家族とは? 話し合ってみないとね。

あまりに疲れて、眠ってばかりの私。夫も仕事が忙しくて、このところゆっくり話ができなかった。

実家の今後のこと、夏休みのスケジュールといろいろ話し合って決めたいのに、時間だけが過ぎていき、忙しい分、お互いに余裕がなくてちょっとしたことで不機嫌になる。

どうせならいい雰囲気で話し合いたいのに…。お互い、家族と思う甘えからか、ここまで言わなくてもわかってくれるだろうとか、相手に無意識のうちにたくさんのことを求めているような。

今夜はそこをとことん(?)話し合った。お互い、助け合おうと思っているのに、その思いが変にチグハグになっていたようだ。やっぱり、ちゃんと腹を割って話さないと、わからないよね…と思う。話せてよかった。

きょうはコリもほぐしてもらって、髪も短くして、いろんな意味ですっきりした!

14jul09

遠距離介護は苦労か楽しみか

毎週末、帰省するのはいろんな意味でしんどいが、
帰りたいから帰っているので、身体は疲れても辛い
わけではない。こうやって毎週帰ることで、両親が
自宅に帰ってくることはもうないのだという事実を
身を持って認識している気がする。その寂しい気持
ちに、少しずつ慣れていっているような…。

しかも父と母、それぞれと一対一で過ごす時間なん
て、こういう状況にならない限り、持てなかったは
ずだ。心で思っていることを、ちゃんと言葉で伝え
る時間をもらったのだ。

特に父は、たびたび会いに行かないと、私のことを
忘れてしまう。いや、実際に会っていても、途中で
私のことがわからなくなることも。今回は私に向か
って、私の悪い点を話してくれた。でもって、それ
がけっこう真実をついていて最後に、「まあ、最近
になって、その性格も治りかけとる」とフォロー(?)
が入る。笑えることも多いし、今まで知らなかった
父の一面が見えたりして、とんちんかんな会話も楽
しい。

それから特別なことがない限り、従姉と一緒に施設
に通うので、久々に従姉ともいろんな話ができる。
大変だと思うと苦労になるけど、実は楽しい時間を
もらっているのだ。

(その分、夫と子どもには迷惑かけてるけど…。)

*病院の近くには、民家とは思えないような門構え
 のお宅が多い!
7jul09

涙の効用(母の転院)

今朝、早い時刻に母の病室を訪ねると、隣のベッドの方が
母の横に座って、涙ながらにお喋りをしている最中だった。
いろいろ悩みのある方らしく、別れを惜しんで、最後にお
喋りをされていたようだ。

他にも先日まで同室だった方々と別れの挨拶をしたり、一
足先に退院された方からカードが残されていたり、入院生
活の中で自然にコミュニティができていたようだ。

さて、レンタカーで本当に久々に母とのドライブ。転院先
に到着すると、昨日の電話通りに母の手伝いをしてくださ
っていた女性もちょうど同時にやってきて、ふたりで荷物
を運んで、病室の準備。母はまず検査と医師の診察を受け、
病室に移ると看護士さんより詳しい聞き取り調査。あらゆ
るスタッフの方が、とっても丁寧で、親切で、優しくて、
明るくて(平林都さんの接遇の研修を受けたのかと思うほ
ど!)、こちらの緊張&不安もほどけてきた。

その後、別室にて私は新しい主治医の先生(&婦長さん)
と面談。母の心臓はもう末期的状況にあることを改めて説
明された。前の病院でも聞いていたし、この春以降の母の
様子を見て覚悟もしていたので、気持ちの動揺はなかった
のだが、私は思わず泣いてしまった。なぜなら、ここの方
々が母をやさしく受け入れてくださったことで、本当に安
堵したから。「本当はもっと母のそばにいたいのですが、
遠くに住んでいてそうもいかず。広島を離れたときから、
こうなることはわかっていのですが。だから、ここに入れ
てよかったです、よろしくお願いします」と泣いてしまっ
たのだ。

