手続きが多い。これはシステムの違いなのか、担当行員の能力の違いなのか。(たぶん両方)。私の担当行員さん、若い妊婦さんなので、本来なら応援したいところだが、なにぶんミスが多くて、何度呼び戻されたことか…。電話も要領を得ないし、自分とこの不要な事情説明をして言い訳をするのだ。

昨日はこれが最後と思って我慢して待っていたけど、30分待たされた時点で、「あと、どれくらいかかりますか?」と訊きに行った。最初は混んでいた店内も、すでに待っている客は私だけ。窓口のベテラン風の行員さんが背後の担当行員の様子を見に行き、「あと3分と言ってますので…」。「あのぅ、その間に○○の手続きをしてもらえませんか? まだ、やってませんよね?」と、こちらから確認すると、「あ、そうですね」と焦って別の書類が出てきた。うう…非効率極まりない!

結局、「人材」の問題なんだよね~、システムや組織の問題も大きいけれど…。などと思いながら、ビジネスマンだらけの新幹線に乗って帰路についたら、久々に同級生から連絡が入った。帰宅後に改めて折り返したら、パートの愚痴を聞いてほしかったらしい。実は彼女、夫が医者であることを伏せて、パートとして銀行の窓口で働いているのだ。ところが要領が悪くてしょっちゅう失敗し、運悪くその失敗がいつも上司に発覚し、損な役回りが多いので、最近では周りの先輩から「運の悪い人」と同情されているらしい。失敗はともかく、そんなかわいそうな人と思われている自分が情けない…と、ちょっとへこんで電話をしたのだそうだ。

つい、きょうの信金の行員さんと重ね合わせたけど、友人の失敗話は微笑ましいのに、この行員さんについては笑えない自分を発見。わが事と他人事の違いもあるかも知れないが、たぶん潔さが違うのだ。友人の失敗はついお客さんのことを考える余りの結果だったり、単なるミスの場合でも言い訳せずに謝罪に徹する。私生活でイライラを抱えていると思われるお客さんの必要以上の不平不満も、素直に受け止めてあげているようなのだ。落ち込みながらも、この仕事は彼女にとって、世の中の荒波にもまれて(?)修行を積むためのものらしい。

すっかりずうずうしいおばさんになって、平気で文句が言えるようになった私はちょっと反省。私も銀行勤務の時代があったのだったわ。

*対岸は雨の江田島。このあと、すぐに晴れたけど。
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母校の制服

まだ書類が整わないので、事務処理はまた後日することにして、父の顔を見てから故郷を離れることにした。が、昨日と打ってかわって、父は超不機嫌。私のことも、本当に私かどうか疑って、もろに警戒心を出している。こんなことは初めてだったのでビックリ。(たとえ私が誰かわからない状態でも、常にやさしい対応をしてくれる人だったから。)ホームのスタッフの方によると、入浴日は不機嫌になるらしく、きょうは朝からずっとこんな感じだという。せっかくお風呂に入って、気持ちよくなったのだろうに。そういえば、昔からお風呂、好きじゃなかったしなぁと、スタッフの方と苦笑して、ホームを後にした。(きっと、父の心の中にも処理しきれない思いがいろいろあるに違いない!)

そして電車に乗って、懐かしい瀬戸内海の風景を見ていたら、昔のいろんな思い出がよみがえってきて、泣きそうになった。中学高校の6年間、朝5時半起きで電車に乗り、この景色を見ながら通学した。私を起こし、朝ごはんを食べさせて、遅れそうなときには自転車に乗せて駅まで走ってくれた母の姿を思い出し、さぞ大変だったろうな~と思う。自分が母親になった今だから、余計にそう思う。

広島駅に到着し、新幹線のりばに向かっていたら、母校の制服を着た女子とすれ違った。一瞬、当時の自分の姿と重なり合って、母はこんな私を見ていたんだなと思ったら、今まで殆ど出なかった涙がどっと出てきた。

8月の同期会や、その後のプチ同期会、それから土曜日に同級生に会ったときにも感じたけれど、10代の多感な時期の思い出は本当に人生の宝だ。がんばって私を支えてくれた両親、ともに学んで悩んで時間を過ごした同級生たちの存在がいかに大きなものだったか、今になって実感する。