主治医の先生は私より若い女性で、婦長さんは私よりちょ
っと年上の女性。私の気持ちも、しっかり受け止めてくだ
さった。あとで婦長さんが、「うちの母も、何度もよくな
ったり悪くなったりを繰り返して、似たような状況でね。
妹は遠くに住んでいて、しょっちゅう帰れなくて。だから
気持ちがわかるのよ。娘がしょっちゅう帰れない分、私が
お母さんをちゃんとみてあげるからね」と言ってくださっ
た。

怒りや悔しさで流れる涙は、交感神経が関係していて、悲
しみや嬉しさで流れる涙は、副交感神経が関係しているそ
うだ。成分も違い、前者はしょっぱく、後者はうす味(?)
だとか。いずれにせよ、涙はストレス物質を排出してくれ
るらしい。

たぶん私も緊張がほどけた安心感から、どっと涙が出たの
だろう。ストレスを吐き出したせいか、その後はすっきり
と心から笑顔になれた。きれいな心の人たちに囲まれると、
こちらの心も洗われるようだ。

*その後、母が「家を見せてもらっておいで」と言うので
 新興住宅地の新居を訪ねた。
6jul09

私を忘れた父。

朝、家を出て、昼過ぎに母の病院に到着。
母に頼まれた買い物などして、夕方は従姉と一緒
に父の施設へ。

ちょうど夕食中だったので、私も一緒にテーブル
についたが、父は私が誰だかわかっていない。そ
れでも、いろいろ会話していると、同じテーブル
で食事をされている二人のおばあさんも会話に入
ってこられた。

「おじいさんと話しよると、面白いんよ。とんち
んかんなことを言うてじゃけ。年をとったら、誰
でもこうなるんよ。じゃけど、人の悪口じゃない
けぇね、面白いんよ。」

83歳と86歳のおばあさんが、そう言って笑ってく
ださる。ふたりとも頭がしっかりして、お話も楽
しいが、こうしてみると、まもなく96歳の父は見
た目も年のわりには若いのだなぁと思う。

「私は三人の息子を育てたんじゃけど、長男が去
年63歳で肺がんで死んだんよ。私が変わってやり
たかったが、そうもいかんのよねぇ」と、おばあ
さんは身の上話を聞かせてくれた。

先週末、友人と会ったときに、「子どもにとって、
親を見送るということは、年の順に自然の流れで
生きてこれたという意味でも、ありがたいお役目
だねぇ」と話したことをしみじみと思い出した。

「ここまで長生きしてくれて、ありがとう」と、
心の中で父に感謝した。

*きょうは比叡山坂本駅から電車に乗った。
28jun09

PTA役員会

わずか二泊三日の帰省だったのに、本当に久々の我が家の
ような気がする。それだけ、いろんなことがあったのかな。

実家で進めようと思った仕事もできず、今になって焦って
いるが、体調もいまいちで、なかなか進まない。う~ん。

夜はPTA役員会。平和な学校に見えて、問題もいくつかある
のだ…と、役員になって初めて知った。「問題があれば、
お互いに包み隠さず話して、情報を共有して、解決策を考
える」という去年の会長さんの提案に、納得。それが一番。

実践しなきゃ。

24jun09

父の戦争中の思い出@南大東島

きょうは父の施設に介護認定のための市の調査員の方や、
在宅時のケアマネさん、母を担当してくださっている包括
支援センターの方、そしてふたりが一緒に入れる可能性の
ある施設の方が次々と来てくださった。今後どうするか、
考えていくためだ。

今では誰が誰なのか容易にはわからなくなってしまった父
だが、ふたりきりでしばらく一緒にいると、少しずつわか
ってきて、昔話を始めてくれた。もう何度も聞いた話だが、
きょうはいつもより詳しい。

終戦間近に徴兵されて南大東島にいた時の話だ。「わしら
は年をとった、上等じゃない兵隊じゃったけぇ。あの島に
行っても敵は来ゃあせん。食べ物がないけぇ、やること言
うたら、芋を植えたり、魚を獲るくらいよ。ひとりで坂を
おりて貝や魚を獲りよったら、バシャ~ッと大きな波がき
てさらわれて、ああ、しもうた、もうこりゃダメじゃ…思
うたら、おクワさん(母親の名前)がわしの名前を呼ぶ声
が聞こえた。それで我に返ったら、目の前に岩があって、
それで助かった。あの声が聞こえんかたったら、海に流さ
れて死んどった。郷里におったおクワさんの声がなんで聞
こえたんか、いまだにわからんのんよ。」

そして、「『天皇陛下万歳!』て言よーたが、ほんまは
『おクワさん、万歳』じゃったんよ」と言うと、にま~っ
と笑った。「わしが無茶して生きよったけ、おクワさんが
名前を呼んだんじゃろうの~。あんたも、何かあったら(
母親に)名前を呼んでもらえーよ」。

少し元気を取り戻した母も、同室の方々などの身の上話を
聞いて、自分の幸せをつくづく感じたと話してくれた。両
親を早くに亡くしたので苦労はあったが、小さい頃は母親
にとことん可愛がってもらった思い出しかないと。末っ子
の母は夕飯後も母親に抱っこしてもらい、毎晩のように仲
のいい両親のお喋りをなんとはなしに聞いていたという。

そして私も母と同じような子ども時代を過ごさせてもらっ
た。だから、小さい頃から私の夢は「お母さんのようなお
母さんになること」だった。それがかなっているかどうか
は息子に確かめないといけないが、とりあえず、私はずっ
と幸せだ。

何歳になっても、みんな「お母さん」への思いは変わらな
いのだなぁ。

*母の病院に救急ヘリが到着!
22jun09

初めて知る親戚の存在

雨の中、消防団の訓練を終えて夫がお昼前に戻って来た。
私は午後から広島に向けて出発。母の具合がどうなって
いるか心配していたが、意外なことに、すべての管がと
れて、顔も少しふっくら。出される食事はほぼ完食でき
るようになったという。わずか一週間で、こんなに変わ
るのか…と嬉しい驚きだ。

その後、従姉から報告事項があり(きょうの午後、私た
ちを代表して田舎の役所の会合に出席してくれたのだ)、
今まで知らなかった神戸在住の親戚に出会った話などを
聞いた。私たちが知らないだけで、ルーツを同じくする
人が、あちこちにいるのだと思うと、まさに人類はみな
兄弟!の気分。

遅くなったので、父も伯母ももう寝ているだろうと、施
設に行くのはやめにした。
父の日のプレゼント(?)は、明日渡そう。

21jun09

朗読・暗唱発表会

きょうも電話であちこちとやりとり。親のことだけでなく、
いろんな雑用がたまっている。時間は多少かかっても、少
しずつすべての方向性は定まっていくのだろう。

午後からは、学校の参観日。きょうは全校生徒による朗読
暗唱発表会だ。図書館にみんな集まり、一年生から順に学
年ごとの発表をして、最後に全校生徒による群読「おおき
くなるっていうことは」。

ひとりひとりの表情がすべて丸見えの、これくらい小規模
の聴衆を前にして、ひとりで詩の暗唱をするのって、却っ
て緊張するような気がするが、子どもたちは何のてらいも
なく、心をこめて言葉を発する。(ただし、しょっぱなで
一年生の男の子が恥ずかしさのあまり泣き出したけど!)