さて、我が家の息子もそろそろ多感な(?)10歳。新しい学校生活が始まったばかりなのに、きょうは私も夫もいない自宅にひとりで帰って留守番しているはず。今度は私が息子をしっかり支えてやらなければ。(「うざい」と言われるけど。)

*さようなら~、広島! またすぐ帰ります。
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NO CARP, NO LIFE

昨晩は久々にマッサージに行って、コリをほぐしてもらったし、きょうは一日ゆっくり実家で母と過ごした。といっても、お昼前に従姉がやってきたので、思い出話をして、お昼を食べに行き、その後は老人ホームの父を訪ね、たっぷり2時間ほど話を聞いてきた。

父もやはり寂しいのだろうが、母のことで気持ちがしゃんとしたのか、私のこともよくわかっていて、機嫌がよく、いろいろ喋ってくれた。思えば父は、母と自宅にいる頃から少しずつ頭が衰えていたのは事実だが(せん妄の症状が多かった)、母に関してはずっとまともなことしか言ってこなかった。もしかしたら、お互い生きているのに別れ別れの生活となった現実を受け入れたくなくて、よりいっそう、妄想の世界に入り込んだのだろうか? そして母に関するときだけは、現実の世界に戻ってくるのだろうか? …と、これは私の勝手な邪推。

父は昔から、母の名前を「さん」づけで呼び、「○○さんがおらんと、生きていけません」とか、「○○さん、愛してます」とか、のうのうと言っていた。嘘でもなんでも、こういう言葉をかけられると、母も嬉しそうだった。

「言葉はただなんじゃけぇ、嘘でもええけ、愛の言葉はかけんといけんよ! 思っとるだけじゃ、伝わらんのんよ」というのが、父を見てきた私のポリシー。

しかし、従姉はなかなかこれが実践できない人なのだ。(だから独身なのか…!?)

*従姉にもらった民生Tシャツ、『No Carp, No Life』。従姉もまさに、そんな生活。父は『No Wife, No Life』みたいな人だけど、今のところ淡々と元気。
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母との最後の時間 

昨日、帰ろうとしたときも、母は気がついたのか手をあげて、何か言いたそうにしているように見えた。やはり声はしっかり聞こえているのだろうか。

このところずっと、病院の近所に住む友人が朝一番に母の病室に行って、メールで様子を知らせてくれる。実家のある隣市から私たちが到着しても、しばらく彼女は一緒にいてくれる。彼女はこの20年近く、両親ともっとも長い時間を共に過ごしてくれた人だ。

何日も熟睡できず疲れているせいか、きょうのお昼はものすご~くお腹がすいて、肉をしっかり食べたくなり、近くのレストランに行ってしまった。息子もステーキを頼んでいる!

午後は、夫と息子には父の様子を見に行ってもらい、私は再び母の元へ。友人もパートの時刻まで病室に残り、しばらくお喋り。母はすでに喋ってはくれないが、彼女のグチをいつも通り、聞いてくれているのだろう。

彼女が去ったあとも、面会終了時刻まで病室で母とふたりきりで時間を過ごした。途中、先生が「ずっと病室にいると、精神的にも肉体的にも疲れるから、無理しないでいいですよ」と声をかけてくださった。

母はどんなに頑張っても、この夏いっぱいかな~という予感があったので、私自身はこの夏いっぱい母に付き合う覚悟はできていた。母も、夏休みいっぱい私たちと過ごしたくて、ギリギリまで頑張ってくれているのかも。こうやって最後の時間をたくさん過ごせて幸せだと思う。

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小康状態の母

昨日は母方の祖母の月命日だったので、もしかしてそれに合わせて…と心配していたが、母は今も小康状態。様子を見に来てくれた従姉が、四年前に他界した彼女の母親の姿にどんどん重なってくると悲しそうな顔をした。亡き伯母と母は、姉妹の中でも年齢や住所が一番近く、仲がよかったのだ。性格と顔はさほど似ていなかったのに、同じような骨格をしているのか、やせ衰えた母の顔は、最後に見た伯母の顔にそっくりになってきた。

夕方、家に戻ると、ただひとりだけ残っている母の姉に電話で報告。遠方に暮らすこの伯母は、高齢のため、母に会いたくても会いに行けないと、毎度、電話口で泣いてくれる。ただでさえ、心細い一人暮らしで、自分の胸のうちを聞いてくれる人がそばにいないため、延々ととりとめのない話が続いていく…。困ったなぁと思いながらも、これもまた私の務めと思って傾聴する。伯母のグチだって、生きてるうちしか聞けないんだし。

夫と私は、風呂上りのビールも飲めず、眠いのになかなか眠れない。

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母の復活(生き返った!)