全校生徒わずか20名。保護者を含め、みんな顔も名前もよ
く知っている。それぞれの子どもの成長を目の当たりにし
て、涙が出るほど感動した。(必死で抑えたんだけど。)
たぶん、それは私だけではなかったはず。

子どもたちは、みんなの宝だとつくづく思った。

17jun09

心の折り合い(介護とは)

認知症が急激に進んだ父は、施設内で他人の部屋に
入ったり、いろいろ迷惑をかけたらしい。方向感覚
がなくなって、自分の部屋がわからなくなるようだ。
それから、母だと思って後をついていったら、違う
人だった…とも私に話していた。

日曜日に会った時には急激な変化に驚いたけれど、
月曜に会いに行くと、おかしなことは言いながらも、
母の具合はどうか?と訊いてきた。そして日曜も月
曜も、孫がどうしているかと質問してきた。そして、
ぶつぶつ不満を言いながらも、顔はにこにこ笑って、
結局このままでいいと言う。私が帰らないといけな
いと告げると、気をつけて早う行きんさいと手を振
ってくれた。

自宅に戻ると、両親がどうしているだろうかと心配
になる。実家にいれば、今も顔を見に行けるのに。
逆に実家に帰省中は、夫や子供に寂しい思いをさせ
ていると、これまた心苦しい。どちらにいても、心
は落ち着かない。身体がふたつあればいいのに。

きょうも今後のことを含め、何人かの方に電話をし
て情報やアドバイスをいただいた。介護制度につい
ては、いまだによくわからないことだらけで、人に
よって「これは誰がするべき仕事か」の解釈が違っ
ていたりする。それでも、皆さんに共通するのは、
「家族が家で面倒をみるべき」とは思っていないこ
と。むしろ皆さん、私が無理をしないように気遣っ
てくださる。「遠いんだし、子どもさんもいるんだ
し、頻繁に来るのは大変だから、人に任せられるこ
とは任せなさい」というようなことを、何度も言わ
れた。「手はかけずに、愛情をかけろ」と。

あとは自分の心の折り合いをつけるだけ。
「人間、どこにいても同じ」と言っていた私なのに、
いつもふたり二人三脚で仲良くやってきた両親が、
離れ離れになったのが、切ないのだ。むしろ当人た
ちの方が、十分に覚悟もできて、今の状態を受け入
れている。

よくよく考えれば、私が自分の家庭を大切にするこ
とが、両親が一番喜ぶことなのだと思う。あんなに
孫のことが気になるんだから。

実家の事務所を借りてくださっている社長さんは、
「介護は人から人へと繋いでやっていくもの」とい
うのが口癖。利用できるものは何でも利用して下さ
いと、本当に親身になって相談に乗ってくださる。
両親のお陰で、いろんな方と繋がって、いい勉強を
している気分。

午後の雷雨の後、夕方やっと晴れてきた。私の心に
も陽射しが射し込んできたようだ。

*やっとデジカメも戻ってきた。
16jun09

16jun09-2

衰えていく両親。現実は厳しい!

二週間ぶりに帰ったら、母の病状は悪化し、父の認知症は
驚くほど急激に進行していた。ときたま顔を見に行ってく
れる従姉も、父の急変ぶりにショックを受けるほど。二週
間前に従姉と私と一緒に、母の見舞いに行ったことも父は
覚えていない。最初は私のこともスタッフだと思っていた。
名前を告げるとわかってくれたので、ほっとした。しかも、
「○○はもっと古い顔をしとると思うとったけぇ。若いけ、
わからんかった!」と笑わせてくれた。
しかし…二週間前にはまともなことも半分は言っていた父
なのに。

一時は少し体重が増えた母も、またげっそり痩せてしまっ
た。今後、退院しても自宅生活は無理だから、なるべく父
と一緒に入れる施設を探して欲しいと言っていたが、今は
もう別々の施設になっても仕方ないと、覚悟しているよう
だ。

ふたりの状況が違うので、同じところというのはなかなか
難しい。「なるべく家で死にたいね、なるべく最後まで一
緒にいたいね」と思っても、現実的には厳しいようだ。

とりあえず、ふたりとも身体のどこかが痛いとか苦しいと
いうことはないので、それだけはよかったのだけど。