昨日の午後9時半頃、お風呂から上がったと思ったら、夫が私の携帯で喋っていた。病院から母の容態が急変したとの連絡だ。急いで夫とふたりで病院へ向かっていたら、またも病院から、「状態が落ち着きましたが、一応、来てください」との電話。

行ってみると、当直の先生から母の心臓と呼吸が3分間、止まったと言われた。ところが、ペースメーカーが心臓マッサージの役目を果たし(?)、再び心臓が動き始めたらしい。こうなると、もう長くないのはわかっているけど、予測がつかないようだ。

病室に行くと、昼間と同じ状態で母が眠っている。一足先に到着していた近所の友人と3人で、母のベッドを囲んで、しばらく様子を見ることにした。「去年、入院したばかりの頃はこうだったね、ああだったね」などと、ついつい思い出話に盛り上がったのだが、その話に時々、母が反応している(?)様子が見受けられ、「ちゃんと聞こえとるんかね」と話し合っていた。特に、食べ物や父の話題になると、顔が動くのだ。

深夜、病室を離れ、今朝、再び病院に行くと、母は相変わらずの様子。主治医からは、「昨晩は奇跡が起きたんですね」と言われた。とは言え、意識はほぼない状態。…と言われていたのだが、看護士さんが痛みの検査として乳首をつまむ(つねる?)と、「痛い痛い!!」と声がした。いや、これは本当に、よっぽど痛かったのだろう。

おかげで、きょうも一日、母と一緒に過ごすことができた。あまりしんどいなら無理しないで欲しいけど、さすが頑張り屋だけあるなぁと感心している。私も今のうちにと、ときどき、おでこにチュッとしたり、耳元で愛の言葉(?)を囁いたりしている。ありがとう、お母さん!

*完成を心待ちにしているのだが、なかなかできない新しい道路。
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父と母の夫婦愛!?

昨日、主治医と話していて、コミュニケーションの難しさを実感。この間、しっかり話を聞いたつもりだったが、どうも私は正確に理解していなかったようだ。それは、おそらく医療従事者と一般人との常識のズレからくるのだろう。(というより、私に常識がなかったせい?)

母には積極的治療や延命治療はしないことは了解の上、もういつどうなっても仕方がないけど、できれば息子の得度式の報告ができれば…ということは伝えていた。先生も、母が得度式を楽しみにしていることはご存知だったので、それまでは意識のある状態で待っていられるように治療を考えるとのことだった。

母があまり辛そうだったら、痛みを緩和する治療をすることもお願いしていたが、私の頭の中ではそれが鎮静剤(麻酔?)によって意識をなくすことであるということが、はっきりわかっていなかった。(本当に辛い状態になると、自然に昏睡状態に陥るのだと思っていた。)私が帰ってくるまで母の意識を保つため、先生はあえてそういう薬を使わなかったのだが、母があまりに辛そうだったので看護士さんからは「どうして薬を使ってあげないのか」という意見まで出たらしい。辛そうにする母を看護する側も大変だったそうだ。それを聞かされて、「あなたのせいでお母さんに長いこと苦痛を与えることになったのよ」と非難されているような気分になり、落ち込んでしまったが、でも母自身に選択させても、きっと同じ道を選んでいたと思う。根が頑張り屋さんだから。

今朝は夫と息子と三人で病室に行き、母に話しかけると、しっかり反応してくれた。ただし、息子が「ばあちゃん、がんばって!」と言っても、もう首を横に振ってたけど。鎮静剤もそんなにすぐに効くわけではなく、朝はけっこう辛そうだったけど、午後にはようやく落ち着いて寝始めたので、やっと老人ホームの父にも会いに行けた。父は熱も下がり、回復したことを電話で聞いていたので、安心はしていたが、実際に会いに行くと、やはり寂しかったのだろう。次から次へと喋っていた。その大半は頭の中の妄想(?)なのだが、いきなり「○○さんはどうか?」と母の様子を聞いてきたので驚いた。スタッフの方も、「今朝から奥さんのことを心配しておられますよ」とおっしゃる。さすが夫婦、母の異変を一番に察知するのは父なのかも知れない。

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